マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第1主日 聖餐式 『イエス様の再臨に目を覚ます』

 本日は降臨節第1主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書2:1-5 と詩編122編とマタイによる福音書24 :37-44。神の御心がどこにあるか探し求めながら、イエス様の再臨される時に向けて、一日一日を「目を覚まして」生きることができるよう祈り求めました。
「終わりの日」とは、神が直接、支配・統治する状況であり、それを垣間見る例としてマザー・テレサの働きについても言及しました。

   イエス様の再臨に目を覚ます

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン 
 
 本日は降臨節第1主日、今日から教会暦は新しい年です。「降臨節」はカトリックプロテスタントの一部の教派では「待降節」と呼んでいます。降臨節待降節も英語では同じ「アドベント」です。ラテン語では「アドベントゥス」と言います。その動詞形が「アドベニオー」です。「アド」は「そばに、近くに」、「ベニオー」は「来る」という意味です。「アド」と「ベニオー」が合わさって「アドベニオー」(近くに来る、到来)という言葉が生まれました。その名詞形「アドベントゥス」から英語の「アドベント」という言葉が生まれました。ですから、「アドベント」は「だんだんやってくる」という意味を持っています。「何がやってくるか」と言いますと「救い主イエス様」であり、「主イエス様」の到来、来臨を期待を込めて待つ期節、それが降臨節なのであります。
 降臨節はもちろん「主イエス様」の来臨も待つのですが、今日の福音書に記されているように、イエス様が再び来られる時、キリスト教用語で言う「再臨」の時も、私たちが待つ大切な時であります。このように、降臨節にはイエス様の来臨と再臨の二つの時を待つという意味があるのです。
  
 また、聖書日課については今日からA年となり、これからの一年はマタイによる福音書を中心に読み進めていくことになります。
 降臨節第1主日A年の福音書はマタイによる福音書第24章37節以下で、再臨が遅れていることにより、教会がノアの時代の人々のようにこの世的な生き方に慣れ親しみ、怠惰に陥らないようにとの、強い戒めが述ベられています。旧約聖書イザヤ書2章の、終わりの日にエルサレムを中心にして多くの国民が集う、終末の平和を語る部分が選ばれています。

 主イエス様が再び来られる時に何が起こるのか、そのことを今日の福音書から見ていきたいと思います。
 ただ今お読みいたしました福音書は、エルサレムに入城した週の火曜日にイエス様がオリーブ山で弟子たちに語った箇所です。初めに旧約聖書のノアの洪水の物語が紹介され、ノアたち以外の誰も洪水が来るなどということは夢にも思わず、そこに洪水が襲ってきたと語られます。「何も気が付かなかった」という言葉が耳に残ります。そのあと二人のうちの一人は「取られ」もう一人は「残される」という話が二回くりかえして語られます。いつ起こるか分からないということが、42節の「目を覚ましていなさい」という言葉によって忠告されます。最後は盗人がいつやって来るか知っていたら家の主人は目を覚ましていて、自分の家に忍び込ませたりはしないだろうという話で、ここでも「目を覚まして」いることが強調されています。

 今日の福音書の箇所で一番分かりにくいのは40節・41節かもしれません。こうあります。
「その時、畑に二人の人がいれば、一人は取られ、一人は残される。二人の女が臼を挽いていれば、一人は取られ、一人は残される。」
 ここで「取られ」と訳されている言葉は、以前の新共同訳では「連れて行かれ」と訳されていました。「取られ」とか「連れて行かれ」という日本語の言葉のニュアンスでは分かりにくくなっていますが、これは天の国(神の国)、神の支配するところに「連れて行ってもらえる」といういい意味なのです。それに対して「残される」という言葉は「放置する」とか「ほうっておかれる」と訳すこともできる厳しい言葉です。また、一人は「取られ」、一人は「残される」と受動態で表されている、この受動態は「誰によって」が書かれていません。このような受動態は、その行為が神によるものであることを示す神的受動態です。畑で働く二人の人や臼を挽く二人の女の間にある善悪の区別は、人間の目には分かりません。人間の目には同じように見える二人ですが、神の目はその違いを見分けることができるということを示しているのであります。

 今日の福音書の初めに「人の子が来るのは」という言葉がありますので、これはイエス様が再び来る「再臨」の時のことが語られていると分かります。再臨の前には「終末」があると信じられていて、その終末(終わりの日)がある日突然やってきて、その時には世界が崩壊するような恐ろしいことが起こるということが今日の福音書に語られていることです。
 「終わりの日」については本日の旧約聖書イザヤ書第2章2節前半と4節にこうあります。
「終わりの日に 主の家の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。・・・主は国々の間を裁き 多くの民のために判決を下される。彼らはその剣を鋤に その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず もはや戦いを学ぶことはない。」
 ここで語られている「終わりの日」は「救いの日」であり、平和に満ちた状態の世界であります。今、ウクライナで行われている戦争を思うとき、この言葉は特別な響きを持ちます。もしイザヤが「救いの日」の到来を現代の言葉で語ったらこう表現するのではないでしょうか? 「核兵器やミサイルの製造に使うお金が飢えている人々の食べ物に還元され、一部の人に独占されている土地が家のない人々の住まいとなる」と。
 これこそ私たちが理想とする状態であると言えます。真の平和に満ちた状態です。私たちは皆、武器を捨てて争いを止め、互いに助け合い、すべてを分かち合い、共に生きるようになる世界が来ることを待ち望んでいます。「終わりの日(救いの日)」とは、それが実現する時です。それは天の国(つまり、神の国)、神が直接、支配・統治する国であります。
  それは未だ来ていない時でありますが、私たちのこの世界に時々ではありますが、神の支配する世界が垣間見えることがあります。たとえば、それはマザー・テレサの働きの中に見ることができると思います。インドの町で、誰にも看取られることなく息を引き取っていく人のために「死を待つ人の家」が建てられました。「死んでいく人をただ看取るなどという活動に何の意味があるのか、むしろ病気を治す活動をすることの方がよほど意味がある」といった批判を受けながらも、マザ-・テレサは頑固に自分の働きを続けたのでした。マザーの貫いた姿勢は人々の心を動かし、一人で始めた活動はいつしか世界中に広がりを見せることとなりました。それはマザーの働きの中にこの世の価値観を越えたもの、天の国(神の国)が垣間見え、あるいは「もはや戦いを学ぶことはない」というイザヤ書の言葉が実現しているのが見えたから、それが多くの人の心をとらえたのではなかったでしょうか?
 そのマザー・テレサの「2023年のカレンダー」は「平和」がテーマです。

 マザーは11・12月のところで「愛の働きは平和の働きだということを忘れないようにしなさい」と言います。カレンダーの1・2月にはマザーの言葉で「神が私たちを造られたのは、互いに争うためではありません。互いに愛し合うためなのです。」とあります。また、7・8月には「いつ平和になるかって? それは私たちが分かち合うことを学んだ時です。」とあります。もし、私たちが貧しい人、苦しんでいる人の叫びに耳を傾け、持っているもの分かち合うなら、すべての人が大切にされ、人間らしく生きることのできる世界を実現するなら、きっとその時、戦争はなくなると思うのであります。ウクライナでも一刻も早くそのような状態になるよう祈るものです。

 本日の交唱した詩編122編、これはエルサレムに巡礼に来た詩人が  エルサレムをたたえつつその平和を祈る詩です。これは、エルサレムだけでなく、今日の私たちの祈りとすべきと思います。8節に「わたしの兄弟、わたしの友のために祈ろう∥「エルサレムに平和があるように」とありますように、 家庭に、職場に、地域に、日本に、そして世界に、主の平和が豊かにありますように祈るものであります。

 皆さん、本日は「目を覚ます」という言葉が福音書のキーワードであり、「待つ」ことが降臨節のキーワードですが、「目を覚ます」とか「待つ」という言葉が具体的に表すことは、「神の御心をいつも行いなさい」という勧めであると思います。神の御心をいつも行う者にとって「終末(世の終わり)」は恐ろしいものではありません。それは主イエス様の再臨する世界であり、そこは神の国、神が支配・統治する国です。それは私たちが待ち望んだ世界で、神の御心がなされる世界です。そこは平和に満ちた世界であります。私たちは、神の御心がどこにあるか探し求めながら、イエス様の再臨される時に備え、一日一日を「目を覚まして」生きることができるよう祈り求め、この降臨節を過ごして参りたいと思います。