マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『神の願いに答える願い、それが祈り』

 先主日の礼拝の説教の中で「祈りとは神様の前に自分を置き、神様に見つめてもらうこと」と話しました。これはフランシスコ教皇が訪日した折りに、ある青年の質問に答えた教皇の言葉を簡潔にしたものです。さらに言えば、先主日の説教で使用した絵本の一場面では、イエス様と弟子たちが見つめ合っている様子が描かれていましたが、祈りは一方通行ではなく相互に交わる(インタラクティブ)ものであります。
 「祈り」については、かつて読んだカルメル会の奥村一郎神父の著書「祈り」のことを思いだし、読み返しています。

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 この本の巻末の期日を見ると「昭和56年2月10日 7版発行」とありました。私の受洗はその年の4月のイースターですので、受洗前後に読んだように思います。赤鉛筆の傍線がかなりありますので、熱心に読んだことがうかがわれます。
 この本には哲学的理解(1章)、神学的理解(2-9章)、人間論的理解(10-12章)、キリスト論的理解(13-14章)が書かれています。この中で、仏教、特に禅について深い研究と経験を積んだ後に洗礼を受け、神父となった著者が、独特の切り口で祈りを説明されています。
  この本の中にこうあります。
『祈りの本質は、神に対する私たちの願いがききいれられるかどうかというよりも、私たちに対する神の思いの実現を願い、それに信頼することにある。祈りの中心は神の願いを願いとすること、つまり神の祈りが私たちの祈りの魂とならなくてはならない。神の願いに答える願い、それが祈りなのである。』
 自分の願いごとや望みにこだわるのでなく、神の願いを願いとし神の望みを望みとすることが、本当の「祈り」なのだ、というのです。

 私はこのことから、八木重吉のある詩を思い浮かべます。彼の死後に刊行された第二詩集「貧しき信徒」の中にある「ひかる人」という詩です。
  「ひかる人」 
 私をぬぐうてしまい
 そこのとこへひかるような人をたたせたい 
 自分を捨て神の望みを自分の望みとしたい、しかしなかなかそうできない人間の苦悩のようなものも私はこの詩から感じます。

 神の願いを知り、それを自分の願いとするよう、カトリック教会で伝統的に重視してきた祈り方についても奥村神父は言及しています。それは、口祷、黙想、念祷です。
『①口祷は「声の祈り」とも言われる。
 弟子に「祈りの仕方を教えてほしい」と言われたイエス様は、「天におられる私たちの父よ、・・・」と「主の祈り」を教えてくださったが、それが口祷の祈りの代表的なものである。
②黙想とは、何よりも聖書の神の言葉から始まる、祈りのうちに行なわれる内省である。
 黙想する時には、聖書(特に福音書)、聖画像、当日ないし季節の典礼文、霊的書物などを用いる。
③念祷とは、観想(見神)的な祈りである。
 聖テレジアは、「念祷とは、わたしを愛しておられる神としばし語り合う、友愛の親密な交わりです。」と語っている。友人同士が語り合うことを通してお互いの理解を深めることができるように、念祷を通して主のことをより理解し、主が我々を愛しておられることや、主がお望みのことを知ることができる。』
 ここのところ、ブログで思い巡らしている「祈り」は、主にこの③念祷のことであったように思います。それは、神様の前に自分を置き、神様と見つめ合い、神様と親しく語り合うことであったと言えます。
 そして、究極の祈りは自分の願いが神の願いと一致することであり、最終的な願いは神様と一つになることだと考えます。

 この本の中にある『キリスト者の祈りは、思うこと(心理的)、あること(存在論的)は、すべて、すること、すなわち神のみ旨を果たすことの願いと、その絶え間ない努力に収斂(しゅうれん)されていくものでなくてはならない』という言葉は、ヨハネ17・11にあるように、『すべてのものが神において「一つのもの」になるという、個人の祈りを超えた人類の祈りとして現れてくる』ということです。
 ヨハネ17・11はこうです。イエス様が最後の晩餐における告別説教で弟子たちに語ったものの一部です
「私は、もはや世にはいません。彼らは世におりますが、私は御もとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。」

 さらに、奥村神父の「祈り」では、祈りの形態について4つの形態が述べられています。
『①絶えまなき祈り(いつでも祈る)、②生活即祈り(生活全てが絶えざる祈りになる)、③定期的な祈り(毎日、毎週、毎月祈る)、④祈り以後の祈り(祈りの後の生活)』の4つです。
 祈りは風雪に耐える竹の節のようなもので、日々の生活から自己を絶ち、祈ることで生活を強めます。「神と一致するために、祈りを通じて互いに愛することを一致させなければいけない」とされています。

 この本の終わり近くにこうあります。
『祈りは、言うまでもなく、神の意志や望みに逆らうことでもなく、神の意志や望みに逆らうことでもなく、それを変更させようとすることでもない。祈りは神の望みを望みとする願いであり、祈りによって変えられるのは神ではなく私たち自身である。』
 神様の願いを自分の願いとし、神様の望みを自分の望みとすることができるよう、日々、絶えず祈り求めたいと思います。
 
 最後に「祈」という八木重吉の詩を紹介します。昭和3年(八木重吉召天の翌年)1月、「詩之家 第4年第1輯」に掲載された「八木重吉遺稿」の「冬」他10篇の中の一つです。
   「祈」
   行きなれた道が堪らなく
   懐かしいように
   私の祈りの道を作りたい
 「祈りの道を作る」ということは、行きなれた道ができなければいけないので、そのことを、毎日の起床、就寝時等において、日常的に絶えず祈って参りたいと思います。