マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第23主日(特定26) 聖餐式 『神を愛し、隣人を愛す』

 本日は聖霊降臨後第23主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は申命記6:1-9とマルコによる福音書12:28-34。説教では、神と隣人を愛するという、この最も重要な戒めを私たちの生活の中で実践する恵みを願い、神の愛の中に生きていることを思いながら日々過ごすよう共に祈りを捧げました。また、午後1時からの教会墓地での「逝去者記念の式」で読まれた詩篇23編から、死後も私たちと共におられる主イエス様について言及しました。

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   『神を愛し、隣人を愛す』

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日の福音書箇所は、マルコによる福音書12:28-34。エルサレム神殿の境内でのイエス様と律法学者との律法論争の一つで、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「最も重要な戒め」です。
 今日の箇所を、解説を加えて振り返ってみましょう。

 イエス様の所に一人の律法学者がやって来て、イエス様に尋ねました。
「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか。」
 モーセが神から授けられたとする戒め、律法は、全部で613あると言われていました。後世の言い伝えや「ラビ(先生)、誰々が言った」と伝えられる律法の解釈も、すべて戒めとして守られていたと言いますから、その当時は、戒め、律法の数は、無数にあったと考えられます。その無数にある戒め、律法の中から、「どの戒めがいちばん重要でしょうか」と、律法の専門家である律法学者がイエス様の所に来て、尋ねたのです。
 これに対して、イエス様は、こうお答えになりました。29節から31節です。
「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」
 この第一の戒めというのは、先ほど読んでいただきました本日の旧約聖書申命記6章4節から5節に、記されている戒めです。
「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」です。
 これは、モーセが、神から啓示を受けた言葉です。当時のユダヤ人なら、誰でも知っている、最も大切な戒めの一つでした。「私たちの」神とわざわざ断るのは、出エジプトなど、神との親密な歴史を思い起こさせ、神の愛に注意を促すためです。その愛に気づいた者に「あなたの」神を愛しなさい、と呼びかけているのです。「心、魂、思い」など、人間の持つすべての力をあげて神を愛せるのは、神が先に人を愛したからであります。
 そして、イエス様は、続いて、「隣人を自分のように愛しなさい」と、第二の戒めを語られました。これも旧約聖書レビ記19章18節にある戒めです。
「復讐してはならない。民の子らに恨みを抱いてはならない。隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」という律法です。これは自己愛を肯定するのではなく、自己愛に含まれる熱心さに目を向けさせ、自分を愛するあの熱心さで隣人を愛するように、と求められているのであります。
 申命記レビ記に記された、この二つの戒めは、両方とも、当時のユダヤ人なら誰でも知っている戒めでした。この二つの戒めを並べて、「この二つにまさる戒めはほかにない」と、イエス様は言われたのです。
 神への愛が「第一」とされ、隣人愛が「第二」とされますが、この区別は戒めの優劣を示すのではなく、単純に順序を示し、「(同じように重要な戒めの)一つ目は…二つ目は…」という意味です。イエス様にとって大事なことは、「これら(神と隣人への愛)よりも大きい、他の戒めはない」ということです。つまり、イエス様によれば、神と人への愛は他の戒めに抜きん出た戒めであり、律法全体を集約する戒めであるということです。こう言い切ったところに、旧約聖書と比べてイエス様の新しさがあると言えます。
 このイエス様の答えに対して、律法学者は言いました。32節から33節です。
「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」
 律法学者はイエス様の考えに賛意を表しますが、二つの点でイエス様の考えを補強しています。まずは、32節で「ほかに神はない」を加え、神の「唯一」性を強調しています。次に、33節で「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を共に「優れています」の主語としていることから分かるように、二つの愛をいっそう緊密に一つとし、それを「どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています」と述べ、愛を欠いた祭儀のむなしさを主張しています。
 そして、最後にイエス様は律法学者の答えを適切と認めた上で、「あなたは神の国から遠くはない」と言われました。この時、イエス様が言われた「遠くはない」とは、どういう意味でしょうか? イエス様が「遠くはない」と言われたのは、まだすべきことが残っているからと考えられます。律法の理解はこの律法学者と一致している。しかしこれだけでは不十分である。では何が足りないか? それは「イエス様の福音を信じること」と考えます。これに「聞き従うことがまだ行えていない」とイエス様は言っていると思います。この後は誰も質問しませんでした。
 このような話でした。

 さて、今日の箇所で神様が私たちに伝えたいと思っているのは、どのようなことでしょうか?
 それは、一言で言えば「神と隣人を愛しなさい」ということかと思います。しかし、愛は義務なのでしょうか? ここの「愛しなさい」と訳されたギリシャ語原文を見ると、神の愛を表す「アガパオー」の二人称・単数・未来形でした。「あなたは神と人を愛するでしょう」ということであり、英語の聖書(NRSV)ではYou shall love ~. とありました。神から愛された経験が先にあり、だから、「神と隣人を愛するだろう」というのです。神と隣人を愛する前提には神がまず先に人を愛したということがあり、それに応えて人が神を愛しその愛に生きるとき、自分を愛し隣人も愛することができるということなのだと思います。神様はそのことを私たちに伝えたいのではないでしょうか?

 ところで、本日は礼拝後、午後1時から嶺公園の教会墓地で「逝去者記念の式」が行われます。明日11月1日が諸聖徒日、2日が諸魂日であることによります。諸聖徒日は世を去ったすべての聖徒(聖人)たちのために祈る祝日であり、諸魂日は世を去ったすべての信徒・死者の魂のために祈る日です。   
 さきほど、神がまず先に人を愛したということを話しましたが、その神の愛は死後も続きます。本日の「逝去者記念の式」でも読まれる、詩篇23編4節にこうあります。
『死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。』(新共同訳)
 死後も主イエス様は私と共におられるのです。6節にこうあります。
『命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。』(新共同訳)
 私たちは、死後は神の家に帰り(帰天)、そこにずっと留まるのであります。

 皆さん、人が神を愛する前に、神は私たち人間を愛しておられるのであります。この神の愛を生きて示したイエス様の福音に耳を澄まし聞き従うとき、人は神と隣人への愛を生きる者へと変えられていくのであります。
 神と隣人を愛するという、この最も重要な戒め、それを私たちの生活の中で実践することができるよう、そのような恵みを願いながら毎日を過ごして参りましょう。そして何より神の恵み、神の愛の中に生きていることを思いながら、感謝のうちにこれからの日々を過ごせるよう共に祈りを捧げたいと思います。