マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「祈り求める」の真意とは何か』

 前々回のブログで、ギリシャ語原語等から「祈るとは神様の前に自分を置くこと」をテーマに語りました。そこでは、「祈りは自分の願いを神様に求めることではない」というニュアンスで記しました。では、聖書にもあり、私が説教の終わりで述べることもある「祈り求める」とはどういうことなのか、今回はそのことについて思い巡らしたいと思います。

 マタイによる福音書21:22にこうあります。
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(聖書協会共同訳)
 これを字義通り取れば、「祈れば何でも自分の願うものが得られる」ように読み取れます。そんな自分の都合のいいことがあるのでしょうか? 聖書の真意はどうなのでしょうか?
 ここに注目すべき訳があります。それは前々回のブログで紹介した山浦玄嗣氏が訳した「ガリラヤのイェシュー」によるものです。

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 ここではマタイによる福音書21:22はこう訳されています。
「いいか。神さまにシッカリと心を委ねて、何とかして神さまのお役に立ちたいものだと思いますが、どのようにしたらいいものでござりましょうかと、神さまのお声に心の耳を澄ませ。そうして願う願いごとなら、何だって確かに必ず叶うのだ。」

 これまでの訳とは大分違います。山浦玄嗣氏は「祈り」について「イエスの言葉 ケセン語訳」の中で、聖書で言う「祈り」について次のように言っています。
ユダヤ教では、天地万物の造り主である神さまこそ人間のあるじ。人は神さまの計画のために作られた道具であり、ひたすら、神さまのお声を聴くことこそ最も正しい態度だと考えます。キリスト教もまた同じです。「神さま、お声を聞かせてください。わたしをお役に立ててください。わたしはそのためにこそ神さまに造っていただいたのです。お役に立てることこそ、わたしの無上の光栄です。どうぞ、お示しください。何をしたらよろしいのでしょうか。」というのが、聖書で言う「祈り」の意味です。』

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 この本の中ででさらにこう言っています。
『「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」この訳は舌足らずで大きな誤解を招きます。祈りはアラジンの魔法のランプではありません。「神さまに全幅の信頼をおきつつ、自分の使命について神さまのお声を聞きたいという思い(プロセウコマイすること)で、乞い求める(デオマイする)なら、それはすべて必ずかなう」という意味であり、これこそが人間が神さまに対してとるべきもっともふさわしい態度なのだと、聖書は教えているのです。』
 「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」とは、自分が求める願いでなく、「神さまの声を聴きたいという姿勢で神さまの思い(御心)が実現するように求めるなら、必ずかなう」というのは、納得できる解釈です。

 「祈り求める」ということで、もう一つの例を挙げたいと思います。
 マルコによる福音書11:24にこうあります。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(聖書協会共同訳)
 これも字義通り取れば、「願って求めればその通りになる」というふうに取られかねません。イエス様の真意はどこにあるのでしょうか?
 「ガリラヤのイェシュー」による訳はこうです。
「だから、お前たちに言っておく。お前たちは、神さまがこの自分に何をさせたくていなさるか是非教えてくださりませと、心からそうお願いしているなら、それは何だって、実は既にお教えいただいているんだと、心から頼もしく思っていろ。そうすれば、必ずその通りになって、神さまの御心を悟ることができるのだ。」
 マルコ福音書11:24の「祈り求める」と訳されてきた言葉の本当の意味は、「神さまがこの自分に何をさせたくていなさるか是非教えてくださりませ」ということであり、言い換えれば「神さまが私に何をさせたいのかを分からせてください」と求めることです。そういうふうにして求める「神さまの御心にそうことは、すべてかなえてくださる」とイエス様はおっしゃたのです。

  私が説教の終わりで述べることもある「祈り求める」の真意とは、「自分の思う願いがかなうよう求める」ということではなく、自分に与えられた器に従って「どうやったら神様に喜んでいただけるか、神様の御心を果たすことができるよう常に追い求める」ことであると思います。「自分の願いを神様の願いに替えていただけるよう祈り求める」ことが祈りの真髄であると考えます。