マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『お祈りはACTS』

 2024年度が始まりました。私にとっては定年までの最後の一年です。悔いのないようにできる限りの宣教・牧会に努めたいと思います。その一環で4月から「聖書に聴く会(Zoom)」の名称と内容を変更しました。「聖書と祈りの会」とし、聖書理解の分かち合いと自由祈祷の学び等を行うことにしました。
 その理由は、この会を説教で言い足りなかったことの補強や重箱の隅をつつくようなものでなく、一人一人が自分で聖書を理解しそれを分かち合うとともに、神様との距離を短くし、自分の言葉で祈ることができるようになってほしいとの願いからでした。
 先週のこの会では、祈りの具体的な方法として「ACTS」について学びました。事前に資料を参加者にメールで配布しましたが、それはこの小冊子からのものでした。BSA<信徒叢書7>の今井烝治司祭の「聖公会という名の教会(二)」です。

    この中のP.4、5にこうあります。

 この資料にありますように、祈りは神様との対話であり、ACTS「行い」とよく言われます。ACTSとは、AはAdoration賛美。CはConfession懺悔(告白)。TはThanks giving感謝。SはSupplication祈願であり、祈りはこの四つの内容をもっている、というものです。
 それぞれ少し解説します。
○ Adoration 賛美
 賛美とは、神様の素晴らしさを言葉で表現することです。「崇めること」です。神様は、私たちの創造主であり私たちの牧者(羊飼い)で、私たちは神様の被造物でありその牧場の羊です。Adorationとは、私たちを造った方を賛美し崇めることです。よく手紙の初め等に「主の聖名を賛美します」等と記すのはこのことです。
○ Confession 懺悔(告白)
 自分を振り返り、罪を告白することです。私たちは日々の生活の中で、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しています。それを認めて神様の前に懺悔することは神様が喜ばれることです。イエス様の弟子たちのように「あなたはメシアです」「私の主、私の神」のように信仰告白することも含まれるように思います。
○ Thanks giving 感謝
 感謝を献げることです。2024年度のマッテア教会の宣教聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節)です。この聖句の続きに「これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。神様は何事にも感謝することを私たちに望んでおられるのである。
○ Supplication 祈願
 Supplicationは、「嘆願」や「懇願」とも訳せる言葉で、単に願うのでなく、強く継続的に願うことです。マタイによる福音書7章 7節にある通り、神様はその成果を約束されています。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」と。

 私たちの祈りは、「感謝」と「祈願」は必ず入っていますが、「賛美」と「懺悔(告白)」は少ないように思います。一回の祈りにACTSの四つ全部を入れなくてもいいと思いますが、この四つの内容を意識することは意義あることと考えます。
 また、ACTSとともに、代祷(とりなしの祈り)Intercessionにも配慮することは大切です。それは友や他者のために祈ることです。
  そして、イエス様のゲッセマネの祈りや十字架上の「み手にゆだねます」との祈りのように、神様のみ心がなされるよう、私たちがそうできるように祈り求めたいと思います。
 ぜひ、皆さん、ACTSと代祷等に配慮して、神様と積極的に対話してみてください。それにより、日々の生活が豊かになります。

『服部良一とキリスト教』

 この3月でNHK朝の連絡テレビ小説「ブギウギ」が終了しました。戦前は「スウィングの女王」、戦後は「ブギの女王」と言われ、多くの人に支持された笠置シヅ子をモデルとした作品でした。趣里が熱演していました。私は毎朝よく見ていました。この笠置シヅ子に多くの作品を提供したのが服部良一です。このドラマでは草彅剛が演じていました。
 私はある知的障害者の施設で月2回ミュージック・ケアをしているのですが、先日のセッションで「東京ブギウギ」を取り上げたところ、いつも「いいよー」と首を振ってしたがらないHさんが、この曲に合わせて鳴子と鈴を振ってうれしそうに行進する様子がありました。「東京ブギウギ」のリズムが快かったのでしょうか? 服部サウンド、恐るべしです。
  服部良一の音楽は、同時代の古賀政男などと比べるとジャズやポップス色が強くバタ臭いものです。曲調もどちらかというと明るく長調が多く、人生を謳歌し励ますような歌詞が多いように思います。
 彼の音楽のルーツは何か、と思って彼の自叙伝「ぼくの音楽人生」を購入し読み進めました。

すると、この本の最初のほうの「明治・大正の洋楽」という項目の中にこうありました。
『明治の洋楽で、今一つ忘れてならないのは讃美歌だと思う。開港開国とともにキリスト教が奔流のごとく入ってきて、教会が津々浦々に建てられた。楽器は主としてオルガンだったが、その音色とともに歌われる讃美歌は文明開化を象徴するようなハイカラな旋律だった。
 ぼくの西洋音楽への目覚めも、この讃美歌であったといっていい。六歳の頃だ。近くにメソジスト派の教会があって、日曜学校をひらいていた。そこで、初めてオルガンというものを見聞し、讃美歌を歌った。子供のころのぼくの声は女の子ように澄んだ美しい音色のボーイソプラノだったそうである。そこで教会の合唱隊の一員に加えられ、いつもソプラノパートを歌っていた。日曜学校には十歳くらいまでの四年間ほど通い続けた。(P.19,20)』
 服部良一の音楽のルーツの一つは讃美歌だったのです。6歳から10歳という少年期に、メソジスト派の教会に通い聖歌隊で合唱していたのです。メソジスト派は音楽を重要視して、有名な讃美歌作曲家であるチャールズ・ウェスレーが多くの名曲を生み出しています。おそらく服部良一少年は日曜学校の教えと讃美歌等の教会音楽から大きな影響を受けたと考えられます。ちなみに、先主日の説教で触れた「ジーザス・クライスト=スーパースター」の作曲家のロイド・ウェーバーも少年期にウエストミンスター寺院の聖歌隊に所属していたそうです。多くの作曲家が聖歌・讃美歌から影響を受けているのです。

   服部良一の音楽で、讃美歌のような作品を探してみました。私は彼の多くの曲を収めてある3枚組のCD「服部良一-ぼくの音楽人生-」で聞いています。

この中の3枚目に「山のかなたに」という昭和25年5月に発売された藤山一郎の歌があります。以下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=SU_8gYjYkBg

  「山のかなたに」は、石坂洋二郎の小説が昭和25年に映画化されたときに主題曲として作られました。作詞は西条八十で、歌詞は以下のようです。

1 山のかなたに あこがれて 旅の小鳥も 飛んで行く
  涙たたえた やさしの君よ 行こよ 緑の尾根越えて
2 月をかすめる 雲のよう 古い嘆きは 消えて行く
  山の青草 素足で踏んで 愛の朝日に 生きようよ    
3 赤いキャンプの 火を囲む 花の乙女の 旅の歌
  星が流れる 白樺こえて 若い時代の 朝が来る
4 山のかなたに 鳴る鐘は 聖(きよ)い祈りの アベ・マリア
  強く飛べ飛べ 心の翼 光る希望の 花のせて

  山のかなたにあるものにあこがれる。そこではアベ・マリアの祈りの鐘が鳴る、という。修道院でしょうか? そこからアンジェラスの鐘が聞こえるのでしょう。「愛の朝日」「花の乙女」「聖い祈りのアベ・マリア」「心の翼」「光る希望」などの言葉からキリスト教的な香りがしてきます。

 この「山のかなたに」と類似した聖歌・讃美歌として、思い浮かぶのが聖歌444(讃美歌301)「山べに向かいて」です。下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=deZswFUgx5g

 この曲の歌詞は以下の通りです。

1 山べに向かいて われ目を上ぐ 助けは いずかたより来たるか
  あめつちのみ神より 助けぞわれに来たる
2 み神は 汝の足を強くす み守りあれば 汝はうごかじ
  み民をば守るもの まどろみ眠りまさじ
3 み神は仇をふせぐ盾なり 汝が身をつねに守る影なり
  夜は月、昼は日も 汝をば損のうまじ
4 み神は災いをも避けしめ 疲れし魂をも休ます
  出るおり入るおりも たえせず汝を守らん 

 1節で、山に向かって目を上げると天地を創られた神から助けが来ることが分かる、と始め、2節・3節で、その神様は私たちの足を強く、盾となり私たちをいつも守ってくださる、4節で、疲れた心を休ませてくださる、と詠っています。全能の父なる神への賛歌です。
 この聖歌の歌詞は、英国の貴族ジョン・キャンベルが詩篇121編を韻律化し作詞し、それを別所梅之助が翻訳したものです。どの聖歌集にもこの歌詞で載っており、それはこの曲が日本語讃美歌として普遍的な価値を持っているからだと思います。別所梅之助(1872年-1945年)はメソジスト派の牧師、青山学院専門部・神学部教授でした。讃美歌(1903年)編集では中心的人物として携わり、それまでの生硬な歌詞を洗練された美しい日本語にする上で大きな貢献をした、と言われています。
 子供の頃、メソジスト派の教会に通っていた服部良一がこの曲に親しんでいたことは十分考えられます。そうでなくても、この聖歌・讃美歌は今でも世界中で愛唱されていますので、耳にはしていたと思います。服部良一の音楽の歌詞もメロディーも讃美歌の影響を受けていたのです。
 服部良一が影響を受けた音楽にはアメリカのブルースやジャズもあります。どちらも黒人霊歌(ゴスペルソング)から生まれています。服部良一サウンドの根っこにキリスト教があったことは間違いないと確信します。

 

復活日 聖餐式『生活の中で復活の主に出会う』

 本日は復活日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書25:6-9、詩編118:1-2・14-24、使徒言行録10:34-43、マルコによる福音書16:1-8。説教では、「空の墓」の先を見る信仰の目を養い、主イエス様のみ跡に従い、日々の生活の中で復活の主に出会い、復活の証人として力強く歩んでいくことができるよう祈り求めました。
 本日のテーマと関係した映画「ジーザス・クライスト=スーパースター」にも言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、主のご復活おめでとうございます。
 本日は復活日、イースターです。新しいチャーチオルガンでお祝いできることをうれしく思います。また、日本では年度の最後の日で、明日からは新しい年度が始まります。私は4月からはこれまでの前橋の牧師、新町の管理牧師と玉村の幼稚園のチャプレンに加えて、高崎の教会の管理牧師も任されました。定年最後の1年でもあり、主のみ守りと導きにより、できる限りの宣教・牧会に努めたいと思っております。Zoomによる「聖書と祈りの会」や会館での「キリスト教文化入門」等を宣教の器として用いて、新町や高崎との連携も図りたいと考えています。
 
  さて、本日の福音書箇所についてですが、今年はB年でマルコによる福音書の16章を朗読しました。こんなお話でした。
『イエス様が金曜日に十字架につけられて亡くなり、墓に葬られ、マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメがイエス様の遺体をもっと丁寧に処理しようと思い、日曜日の朝早く墓に行きました。当時は大きな横穴式のお墓で大きな石で蓋をしていたのですが、墓の入口の石が取り除かれ開いていて、イエス様の体がなく空(から)でした。そこに天使と思われる白い衣を着た若者がいて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」ということを告げました。それは驚きのことだったと思われます。さらにこう言いました。「御覧なさい。お納めした場所である。」と。空の墓を見せて、そして「弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」というメッセージを告げました。この墓が空であるという不思議な出来事に触れ、天使の話を聞いて、この女性たちはただただ驚きの中にありました。』
  この箇所はギリシャ語原文では印象的な受動態の文章が2つありました。それは4節の墓の入り口の「大きな石がすでに転がしてあった」と6節の若者の言葉「あの方は復活なさって」です。どちらも誰がしたかは明確に示していませんが、神が行ったことを暗示している「神的受動態」と考えられます。英語の聖書(NRSV)では、前者は「had already been rolled back」、後者は「He has been raised」とありました。墓の石を転がしたのもイエス様を復活させたのも父なる神であることが分かります。先ほど福音書前に歌った聖歌169では、2節で「墓をふさぐ石も 脇へ転がされ」、4節で「主は復活なされた われらは救われた」と、はっきり受動態で示されていました。

 今は、エルサレムの旧市街地にあるゴルゴタの丘とイエス様のお墓に巨大な聖墳墓教会という教会が立っていて、お納めしていた所がその中にあり、巡礼地になっています。私は6年前にイスラエル聖地旅行に行きましたが、旅の終わりにそこを訪ねました。ものすごい人でお墓の内部に入るのに3時間かかるというので入るのを諦めました。その時「ここには何もない、イエス様はここにはおられないのだからまあ入らなくてもいいかな」と思って、お墓を外から見て「入ることができなくても仕方がない」と自分に納得させたことを思い出しました。    
 イエス様はここにはおられない。ではどこにいるのかといったら、私たちと共におられるのです。お墓を空にして、復活した主が、私たちと共におられる。だから私たちも古い自分とか罪とか、嫌な過去とかを全て空にして、復活した主と共に新たな人生を歩んでいきたいと思うのです。

 さらに言えば、最初、女性たちは墓でイエス様に会えると思っていました。しかし、墓は空でそこではイエス様に会うことはできませんでした。天使は女性たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と伝えました。言葉を換えれば「墓はイエス様のいる場ではない。イエス様は復活の命を生きている」と言っているのだと思います。イエス様の遺体がないという事実と、そのことの意味を知らされた女性たちは墓を出て、つまり、方向を変えたのです。そして、震え上がり、恐れます。イエス様の復活はこの世の命に戻ることではなく、神様が与える新しい命を生きることなのであります。

 今日の福音書では、7節にある、「白い衣を着た若者」つまり、「天使」の言った「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」という言葉に注目しました。天使は女性たちに「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と命じます。イエス様と会うことのできる場所は墓ではなく、イエス様が先立って行くガリラヤであるということです。ガリラヤというのは弟子たちの馴染みの場所、仕事をしたり暮らしたり、そしてイエス様と共にいた自分たちの故郷です。イエス様が亡くなったのはエルサレムで、ナザレの人々にとっては馴染みのない所でイエス様は亡くなられたのですが、復活されるのはガリラヤということです。弟子たちにとって、自分たちが働いて暮らしていたその場所でイエス様が復活して、出会ってくださるというのです。これは本当に大きな恵みだと思います。
 私たちにとっての「ガリラヤ」とはどこでしょうか? それは私たちの今の現実の日々の生活ではないでしょうか? 自分が今暮らしている家庭や職場、地域など、生活し活動しているいつもの馴染みの場所が、私たちのガリラヤなのだと思います。そのガリラヤで私たちも復活した主に出会うことができる。それをこの天使が私たちに告げている、そう思うのです。
 
 ところで、最近この映画をDVDで見ました。

 それは「ジーザス・クライスト=スーパースター」という「キャッツ」や「オペラ座の怪人」等で有名なロイド・ウェーバー作曲によるロック・オペラです。この映画は1973年に公開され、イエス様最後の七日間を2000年前のエルサレムを舞台に描いていますが、イエス様の周りにいる群衆たちは現代の衣装で、使っている道具も現代のもので音楽や踊りも現代のものです。これはまるで、イエス様は2000年前のイスラエルの過去の遠いところの人ではない、今の自分が生きている日々の生活の中で、私たちはイエス様に出会うことができると言っているように思いました。

 さらに、先ほど注目した天使の言葉『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』では「あなたがたより先に」「~行かれる。」と語っています。このことは意味深いと思われます。イエス様は、私たちよりも先に行かれる、行って待っていてくださる。そこに私たちが行くのです。これは、私たちはイエス様のみ跡を歩むということです。するとそこでイエス様にお会いすることができるのです。
 言い換えれば、イエス様のみ跡を歩むことで、日々の生活の中で復活の主イエス様に出会うことができるのだと言えます。その時、私たちに必要なものは何でしょうか? それは「信仰の目」だと思います。その目を持てば「空の墓」を見て、その先にあるものを見ることができます。それにより、天使の言った「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。~そこでお目にかかれる。」という言葉の意味を正しく理解できるでしょう。
 2000年前の弟子たちは、イエス様の十字架を前に「イエス様を知らない」と言ってちりぢりになってしまいましたが、その後、復活の主と出会って、生き方が変わり、新たな信仰者として力強く歩み出しました。復活の証人としてです。このように復活の主に出会うことにより、新たな人生を歩むことができるのです。

 皆さん、復活日を迎えた私たちは、その喜びを味わうと共に、「空の墓」の先を見る信仰の目を養っていきたいと願います。そして、主イエス様のみ跡に従い、それぞれのガリラヤである、今、ここの日々の生活の中で復活の主に出会い、復活の証人として力強く歩んでいくことができるよう祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 

『聖歌145番「血しお したたる」とバッハ「マタイ受難曲」』

 本日は聖金曜日(受苦日)です。前橋での午後2時からの礼拝で聖歌を一曲だけ歌いました。聖歌145番「血しお したたる」(讃美歌136番)です。新しく入ったチャーチオルガンで、私が奏楽を担当しました。
 この聖歌は下のURLで聴く(見る)ことができます。聖マーガレット教会の有志による演奏です。
https://www.youtube.com/watch?v=EFYuhdZLnLQ

 聖歌145番「血しお したたる」の歌詞は以下の通りです。

1 血しお したたる  主の み頭(かしら)
  とげに 刺されし  主の み頭
  悩みと恥に     やつれし主を
  み使い 畏れ    君と仰ぐ
2 主のくるしみは   わがためなり
  われは死ぬべき   罪人となり
  かかる わが身に  代わりましし
  主の み心は    いと尊し 
3 なつかしき主よ   はかり知れぬ
  十字架の愛に    いかに応えん
  みいつくしみに   とこしえまで
  かたく頼りてと   仕えさせよ
4 主よ 主のもとに  帰る日まで
  十字架の影に    立たせたまえ
  み顔をあおぎ    み手によらば
  臨終(いまわ)の息も 安けくあらん 

 イエス様が「ユダヤ人の王」と嘲笑され、王冠の代わりに茨の冠をかぶせられ、両手・両足を釘付けされていて、血潮が顔を流れるままになっている様が描かれています。2節でイエス様の十字架の意味が示されます。つまり、「私のため、私の罪を贖うため」ということです。3節でその十字架の愛にどう応えるか、主に頼り仕えること、4節で帰天の時まで主を見つめ主に頼れば死を前にした時も平安であろう、と詠っています。まさに授苦日にふさわしい聖歌と言えます。

 この詩については、まず、クレルヴォーのベルナール(1090-1153)が、「十字架にかかりて苦しめるキリストの肢体への韻文の祈り」というラテン語の詩文を作詞しました。その第七部の「頭への祈り」を、17世紀のドイツの讃美歌作者パウル・ゲルハルトがドイツ語に訳した聖歌です。
 曲は、ドイツの音楽家ハンス・レーオ・ハスラーが1601年に発表した恋愛歌のために作曲した五声部の合唱曲です。その後、1656年にパウル・ゲルハルトの「血しおしたたる」にこの曲を転用して発表されました。この聖歌は、ドイツにおける、受難コラールで最も有名な曲になりました。

 聖歌145番の引照聖句であるイザヤ書53章4節-5節はこうです。
『彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。』
 いわゆる「苦難の僕」であり、イエス・キリストの予徴です。この聖句は本日の礼拝の中でも読まれました。イエス様の十字架は贖罪のためであり、イエス様は「傷ついた癒やし人」であることが示されています。テーマは聖歌145番と共通しています。

 多くの作曲家がこの聖歌を、編曲したり主題に用いています。特に、バッハのマタイ受難曲での編曲が有名で、バッハはマタイ受難曲でこの聖歌を5回も用いています。

   私はリヒター版(1958年)のこのCDで聴いています。

 カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団による1971年5月のバッハ「マタイ受難曲」を以下のURLで見る(聴く)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=z6CIFxqnNu0

 マタイ受難曲全68曲中、「血しおしたたる」のコラールが微妙に形(調)を変えて以下の5回も登場しています。
  第15曲「私を知ってください 私の守り手よ」(過越の食事)
  第17曲「私はここ あなたのみもとにとどまろう」(信仰告白
  第44曲「お前の道と」(イエス、すべてを神にゆだねる)
  第54曲「おお 血と傷にまみれ」(死の直前)
  第62曲「いつか私が世を去るとき」(息を引き取った後)

 バッハはただコラールを繰り返すだけでなく、場面に応じた工夫をしています。例えば、5回出てくるうちの最後の2回。
 4回目(第54曲)の場面は、イエス様が茨の冠をかぶせられて群衆になじられるという場面で、5回中、最も高い調性であるニ短調で歌われます。
 しかし、5回目(第62曲)にイエス様が十字架上で息を引き取って、その直後に歌われる時には、同じコラールでも最も低い調性であるイ短調で歌われます。
 聖歌145番は5回目と同じ調性のイ短調になっています。
 バッハは同じコラールを物語の状況や場面に合わせて繊細に変化させました。これは受難の物語に聴き手も参加できる仕組みであったと考えられます。
これにより、イエス様が十字架についたのは私の罪のためで、それにより贖われ新たに生きる者になったことを実感するようになっています。
 マタイ受難曲でバッハは様々な音楽的な工夫を凝らしましたが、それは福音書のメッセージを伝えるためでした。バッハは、いつも楽譜の最後に「Soli Deo Gloria(ただ神の栄光のために)」と書いていましたが、それがバッハの音楽に向かう姿勢でした。
 マタイ受難曲に聖歌145番「血しおしたたる」のコラールは5回登場するのも、それがイエス様の受難(十字架)の意味をよく表し、それが私たちへの福音(よき知らせ)となっているからであり、神様はバッハを用いて私たちにそのことを伝えていると思うのであります。

 

復活前主日 聖餐式『十字架のイエス様と向き合う』

 本日は復活前主日です。午前は前橋、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書50:4-9a、詩編31:9-16、フィリピの信徒への手紙2:5-11、マルコによる福音書15:1-39。説教では、十字架のイエス様と向き合い、神の意志を受け入れ百人隊長のような信仰を持つことができるよう、神の導きを祈り求めました。
 本日のテーマと関係して、祭壇のイエス様の磔刑像の前に身を置き向かい合うよう勧めました。
 前橋での説教原稿を下に示します。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週(Holy week)です。先ほど礼拝の冒頭に、聖堂内の聖画により「十字架の道行きの祈り」を捧げることができ、感謝いたします。
 本日はしゅろの主日Palm Sunday)とも言われます。祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入場の時に群衆がしゅろを持ちその枝を道に敷いて歓迎した日です。この後退堂聖歌で歌う第137番「ユダのわらべの」はこの日のことを歌っています。
 なお、受付にある、昨日有志により制作され、今朝、祝別された「しゅろの十字架」をお持ち帰りになり、来年の「大斎始日(灰の水曜日)」まで、思い思いの場所に保管してください。

 さて、本日の福音書箇所はマルコによる福音書15:1-39です。聖金曜日(受苦日)の夜明けの裁判から午後3時にイエス様が息を引き取られるまでを描いた箇所です。
 ここのあらすじは以下のようです。
『夜が明けると、祭司長たちはイエス様をピラトに渡しました。ピラトは祭りのたびに囚人を一人釈放していた慣習に従い、イエス様を釈放しようとします。しかし、祭司長たちに扇動された群衆たちの声に負けて、ピラトはイエス様を十字架につけるために引き渡しました。兵士のあざけりを受けた後、イエス様はゴルゴタの丘に引かれて行き、十字架につけられました。通り掛かった人々も、一緒に十字架につけられた強盗もイエス様を侮辱しました。イエス様が十字架の上で息を引き取ると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、百人隊長は「まことに、この人は神の子だった」と言うのでした。』

 本日はこの箇所の後半、15:25-39を中心にお話しします。
 25節にあるように、イエス様が十字架につけられたのは午前9時。罪状書きには、「ユダヤ人の王」とあり、ただの犯罪人の一人としてイエス様はあげられました。人々は頭を振りながら、イエス様を罵って言いました。29節・30節です。
『そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」』
 誰も十字架を意識していません。十字架にかからない賢い生き方、それこそが、救いだと思っているのでしょう。律法学者や祭司長たちはこう言いました。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。」
 彼らは上手に困難をくぐり抜け、結局は自分が良いところに置かれるために、信仰を生きようとしているように思われます。

 次に、イエス様が十字架上で述べられた言葉に注目します。34節にこうあります。
『三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。』
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」はイエス様がお話ししていたアラム語です。マルコはこの言葉をあえてイエス様が叫ばれた言葉そのもので記しました。これは父なる神様に訴える、人間的な率直な叫びです。イエス様は「わが神、わが神」と二度唱え、親しみを込めて語りました。この言葉は、詩編22編の最初の言葉でもあります。
 そして、37節です。
『しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。』
 マルコではイエス様の最後の言葉の内容は記されていませんが、ルカではこう記されています。23:46です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 ここの「私の霊を御手に委ねます。」は詩編31編6節の言葉です。もしかしたらイエス様は詩編を22編の最初からここまで唱えていたのかもしれません。
 私たちは不安と戸惑いの中で、神様に「なぜか」と問いかけます。イエス様の「なぜ」も同じだと考えます。沈黙する神様に「わが神、わが神」と呼びかけるイエス様は、「なぜ」と問いながら、神様の声が聞こえるのを待っています。この叫びは絶望ではなく、神様の応答を求める祈りです。そこにあるのは「神様への全幅の信頼」であります。
 イエス様は十字架上で、人間的な「なぜ私をお見捨てになったのですか」という訴えの後、最後は「御手に委ねます。」と神様の思い(意志)を全面的に受け入れたのです。 

 さらに、39節の百人隊長の反応を見たいと思います。こうあります。
『イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。』
 「このように」とは、イエス様が息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が裂けて神と人を断絶させていたものが取り払われたということです。それを見て、百人隊長は、「イエス様は神の子だった」と断言したのでした。異邦人であるローマの百人隊長がイエス様を神の子であると告白したのです。
 この百人隊長の反応は、35・36節の人々の反応と対照的です。どちらの箇所にも原文を見ると「そばに立っていた」という分詞(35・39節)と、「見る」という動詞(36・39節)が使われていますが、同じ動詞を使うことによって、イエス様の十字架をめぐる二つの立場が対比されています。一方にとって十字架は嘲笑の対象であり、他方にとっては神様のみ心を読み取るしるしです。何がこの違いを引き起こすかといえば、イエス様に対して取っている百人隊長の姿勢と言えます。彼は十字架の「そばに立っていた」だけでなく、イエス様と「向かい合って」います(39節)。百人隊長はイエス様と「向かい合って」いたのです。この「向かい合う」はギリシャ語原文では「エナンティオス」であり「相対している」という意味です。英語の聖書では「facing(直視して、顔と顔を合わせて)」とありました。十字架のイエス様と「向かい合う」「顔と顔を合わせる」なら、イエス様を神の子と告白する者となるのです。イエス様をからかう者は「そばに立って」はいても、目をイエス様に向けてはいません。そのような者には十字架は嘲笑の対象でしかありません。イエス様と向かい合い、十字架の死を直視する者には、十字架を通して語りかける神様の声が聞こえます。

 祭壇の、イエス様が十字架についた磔刑像をご覧ください。

  イエス様が息を引き取った瞬間の像です。これによって神と人を隔てていた幕が取り払われたのです。この十字架のイエス様と向き合うことが求められているのです。
 以前にもお話ししましたが、「祈る」のギリシャ語は「プロセウコマイ」で、この言葉は「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」の合成語で、神様・イエス様の前に自分を置くことであり、イエス様と向き合うことであります。
 イエス様の「そばに立って」からかう者となるのか、イエス様の前に自分を置き、イエス様と向き合って、「まことにこの人は神の子だ」と告白する者となるのか。十字架はどちらの側につくかを問いかけています。

 皆さん、イエス様は十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と自分の思いを神様に率直に述べました。私たちも、神様に率直に訴え懇願していいのです。心に決めた願いごとを言葉にすることを恐れてはいけません。しかし、最終的に、「父よ、私の霊を御手に委ねます。」と言うことを忘れてはならないと思います。また、異邦人である百人隊長はイエス様の前に自分を置き、向かい合って十字架のイエス様を直視しました。それにより十字架を通して語りかける神様の声が聞こえ、イエス様を神の子と告白する者に変えられました。私たちも十字架上のイエス様のように神様の思い(意志)を全面的に受け入れたいと願います。また、百人隊長のような信仰を持ちたいと願います。
 しかし、それは自分の力でできるものではありません。そうできるように神様が導いてくださるように祈る、それが私たちキリスト者の祈りなのであります。
 私たち、マッテア教会では、今年の宣教聖句に「絶えず祈りなさい。」という言葉が入っています。日々祈ることに努めたいと思います。 
 十字架のイエス様と向き合い、神様の意志を受け入れ、百人隊長のような信仰を持つことができるよう、神様の導きを祈り求めて参りましょう。

 本日は復活前主日・しゅろの主日です。今日から始まる聖週を祈りを持って過ごし、主イエス様の十字架に思いを馳せ、聖金曜日(受苦日)を経て、喜びの復活日(イースター)を迎えたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン

『ディオンヌ&フレンズ「愛のハーモニー(That's What Friends Are For)」に思う』

 約一ヶ月前になりますが、去る2月22日にバート・バカラックの「世界は愛を求めている」についてブログで述べました。バカラックといえば、私は彼の申し子とも言われるディオンヌ・ワーウィックを思い浮かべます。最近は彼女のベストアルバムであるこのCDを聞いています。

 ディオンヌ・ワーウィックの曲では「ウォーク・オン・バイ(Walk On By)」「小さな願い(I Say A Little Prayer」「サン・ホセへの道(Do You Know The Way To San Jose)」などのバカラック・ナンバーがよく知られていますが、今回は1985年発売のグラディス・ナイト、エルトン・ジョンスティーヴィー・ワンダーとの共演作「愛のハーモニー」を取り上げます。
「愛のハーモニー(That's What Friends Are For)」で、ディオンヌは初めて全米のポップ、R&Bの両チャートを制覇したそうです。
 スティーヴィー・ワンダーや彼女の姪であるホイットニー・ヒューストンらと共演したライブ映像を以下のURLで聞く(見る)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=xdY33dYWND0

「愛のハーモニー(That's What Friends Are For)」の歌詞と和訳を下に示します。

   That's What Friends Are For(愛のハーモニー)
  
And I never thought I'd feel this way And as far as I'm concerned
I'm glad I got the chance to say That I do believe I love you
こんなふうに感じるなんて思いもしなかった 私に限っていえば
こうした機会を得たことがうれしい あなたを愛しているって言えることを
 
And if I should ever go away Well, then close your eyes and try to feel
The way we do today And then if you can remember
そしてもし私が遠くへと去ることになったら あなたの瞳を閉じて感じてみて
今日の私たちのように その時にあなたが思い出せたら
 
Keep smiling, keep shining  
Knowing you can always count on me, for sure
That's what friends are for For good times and bad times
I'll be on your side forever more That's what friends are for
ずっと笑顔で、ずっと輝いて
あなただからこそいつも私を頼れる、そう
それが友だちというものだから いい時にも辛い時にも
ずっとあなたのそばにいる それが友だちというものだから

Well, you came and opened me
And now there's so much more I see
And so by the way I thank you
そう、あなたは私のもとへ来て、心を開いてくれた
そして今はたくさんのことが見える
だからとにかくあなたに感謝している

Whoa, and then for the times when we're apart 
Well, then close your eyes and know
These words are coming from my heart
And then if you can remember, oh
そして離れ離れになってる時には
そう、瞳を閉じて気づいて
これらは心の底から出た言葉
その時にあなたが思い出せたら
 
Keep smilin', keep shining
Knowing you can always count on me, oh, for sure
'Cause I tell you that's what friends are for
For good times and for bad times
ずっと笑顔で、ずっと輝きつづけて
あなただからこそいつだって私を頼れる、あぁそうだ
私が言ってるようにそれが友だちというものだ
いい時にも辛い時にも

I'll be on your side forever more 
That's what friends are for
ずっとあなたのそばにいる 
それが友だちというものだから

 この曲は、米国エイズ研究財団のためのチャリティーシングルとして発売されました。困難な状態に置かれている隣人を助けるために企画されました。テーマは「隣人愛」と言えます。この歌の「あなた」は困難の状態の中にいる友だちです。そして、同時に友なる主イエス様であると考えます。
 今、能登半島地震の被災者や、ウクライナパレスチナでの戦災にあった方々など、世界中に困難の中におられる方々がたくさんいます。「隣人愛」は「善きサマリア人のたとえ」のように、同胞だけでなく、敵対する人々も対象とします。この歌のように、友だちとしてこの方々のそばにずっといることが「愛」と言えます。
 ミュージシャンであるディオンヌ・ワーウィックやグラディス・ナイト、エルトン・ジョンスティーヴィー・ワンダーたちは、自らが持つ音楽という賜物を生かして隣人愛を実践しました。私たちも自分に与えられた賜物を活用して、困難の状態の中にいる友だちに、そして、主イエス様に奉仕して参りたいと思います。

 

大斎節第5主日 聖餐式『一粒の麦によって生かされる』

 本日は大斎節第5主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、、エレミヤ書31:31-34、詩編51:1-12、ヘブライ人への手紙5:5-10、ヨハネによる福音書12:20-33。説教では、神は私たちのために一粒の麦であるイエス様を十字架に上げ、神とつながる永遠の命を与えてくださったことを理解し、十字架で亡くなり復活し、今は御聖体の中で生きて働いておられるイエス様に感謝して生かされるよう祈り求めました。
 本日の福音書箇所と関係する聖歌251番の歌詞及び当教会の聖餐式に参列されていた牧師さんからの手紙を活用しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は大斎節第5主日です。そして、次の主日は復活前主日・棕櫚の日曜日です。大斎節も終盤になりました。第5主日は、いよいよ十字架の接近を思わせる箇所が福音書として選ばれています。
 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書12:20-33です。本日の箇所をまとめれば次のように言うことができると思います。
『イエス様が十字架に架かる週の月曜日、祭りのためにエルサレムに上って来た人々の中に、異邦人である何人かのギリシア人がいて、「イエス様にお目にかかりたい」と言って来ました。イエス様の答えは、「地に落ちて死」ぬ一粒の麦のようにイエス様が十字架で栄光を受ける時、すべての人を自分のもとに引き寄せる、つまり、異邦人を含むすべての人が「イエス様にお目にかかることができる」ということでした。』

 本日の箇所で、イエス様はご自分の使命を一粒の麦にたとえて語られました。24節です。
「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 麦が地に落ちて死ねば(朽ちれば)、多くの実を結びます。そのように、イエス様の死も多くの人に命をもたらすというのです。そしてそのことをこう言い換えています。25節です。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。」
 これはどういう意味でしょうか? ここに「命」という言葉が3回出てます。聖書のギリシア語では、「命」には2つの言葉があります。最初の2つ「自分の命を愛する者は」と「この世で自分の命を憎む者は」の「命」は、プシュケーという言葉で、本来、「息」を示し、地上の命を表します。それに対して、3つ目の「永遠の命に至る」の「命」は、ゾーエーという言葉で、霊的な、永遠の命を表しています。自分の命(プシュケー)を「愛する(アガパオー)」とは、地上の命に固執し、それを自分のために使おうとする自己中心的な生き方です。それに対して「憎む」とは、利己的な願いを優先せずに、この世で与えられた時間を「永遠の命(ゾーエー)」のために捧げる生き方と言えます。 26節で、「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。」とありますが、この「仕える」はディアコネオーという「食卓に奉仕する」という言葉です。つまり、食卓で仕えるように細やかに仕える。そのようにイエス様に仕えることが勧められています。さらに言えば、そのような奉仕は、最後の晩餐を指し示す主の食卓に捧げられます。
 このように、イエス様の十字架にならい自分を捨ててイエス様に仕える者はイエス様の「いる所」にいて、父なる神様も「大切にしてくださる」というのです。
 このことは、本日の使徒書、ヘブライ人への手紙の 5章9節・10節にあるとおりです。イエス様についてこう言っています。
「そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。」 

 では、十字架に架かり復活したイエス様は、今、私たちのうちにどう働いておられるでしょうか? 私はそれを、今行っている聖餐式の御聖体に見いだします。イエス様は御聖体として私たちに食べられ、一度死んで、しかしそれにより私たちの栄養となり永遠の命をもたらすのであります。
 この後の陪餐後に歌う聖歌をご覧ください。聖歌第251番です。

 1節にこうあります。
「カルバリの木にかかり わが罪を贖える
 深い愛 思いつつ われら今 主の前に
 喜びの食卓を 囲みて ともに祝う」
「カルバリ」はラテン語で、ヘブライ語では「ゴルゴタ」、イエス様が十字架にかけられた丘の名前です。この節では、私たちの罪を贖うために十字架にかかられたイエス様の深い愛を思って、今聖餐に与るために聖卓を囲む喜びを歌っています。4節はこうです。
「いつくしみ深き主よ み座近く われを召し
 とこしえに待ち望む 命の糧 与えて
 悪を捨て 喜びて つねに主におらしめよ」
 この節では、慈しみ深い主イエス様に、近くに呼んで永遠の命の糧を与え、ずっと共にいてください、と祈っています。
 イエス様は御聖体に姿を変えて私たちに食べられ、私たちの中で溶け、私たちの中にずっといてくださるのです。

 ところで、先日、当教会の聖餐式に参列しておられたT・S牧師さんから、私とマッテア教会の皆さん宛に手紙をいただきました。聖体拝領と交わりに感謝する内容でした。抜粋ですが、お読みします。
『(前略)聖餐式でみ座に近づき、御聖体に与るとき、私は、いつも心がわなわなと震え出すのを覚えます。やがて、私の意思に反して目から涙が溢れ出し、嗚咽がやまなくなります。私としては不覚です。しかしどうすることもできません。きっとこれは聖霊のなせる業です。教団の教会ではこのような経験をしたことがありません。カトリック正教会、そしてアルメニア正教会の礼拝にも出席しましたが、御聖体に与ったことさえありません。不思議なことです。
 このとき私の心は、喜びとも悲しみとも言い難い感情の高まりに包まれています。私にはこれがどのような類いの感情であるか分かります。それは、罪赦された者のこころにあふれる感情であり、父の許に帰った放蕩息子の心にあふれた感情です。そして司祭によって「皆この杯から飲みなさい、これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です。」と御言葉が語られるとき、古い自分が過ぎ去り、聖霊の宮としての新しい自分が生き始めていることを深く覚えます。このとき私の心が、主の臨在をさやかに感じているかと言えばそんなことはありません。しかし、この世の塵芥でいつの間にか汚れていた心が、流した涙の後に清められているのを覚えるとき、私は、主が共におられて私を癒やしてくださったことを知らされるのです。(後略)』
 普段何気なくいただいている御聖体について、新たな示唆が与えられた思いです。御聖体はかくも偉大な恵みなのだと思わされました。 

 皆さん、神様は、私たち一人一人が生きてこの地上にあるこの時から、永遠という命(ゾーエー)でつないでいてくださっています。死んで初めて永遠の命に結ばれるのではありません。私たちは今日もう既に、永遠という命に結ばれているのです。
  イエス様はご自分に従うことを求めておられます。そうすれば私たちはイエス様のところにいることができるのです。さらに御父である神様は私たちを大切にしてくださるのです。
 神様は私たちのために、一粒の麦であるイエス様をこの世に遣わし十字架に上げ、それによって私たちに神様とつながる永遠の命を与えてくださいました。十字架で亡くなり復活し、今は御聖体の中で生きて働いておられるイエス様に感謝して生かされるよう、祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン