マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節第1主日 『試みに打ち勝つ信仰』

 本日は大斎節第1主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、申命記26:1-11 、詩編91:1-2・9-16、ローマの信徒への手紙10:8b-13及びルカによる福音書4:1-1。説教では、イエス様を信じることによって悪魔の試みに打ち勝つことができることを知り、大斎節をイースターを迎える大切な準備の時として過ごすことができるよう祈り求めました。
 2018年に訪れた本日の福音書の箇所の写真も活用しました。
 本日の説教原稿を下に示します。
                                    
<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン 

 2025年が始まり2ヶ月が過ぎましたが、世の中は不安定な日々が続いています。我が国では、能登半島地震やこのたびの岩手県宮城県の山林火災で避難を余儀なくされ不自由な生活を送っている方々がおられます。視線を世界に向ければ、ウクライナでの戦闘は3年が経過し、パレスチナでの戦闘も一応停戦中ですが、いつまた始まるか分からない状況です。一日も早い復興や恒久的な平和を心から祈るものであります。

 さて、本日は、大斎節第1主日です。大斎節はカトリック教会では四旬節、英語ではレントと言います。大斎節は、「灰の水曜日」(今年は先週の水曜、3月5日)から復活日前日(今年は4月19日)までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)です。
 先週の水曜には前橋聖マッテア教会で「灰の水曜日の礼拝」がおこなわれ、灰の十字架のしるしを参加者全員額に記させられました。十字架のしるしをするときの言葉があるのですが、それはこうです。
「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
 ここのキーワードは「帰らなければならない」です。何に帰らなければならないかと言えば「ちりに帰らなければならない・神に帰らなければならない」ということです。「そのことを覚えていなさい」と神様は私たちに告げています。そしてそれは、大斎始日(灰の水曜日)一日だけでなく大斎節を通してのキーワードであり、さらに言えば、私たち信仰者の生涯のテーマである、とも言えます。

 本日の福音書を、解説を加えて振り返ります。ルカによる福音書4章1節以下で、「荒れ野の試み」とか「荒れ野の誘惑」と言われる箇所です。
 冒頭に「さて、イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」(1・2節)と記されています。
 「イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。」とありますがヨルダン川で何があったのでしょうか? それは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた(ルカ3:21)ということです。そして、イエス様は聖霊の導きにより荒れ野に行かれました。それは神様の意志によってです。聖書には、40日とか、40年とか、いう「期間」が記されていて、これらはいずれも「準備」と「試練」の期間として、特別の意味を持っています。イエス様が荒れ野で過ごした40日間は、モーセとエリヤが神の民を導く重要な働きのために過ごした準備期間と同じ日数です。なお、今回ここで「試み」と訳された言葉(ペイラスモス)は、新共同訳では「誘惑」と訳されていました。「試み」の出来事は、見方によって誘惑にも試練にもなると言えます。悪魔や人からされるのが誘惑であり、神からされるのが試練です。
 イエス様が試みを受けられた「荒れ野」はこのような風景です。

 私は2018年にここを訪れました。荒れ野は、ヨルダン川死海に至る地域で、見渡す限り、岩と砂の土地がどこまでも続いています。木も草もほとんど生えていない、昼は暑く夜は寒い、雨期と乾期しかない、水がない、何の音もしない厳しい自然の風景です。そのような厳しい自然の中、荒れ野で、イエス様は、40日間、断食をし、ひたすら祈っておられたのです。
 聖霊と悪魔の対峙は私たちの日常にも見られることですが、そのような荒れ野にイエス様がまず立ち、私たちに道を示します。
 その40日の期間が終わろうとする時、悪魔が現れ、イエス様に語りかけました。悪魔は「神の子なら、この石に、パンになるように命じたらどうだ」(3節)と、「神の子」なら、神から力を授かっているはずだから、その力を自分のために使って腹を満たすこともできるではないか、と悪魔は考えます。それが悪魔の考える「神の子」です。これに対して、イエス様は、申命記8章3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。」という聖書の言葉を用いて、悪魔の試みを退けられました。イエス様は「神の子」としての力を自分のために利用しようとはしません。人を真に生かす命はパンからではなく、生ける神から来るとイエス様は考えています。

 しばらくして、再び、悪魔が現れ、イエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せました。そして、悪魔は言いました。6・7節です。「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、全部あなたのものになる。」と。「神の子」としてふさわしい権力、栄華(原文のギリシャ語はドクサ「栄光」)を与えてやろうと試みたのです。悪魔は、「私を拝め」と迫りました。「もし私を拝むなら」と。それは、相手の前に屈服する姿勢であり、相手を絶対化し、自分自身を失わせる行為です。
 これに対して、イエス様は、「『あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ』と書いてある。」(8節)と、お答えになりました。それは「神の子がひれ伏す相手は神であり、仕える相手も神だけである。」ということです。イエス様は、またしても、聖書の言葉(申命記6章13・14節)で悪魔を退けたのでした。

 そして、最後に、悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。なぜなら、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じてあなた守らせる。』また、『彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』」(9-11節)と書いてあるではないかと。今度は、悪魔の方が、聖書の言葉(詩篇91編11・12節)を用いて、試してきました。
 これに対して、イエス様は、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(12節)とお答えになりました。これは、申命記6章16節からの引用です。「神様を試す」ということは、自分の考えに神様が合っているかどうかを調べることであり、神様を信じ神の言葉に従うということとは正反対です。
 このように、イエス様は、次々と現れる、悪魔の試みを退け、これに打ち勝たれました。そして、悪魔は、時が来るまで、イエス様から離れました。
 このような話でした。

 この話で、神様が私たちに教えていることはどんなことでしょうか?
 悪魔は神とイエス様との関係を断ち切ろうとしてイエス様を試みますが、イエス様は悪魔の誘惑をすべて聖書の言葉で退けます。神の言葉を口にすることによって、イエス様は神様への信頼を明らかにしています。 
 悪魔の考える「神の子」は、神から授かっている力を自分のために使って、石をパンに変えて自分の空腹を満たす者です。しかし、イエス様にとって「神の子」とは、神からの力を自分のために用いる者ではなく、神の言葉に忠実に生きる者です。
 荒れ野で試みを受けたイエス様は私たちに生きる力を与え、私たちが弱いことを知って憐れみ、私たちの罪を担って良い方向に導いてくださる方です。先ほど福音書前に歌った聖歌448番の2節にある通りです。2節はこうです。
「命の息吹を 与えし御子よ 我らの弱きを 知りて憐れみ 荒れ野に苦しみ 試み受けて 世の罪担いて 進みたまえり」

  イエス様は石をパンに変えることも、屋根から飛び降りることもできます。しかし、それは、神様の指示があるときだけです。神の言葉を聞き、神の思いに従って生きる者が「神の子」、メシアなのです。
 神と悪魔、どちらの声に聞き従うかということが私たちに問われています。
 イエス様は、聖書の言葉を引用して悪魔を退けました。イエス様は聖書(神の言葉)に聞き従うことによって悪魔の試みに打ち勝ったのです。そうであれば、私たちもイエス様を信じ、神の言葉に聞き従うことによって、試み(誘惑・試練)に打ち勝てるのではないでしょうか? 
 自分の力だけではすぐ負けてしまいます。しかし、私たちはイエス様を信じることによって、悪の力に、罪のしがらみに打ち勝つことができるのです。本日の使徒書のロマ書10章13節で「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とパウロが教えているとおりです。このようなことを神様はこの「荒れ野の試み」の話を通じて教えているのではないでしょうか?

 皆さん、私たちは悪魔を退けてイエス様を信じていけるように、始まった大斎節を心して過ごしたいと思います。私たちはちりにすぎないことを自覚し、神に帰ることを覚えたいと思います。悪の力とか、しがらみとか執着心に、度々私たちは巻き込まれてしまいますが、それを神の言葉に従いイエス様を信じることで断ち切り、被災地の復興や世界の平和を求めながら、この大斎節をイースターを迎える大切な準備の時として過ごすことができるよう、共に祈りを捧げて参りたいと思います。 

   父と子と聖霊の御名によって。アーメン