マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

大斎節前主日 『祈ること、イエス様に聞くこと』

 本日は大斎節前主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、出エジプト記34:29-35、詩編99、コリントの信徒への手紙二3:12-4:2及びルカによる福音書 9:28-36。説教では、「キリストの変容」の箇所を通して、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられていることを深く思い、大斎節を過ごすことができるよう祈り求めました。
 本日の福音書の場面を描いた絵画、ラファエロの「キリストの変容」も活用しました。
 本日の説教原稿を下に示します。
                                    
<説教> 
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 教会の暦で、本日は「大斎節前主日」で、今週の水曜日、3月5日から「大斎節」に入ります。 
 本主日福音書ルカによる福音書9:28からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所です。顕現節から大斎節に移ろうとするこの主日は、福音書では毎年この変容貌の箇所が採用されています。それはこの出来事がイエス様の公生涯のちょうど半ばあたりに置かれ、これ以後、今までのガリラヤからエルサレムでの受難・復活へと進展していくことが、イエス様の地上の生の前半を記念してきた顕現節から、後半の部分を記念する大斎節に入っていくのに、重なっているからです。
 本主日インテンション(意向)について、本日の特祷がそれを示しています。別紙の聖書日課の1頁をご覧下さい。先ほどこう祈りました。 
 「神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上で 御子の栄光を現されました。どうか私たちが、信仰によって 御顔の光を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように。」と。
 ここでは、信仰によって御顔の光を仰ぎ見ること、自分の十字架を負う力が強められること、そして、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられること、という3つのことが祈られています。御顔の光を仰ぎ見るとは、神を求め神との関わりを持ち、神の思いを自分の思いとして生きることと考えられます。神の思いを実践していこうとするとき様々な困難が生じますが、それが「自分の十字架」であり、その十字架を受け入れるためにそれを負う力を強めてくださいと続いて祈るのです。そして「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられること」を願いますが、この栄光とは十字架と復活と考えられます。十字架の栄光から復活の栄光へと歩まれたイエス様と同じ姿に変えられますように、ということです。つまり、イエス様が神の思いの実現のために生きられたように、私たちもその姿に倣って生きていくことができますようにとの祈りであります。
 これらのことを、大斎節に向かうとき、心に留めておくことが大切なのだと思います。

 本日の福音書を振り返ります。
『イエス様は、ペトロ、ヨハネヤコブの3人の弟子を連れて、祈るために山に登られました。そこで、祈っていると、イエス様の顔の様子が変わり、衣は白く光り輝きました。その光景は、イエス様が神の栄光をお受けになったことを表す姿で、イエス様が天的存在であることを示しています。見ると、モーセとエリヤがイエス様と語り合い、2人はイエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していました。ここで「最後」と訳されたギリシャ語は「エクソドス」です。この言葉は出エジプトを意味し、「出発」とも訳すことができます。ここではイエス様が受ける受難と復活のことです。モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、この3人が語り合うとは、イエス様の受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示していると考えられます。
 この場面を描いた絵画があります。バチカン美術館にあるラファエロの「キリストの変容」です。この絵画のオリジナルは上部にイエス様の変容貌の箇所、下部にこの箇所の後のエピソード(汚れた霊に取り憑かれた少年を癒やす奇跡)がありますが、今回はその上部だけを示します。

 この絵では太陽のように輝く様子のイエス様を中心に右側にモーセ、左側にエリヤが描かれています。3人は宙に浮く形で表現され、この出来事の神々しさが伝わってきます。その下には、左から、ヤコブ、ペトロ、ヨハネが眩しさで目を覆い身を伏せています。
 この有様の素晴らしさを目の当たりにして、ペトロは思わず言いました。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」(33節)と。 ペトロが幕屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからと考えられます。ちなみにここで「幕屋」と訳されている言葉(スケーネー)は、遊牧民が寄留地での住まいとする「幕屋・仮小屋」を表します。この前の新共同訳聖書では「仮小屋」、口語訳では「小屋」と訳されていましたが、「幕屋」が原文に一番近いと考えます。英語の聖書(NIV)では「Shelter」(「避難所」または「雨風などをしのぐ住まい」)とありました。
 さて、そのうちに、雲が彼らを覆いました。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。すると、「これは私の愛する子。私の選んだ者。これに聞け」(35 節)という声が、雲の中から聞こえました。声の主はもちろん父なる神様です。「私の愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエス様が洗礼を受けられた時に天から聞こえた声と同じです(ルカ3:22)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエス様は、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も「神の愛する子」としての道であることが示されたのです。さらに「私の選んだ者」という言葉が加わっています。それはイエス様は、神様から選ばれ、特別な使命や権威が与えられているということです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を「耳で聞く」という意味ではなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等)。この声がしたとき、そこには、イエス様のほかには誰もいませんでした。「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時、誰にも話」しませんでした。』
  このような箇所でした。     
 
 この箇所を通して、イエス様が大切にしておられること、そして、神様が私たちに求めておられることは何でしょうか?

 冒頭の28・29節にこうあります。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。」
 この話とは、この前の9:21-27において、イエス様が弟子たちに御自身の死と復活を予告したことを示します。その8日後に、イエス様は3人の弟子を連れて祈るために山に登られたのです。ここの「祈る」の原文のギリシャ語は「プロセウコマイ」です。この言葉は直訳すれば「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分を」ということなのだと思います。つまり、「祈る」ということは「神様の前に自分を置く」ことです。
 イエス様の地上での歩みは受難と死に向かう道でした。イエス様は祈りの中で、すべてを神様に委ねていたのではないでしょうか? この箇所で言えば、だからこそイエス様の姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。これは、十字架の死と復活が予告された後、山の上で、その衣が白く光り輝き、人間となられたイエス様が、神の栄光をお受けになったという出来事です。その出来事の直接の引き金になったのが「祈り」であり、それこそイエス様が大切にしておられることだと言えます。
 
 本日の箇所の最後にあたる34-36節では、雲が現れ彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」という声が聞こえます。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲の中からの声は、もちろん神様の声です。それが、弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。既にお話ししたように、聖書における「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、「聞き従う」ことを意味します。受難・復活・昇天へと進む神の子、救済の業を行うため神様が選んだ者に私たちも「聞き従わなければならない」ということであり、それこそ神様が私たちに求めておられることだと思います。

 イエス様が大切にしていることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることはその「イエス様に聴く」ことだと言えます。なお、「祈る」と訳した「プロセコウマイ」には“聴く”という意味もあり、キリスト教の「祈る」目的は「神様やイエス様の声を聴く」ということです。言い換えれば「祈りは神様やイエス様の声を聴くこと」と言えると思います。ぞしてその祈りは、私たちが神様の前に身を置き、神の思いを自分の思いとすることができますようにという祈りです。

 大斎節に神様やイエス様の声を聞くことの一助となるのが、北関東教区と東京教区の聖職・信徒が執筆した「2025年み言葉と歩む大斎節」という黙想集です。

 これを大斎始日から毎日読み黙想することで、神様やイエス様の声を聞きながら大斎節を過ごすことができます。この冊子を既に希望された方は、受付にありますのでお取りください。これから希望される方は、申込用紙にお名前をお書きください。

 皆さん、大斎節が近づきました。今度の水曜が大斎始日(灰の水曜日)です。
エス様が大切にしておられることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることは「イエス様に聴き従う」ことです。これから始まる大斎節の期間、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられてことを深く思い、イエス様のみ跡を黙想しつつ、この期節を過ごすことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
 
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン