顕現後第7主日 『敵を愛し、慈しみ深くなる』
本日は顕現後第7主日です。午前は高崎・午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記45:3-11・15、詩編37:1-11・39-40、コリントの信徒への手紙一15:35-38・42-50、ルカによる福音書6:27-38 。説教では、イエス様が「あなたがた」に言った「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」等の言葉の意味することを知り、イエス様の教える「敵をも愛する」「慈しみ深くなる」という愛に生きることができるよう祈り求めました。
本日のテーマと関係する讃美歌第二編26番「小さなかごに」を本田路津子のCDで聞き、活用しました。
本日の新町聖マルコ教会のための説教原稿を下に示します。
め
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第7主日です。当教会では前回の礼拝後、堅信受領者総会が行われました。週報の「報告・連絡」にありますように2024年の諸報告及び2025年予算案が承認されました。また、11月第2日曜の礼拝後に教会墓地で「逝去者記念の式」を行うことが決議されました。2025年の新町聖マルコ教会が主のみ守りのうちに歩み、祝福がありますよう祈ります。
さて、本日の福音書を振り返ります。ルカによる福音書6:27-38、先週の続きの箇所で、いわゆる「平地の説教」(ルカ6:20-49)の中の言葉です。この箇所は5つの部分から成っています。①27-30節、②31節、③32-35節、④36節、⑤37-38節です。
最初に27-30節です。最初の27節のみ言葉「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」から、まず、圧倒されてしまうのではないでしょうか? これは普段私たちが考える常識とはかけ離れ、無理難題のようにも思われます。ここでの「敵」は教会の迫害者を指していると考えられます。なぜなら、27節の後半以下で、敵が「あなたがたを憎む者」「呪う者」「侮辱する者」と言い換えられているからです。そのような敵に「祝福を祈る」ことが「愛する」ことなのです。
これらのみ言葉の前に「聞いているあなたがたに言っておく」とイエス様はおっしゃられました。これは、イエス様の言葉を聞く、そのために集まっている、その「あなたがた」に「言っておく」ということです。であれば、主日に、神の言葉、イエス様の言葉を聴こうとして集まっている私たちにも、イエス様は語りかけておられると言えます。
愛はさらに積極的な行動を生み出します。頬を打つ者にはほかの頬をも「向け」、上着(オーバー)を取る者には下着(中に着るもの)をも「拒まず」、求める者には「与え」、奪う者から「取り戻そうとしてはならない」(29~30節)、愛は「与えること」であります。
なお、「敵を愛せ」という言葉は、神の国の到来を告げるイエス様の教えの一部であり、「神は恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」(35節)、「悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせ」ます(マタイ5:45)。「敵を愛せ」とは、敵をも愛せる神の支配が到来したという呼びかけであり、その支配に人を招く福音です。
続いて31節で、イエス様は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と語られます。これは黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれるものです。イエス様は「自分がされて嬉しいことを他の人にもしなさい」と教えているのです。これは神との関わりに基づく勧めであります。
次に、32-35節です。ここの32-34節は、どの節の文章も同じ構成(条件文→修辞的疑問文→理由文)です。愛してくれる者を愛するとか、よいことをしてくれる人によいことをするとか、返済を期待して貸すということなら、「罪人たち」も実行しています。ここでの「罪人たち」は神を信じられない人のことです。
35節前半で、イエス様はふたたび「敵を愛しなさい」とおっしゃっています。その後に、この要求の根拠となる言葉があります。それが35節後半です。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」と。「いと高き方」とは神様のことです。神様は「悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせ」るのです。ここの「たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」の原文を直訳しますと、「あなたがたにはたくさんの報いがあるでしょう。そして、あなたがたはいと高き方の子となるでしょう」と二人称・複数・未来形で語られていました。
イエス様は私たちにこうおっしゃっているのではないでしょうか。「敵を愛しなさい。神様は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いのだから、あなたがたもその愛をもって慈しみ深くなりなさい。神様はあなたがたに恵みを与え、あなたがたは神の子となるでしょう」と。
そして、36節で「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」とあります。これは、あなたがたが慈しみ深いのは、父なる神が慈しみ深いからということであります。神へ近づき、その愛に触れるとき、私たちは敵を愛することが可能になり、その力が与えられるのです。
最後に37-38節です。ここの37-38節前半では、否定の命令形を二度(「裁くな」「罪に定めるな」)述べた後に、肯定の命令形を二度(「赦しなさい」「与えなさい」)と述べています。命令形の後に、それぞれ「そうすれば」で始まる平叙文が続きますが、そこでの動詞はすべて受動態です(「裁かれない」など)。これらの受動態は神の行為を婉曲的に示す受動態(神的受動態)ですから、裁かず、罪に定めず、赦し、与えるのは「神」であります。神の近くにいる者は人を裁かずに、赦し、与えることができます。人を裁かずに赦せるかどうかは、自分と神との距離を示す物差しとなっています。つまり、これらのことができないのは神と自分との距離が離れているからであり、これらのことができるなら、その人が神の近くにいる証であるということです。38節後半以下では、あなたがたが量られる「量り」がテーマになっています。恵みを与える神は、量り(枡)の中味を「詰め込み」満たし、さらに「揺すって」すき間をなくし、そこに「溢れる」ほどに入れてくれるのです。「与える」者は、それほどの豊かさを「与えられる」のです。
このような箇所でした。
イエス様は私たちに「敵を愛しなさい」「あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」と教えておられます。そのようなことが私たちにできるのでしょうか?
そのことについては、本日の使徒書(コリントの信徒への手紙一 15章)が参考になります。ここでは、最初の人アダムと最後のアダム(つまり、イエス・キリスト)が登場します。45節にこうあります。『「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となりました』と。最初の人アダムは「人間一般」の意味で用いられています。そうしますと、パウロはこう主張していると思われます。「人間は最初の人アダムの子孫であるから、地上の命を生きる肉なるものでもあるが、最後のアダムであるイエス様が与える聖霊によって天上の命と関わりをもつ霊的な存在になり得る」と。私たちはイエス様の与える聖霊によって新たな霊的な力で生きる人間になることができ、それにより通常では難しい「敵を愛し、慈しみ深くなる」ことができるのだと考えます。
そして、それは結果として、それぞれの場所で「憎む者に親切に」するという行動として示されるのであります。
福音書前に歌った聖歌第493番の1節に「愛のわざは 楽しきかな 愛の結ぶ実は 永遠に残る」、そして6節に「愛の神よ 愛をたまい 愛の人とせよ とこしえまで」とありますが、私たちが愛のわざを行うことができるは、愛の神から愛をいただくからなのです。
そのことは、この後聞いていただく讃美歌第二編第26番「小さなかごに」で明確に示されています。受付で取っていただいたこの讃美歌の楽譜をご覧になりながら、この本田路津子のCDでお聞きください。

この讃美歌「小さなかごに」は多くのミッションスクールで愛唱されています。立教女学院では小学校の入学式で必ず聖歌隊がこの曲を歌っているそうです。お聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=rZxSBSGui0w
1.ちぃさなかごに 花を入れ さびしい人に あげたなら
へやにかおりが 満ちあふれ くらい胸も はれるでしょう
(おりかえし)
あいのわざは ちぃさくても かみのみ手が はたらいて
なやみのおぉい 世のひとを あかるくきよく するでしょう
2.「おはよう」とのあいさつも こころをこめて 交わすなら
その一日 おたがいに よろこばしく 過ごすでしょう
(おりかえし)
この曲の(おりかえし)に「あいのわざは ちぃさくても かみのみ手が はたらいて なやみのおぉい 世のひとを あかるくきよく するでしょう」とありますが、私たちが愛のわざを行うことができるのは、神のみ手が働くがゆえなのです。それは霊的な力です。
皆さん、イエス様は「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい」そして、「慈しみ深い者となりなさい」と教えておられます。それは人間の力では難しいですが、神様は聖霊によって私たちを、それをなすことができるよう霊的な力で生きる人間にしてくださいます。この敵をも愛する優れた賜物を私たちに与えてくださるよう祈りましょう。私たちキリスト者が慈しみ深い者になれるのは、父なる神が慈しみ深いからです。神がイエス様を通して示した慈しみ深い愛を見つめるとき、私たちは新しい生き方へと向かう者となるのです。
私たちが、「敵をも愛する」「すべての人に慈しみ深くなる」、そのような愛に生きることができるよう聖霊の導きを祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン