顕現後第6主日 『幸いと災い、2つの道』
本日は顕現後第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。礼拝後には堅信受領者総会を行いました。すべての報告・議案が承認され、2025年度の宣教聖句は信徒の提案による「一人よりも二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。」(コヘレトの言葉 4:9)に決定しました。

本日の聖餐式の聖書箇所は、エレミヤ書17:5-10、詩編1、コリントの信徒への手紙一 15:12-20及びルカによる福音書 6:17-26。説教では、神は私たちに「幸いと災い」という2つの道を示され、「神に信頼しイエス様を求めることによって幸いとなる」ことを知り、イエス様に従い神とつながって生きることができるよう祈り求めました。
本日のテーマと関係する山野繁子司祭の作詞の聖歌364も活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第6主日です。福音書箇所はルカの6章17節から26節です。4つの幸いと4 つの災い(以前の訳は「不幸」)をイエス様が述べている箇所です。
ここでイエス様が語られている教えは、マタイによる福音書5章~7章に記されている有名な「山上の説教」と呼ばれる教えに似ています。ルカによる福音書の方がマタイの「山上の説教」に比べると全体的に短く省略された印象があります。また、この教えをイエス様が話された場所が違っています。マタイによる福音書の方は山の上で語られました。一方ルカによる福音書の方は17節にありますように、山から降りて平地での出来事として書かれています。そこで「平地の説教」と呼ばれます。
これはどちらが正しいのか、と考える必要はなく、どちらもその通りだと考えるべきと思います。イエス様は3年半に渡ってこの世界で神の国の教えを宣べ伝えられましたので、同じような教えを何度も人々にお話しになったと考えられます。ですからマタイもルカも、それぞれ違った時にイエス様がお話しになったことを記録していると言えるのではないかと思います。
本日の福音書を振り返ります。ここは3つの部分に分かれています。①17~19節、②20~23節、③24~26節です。
まず17~19節です。
ここに至る文脈の確認をします。6章12・13節で、イエス様は、山に行き、夜を徹して神に祈られ、朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選んで、使徒と名付けられました。
それから本日の箇所に入り、イエス様は使徒たちと山を下り、平地にお立ちになりました。そこに大群衆がユダヤ全土や異邦人の地である海岸地方から押し寄せ、イエス様は彼らを癒やしました。この箇所は、「平地の説教」の導入です。
続いて20~23節です。
この「平地の説教」の冒頭で、イエス様は「貧しい人々は幸いである」とおっしゃっています。
この言葉は、私たちをたいへん困惑させます。なぜなら、「貧しい」ということが普通は「幸い」には思えないからです。貧しいことは災い、または不幸なことと私たちは思うではないでしょうか?
「貧しい人々」はギリシャ語では「プトーコイ」で、これは「プトーコス」という言葉の複数形です。この言葉は単に経済的に苦しい人というのでなく、貧しいがゆえに神に頼るしかなく、「ひたすら神に信頼して生きていこうとする人」のことです。その人々こそ幸いであると、イエス様はおっしゃっているのです。
20節の前半に「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」と書かれています。イエス様は弟子たちを見て言われたのです。ここの「弟子たち」というのは、12弟子だけではなく、イエス様に従っていた人々のことです。そして「貧しい人々は幸いである」と続きますが、この言葉は以前の口語訳聖書では「あなたがた貧しい人たちは幸いだ」となっていました。原文のギリシャ語でも「あなたがた」という言葉が入っています。そうするとこの「貧しい人々」というのは、貧しい人々一般を指しているのではなく、今イエス様を求めて集まってきている貧しい人々、ということになります。あるいは、貧しい人々が幸いなのは、イエス様を求めるようになるからだ、と言うこともできます。いずれにしても、イエス様を求め、イエス様の所に来ることによって、貧しい人が幸いな人となるということです。
そしてなぜそのように幸いになるかと言えば、「貧しい人々は幸いである」の続きに述べられています。「神の国はあなたがたのものである」と。ギリシャ語原文ではこの2つの文の間に「なぜなら~だから」という意味の接続詞が入っています。イエス様は、「神の国が、その人たちのものであるがゆえに、貧しい人々は幸いである」とおっしゃっているのです。これは祝福の言葉です。神様によって祝福されるということです。「神の国」とは「神の支配」とも訳せます。「神様が王として恵みと力を持って支配されること」です。その「神の国はあなたがたのものである。」とイエス様はおっしゃっています。ここは現在形です。つまり「神の国(the kingdom of God)」、「神が王として支配される状況」が始まり実現される。それゆえに幸いであるとおっしゃっているのです。
次の「今飢えている人々」についても同じです。ここでは「あなたがたは満たされる」と言われています。この動詞は未来形です。また、ここが主語が示されていない受動態(神的受動態)であることを考慮すれば「神様の恵みで満たされるでしょう」ということだと考えられます。その次の「今泣いている人々は、幸いである」についても、「あなたがたは笑うようになる」の動詞は未来形なので「神様の慰めが与えられて笑うようになるでしょう」ということです。
ですから、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々は、もちろんそのままでは幸いではありませんが、イエス様によって幸いへと変えられる。「イエス様を求めることによって幸いとなる、神の祝福がある」ということです。
22・23節では「イエス様を信じるがゆえに迫害されるが幸いである」と言っています。なぜなら、「イエス様も弟子たちも迫害を受けたが、その後、祝福と栄光を受けられた。だから、私たちもイエス様と同様にそれを受けることができる」というのです。
最後に24~26節です。
24節の冒頭にこうあります。
「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」
「災いあれ」と訳したギリシャ語「ウーアイ」は、苦痛や悲嘆を表す感嘆詞として「悲しいかな・ああ哀れだ」を意味します。
弟子や群衆の一人一人の心には、神の支配に信頼し貧しく生きる「あなたがた」と、富に憧れて快適な生活を捨てきれない「あなたがた」とが共存しています。
「富んでいる人々」「今食べ飽きている人々」「今笑っている人々」「皆にほめられる人々」に「災いあれ」と言われます。これらの人々は、20~22節で「幸いである」と呼びかけられた人々とは反対に、神の支配があまねく行きわたる終わりの日に、神の救いにあずかれないからである。今の状況に心を奪われ、真の幸いと喜びをもたらす神に心を閉ざしているがゆえに、イエス様は彼らに「災いあれ」と言うのです。
このような箇所でした。
この箇所では「幸いと災い」という2つの道が対比され、私たちは「あなたはどちらの道を歩みますか?」と問われています。
本日の旧約聖書エレミヤ書17章でも、5節の「呪われよ、人間を頼みとし 肉なる者を自分の腕として その心が主から離れる人は。」と7節「祝福されよ、主に信頼する人は。 主がその人のよりどころとなられる。」が対比されています。「呪われよ」と「祝福されよ」の対比です。
また、本日の詩編第1編でも、1・2節の「幸いな者 悪しき者の謀に歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし その教えを昼も夜も唱える人。」と4節の「悪しき者は違う。 風が吹き払うもみ殻のよう。」が対比されています。こちらは「幸いな者」と「悪しき者」の対比です。
「神様にひたすら信頼する人、主の教えを昼も夜も唱える人」を、神様は祝福しておられるのです。
貧しさや苦しみが人を幸いにするのではありません。貧しさや苦しみの中に働く「神の支配」が人を幸いにするのです。このことが確かな真理であるのは、イエス様自身がこの神からの幸いを生き、励ましを語っているからです。
そのことをよく表しているのが、先ほど福音書前に歌った聖歌364「貧しい人にキリストは呼びかける」です。(以下のURLで高木喜彦さん(彦根聖愛教会オルガニスト)の演奏が聞けます。https://www.youtube.com/watch?v=4h43P8wWjSA )
歌詞を読んでみます。
1 貧しい人に キリストは呼びかける
あなたは神の力を受けて
豊かさを分かち合う人になる
2 悲しむ人に キリストは呼びかける
あなたは神の希望を受けて
喜びを分かち合う人になる
3 寂しい人に キリストは呼びかける
あなたは神の光を受けて
交わりを分かち合う人になる
4 怒る人にも キリストは呼びかける
あなたは神の正義を受けて
まぼろしを分かち合う人になる
この聖歌は、昨年1月に82歳でこの世を去った山野繁子司祭の作詞です。山野先生は日本聖公会における二人目の女性司祭でした。この聖歌364番の各節の2行目にある「神の力」「神の希望」「神の光」「神の正義」は、「神の支配」の具体的な姿と言えると思います。この「神の支配」が、人を幸いにするのです。
皆さん、神様は私たちに「幸いと災い」という2つの道を示され「どちらの道を歩みますか」と問うています。「神様にひたすら信頼する人、主の教えを昼も夜も唱える人」が神様から祝福されるのです。
イエス様は、「貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々」が幸いであるとをおっしゃっています。これらの人々が幸いであるのは、「神の国」「神の支配」が始まり、神様にひたすら信頼し、イエス様を求め神様とつながるから幸いなのです。そして、イエス様が祝福してくださるから幸いなのです。
「貧しい人々は幸いである」と言われたイエス様の心を受け止め、私たちも、ひたすら神様に信頼し、イエス様を求め、心からイエス様を信じ、神様とつながり、生きていくことができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン