顕現後第5主日 『主イエス様の言葉に従い行動する』
本日は顕現後第5主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。礼拝後は堅信受領総会が開かれました。
聖書箇所は、イザヤ書6:1-8、詩編138、コリントの信徒への手紙一15:1-11及びルカによる福音書5:1-11。説教では、主イエス様の言葉に従い行動することが信仰者の在り方であることを知り、そこに立脚して、己の無力さを自覚し、神様の恵みの内に歩み使命を果たすことができるよう祈り求めました。
本日の福音書箇所を描いた絵画、ラファエロの『奇跡の漁』も活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第5主日です。福音書は、ルカによる福音書の第5章1節以下で、シモン・ペトロがイエス様から召し出される箇所です。シモンは本名、ペトロはイエス様が付けたニックネームで「岩」という意味です。彼が教会の礎石となったからだと思います。
本日の福音書箇所を振り返ります。
イエス様は公生涯に入り、ガリラヤで宣教を始め、諸会堂で教えたり、多くの病人を癒やしたりしました。ある時、湖畔に人々がたくさん集まってきたので、イエス様は舟に乗って舟の上から湖畔にいる人々にお話をしました。その湖はゲネサレト湖です。ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯の名で、ゲネサレト湖はガリラヤ湖の別名です。
シモンたちは、ゲネサレト湖で夜通し働きましたが、全く魚が捕れませんでした。群衆へのお話が終わった時、イエス様はシモンへ「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」とおっしゃいました(4節)。この「漁をしなさい」の原文のギリシャ語は二人称・複数・命令形でした。「あなた方は漁をしなさい」ということです。それに対してシモンは「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。この「お言葉ですから」の直訳は「あなたの言葉の上で」であり「網を降ろしてみましょう」は一人称・単数・未来形でした。「私は網を下ろすでしょう」ということです。シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って網をおろしますが、彼がそうするのは漁師の経験や常識に立ってのことではありません。彼がそうするのは、「あなたの言葉の上に」立つからです。シモンは自分の経験や常識を捨て、イエス様の言葉に従います。
イエス様の言葉に従ったら、網が破れそうになるほどたくさん捕れました。シモン・ペトロは驚いて「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です。」(8節)と言って、ひれ伏しました。
この箇所を描いた絵画があります。それがこのラファエロの『奇跡の漁』で、現在はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館にあります。

イエス様の神性に驚きひれ伏すペトロ、後ろの人物はペトロとよく顔が似ているので、弟のアンデレ、その後ろはゼベダイの子のヤコブとヨハネと考えられます。ヤコブとヨハネは網にかかったおびただしい魚を引き上げようと必死のようです。
イエス様の言葉の力を目撃したシモン・ペトロは、畏敬の念に捉えられ、イエス様の前にひれ伏します。5節ではイエス様を「先生」と呼んでいたシモンですが、8節では「主よ」と呼びかけ、「私から離れてください。私は罪深い人間です。」と告白します。それは、シモンの目にした出来事が彼の「罪深さ」を直感させるほどに神々しい出来事であるからであり、同時に、恵みに包まれた者は自然と罪の告白を口にできるからです。己の罪深さを強く意識するあまり、シモンはイエス様が汚れた自分と同じ舟にとどまらないように願わなければという、純粋な気持ちに迫られたのです。シモンが「私は罪深い人間」だと言ったことについては、この後の様子を見ると、シモンは出来の悪い弟子のようで、自分を「罪深い人間」と言うシモン・ペトロの告白は、理解できますが、それを引き起こしたのが主イエス様がなされた奇跡(神々しい出来事)であります。
そのシモンに対してイエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)と言って弟子に選びました。イエス様が神の国のために用いる働き人は己を低くする人なのです。
イエス様は「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」とペトロたちに語っています。ここは原文では2節や6節の「漁師(ハリエイス)」という言葉でなく、ゾーグレオー「捕らえて生かす」いう言葉の分詞形が使われています。「捕らえて生かす者」ということです。ゾーグレオーは、形容詞ゾーオス(生きている)と動詞アグレオー(捕る)の合成語で、「生かすために捕まえる」「捕らえて神の支配の下で生かす」の意味であり、弟子の使命を表すのにふさわしい言葉であると言えます。
そのイエス様の言葉に応えて、彼らは従いました。
このような箇所でした。
シモンはなぜ「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です。」と言ったのでしょうか?
本日の旧約聖書では、預言者イザヤが神殿で聖なる神にお会いした時、セラフィムが飛び、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満ちる。」(イザヤ書6章3節)という声を聞き、神殿の敷居がゆれ動く体験をした時に「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者 私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は王である万軍の主を見てしまったのだ。」(5節)」と言っています。聖なるものに出会った時に、私は滅ぼされるという思いを持ったのです。「ああ、災いだ。私は滅びるばかりだ」と言って自らの罪深さに気づいたのです。それと同じ思いをシモン・ペトロは持って、こう言ったのだと思います。
また、本日の使徒書、コリントの信徒への手紙一15章で、パウロは9-10aにおいて「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今の私があるのです。」と言っています。つまり、ふさわしくないけれども自分は選ばれた。それはなぜかと言ったら、「神の恵みによって」であり、自分の努力によってではないと言うのです。パウロは多くの働きをしましたが「働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」(10節b)と言っています。神様の恵みが私たちに働いているので、私たちは、ふさわしくないけれど選ばれたのです。
この神様の恵みの神秘を生きるように、私たちは呼ばれています。信仰は努力主義ではありません。自力で自分を救うことはできません。私たちは神様の恵みによって救われて、神様の恵みを生きるように呼ばれています。神様はペトロやパウロのような、ふさわしくないと思われる人を選ばれました。私たちも選ばれました。神様の恵みを生きるように呼ばれ、使命を与えられているのです。
シモンたちは夜通し働いたのに魚が捕れませんでしたが、イエス様の言葉に従ったら、急にたくさん捕れました。これは、信仰者の世界は、人間の努力に見合う形で恵みがあるのではないということだと思います。ちなみに、ここの「言葉」という単語は原文では「ロゴス」(1節)ではなく「レーマ」(5節)で、「レーマ」には、「言葉」と「出来事」という二つの意味があります。イエス様が語った言葉は、「魚が捕れる」という出来事となってシモンたちの目の前に現れたのです。それを引き起こしたのはシモンの答えと行動です。5節でシモンはこう言っています。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」
ここで大事なのは「しかし」という言葉です。「自分の経験や常識では魚は捕れないはずだ。しかし、他ならぬイエス様がおっしゃるのだからその通りにしてみます。」というのです。信仰はこの「しかし」という言葉とそれに伴う行動だと思います。私たちも自分の経験や常識にとらわれるのでなく、主イエス様のお言葉に従い行動することが信仰者としての在り方だと思います。私たちは「しかし、お言葉ですから」と言えるかどうかが問われているのであります。そして、神々しい出来事を目撃した者は「私は罪深い人間」と己の無力さを自覚し、謙遜になります。
なお、「舟」は教会の象徴とも考えられます。教会は「言葉(レーマ)」の上に立つ共同体であり、言葉が語られる場であると同時に、その出来事を実際に体験する場であります。教会は神の言葉の上に立ち、罪を告白し、「生かすために捕まえる」ことを使命としていると言えます。
本日は礼拝後、「堅信受領総会」がありますが、この視点でも「教会を見つめること」ができるといいと思います。
皆さん、私たちは神様の恵みを生きるように呼ばれ、「人間を生かして捕らえる」という使命が与えられています。
自分の経験や常識は大事なことではありますが、それに固執せず「しかし、お言葉ですから」と主イエス様の言葉に従い行動することが信仰者の在り方です。私たちがそこに立脚して、己の無力さを自覚し、神様の恵みの内に歩み使命を果たすことができるよう、この礼拝で、そして日々の生活の中で祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン