顕現後第3主日『貧しい人に福音を告げるイエス様』
本日は顕現後第3主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、ネヘミヤ記8:1-3・5-6・8-10、詩編19、コリントの信徒への手紙一12:12-31a、ルカによる福音書4:14-21。説教では、イエス様がこの世界に来られたのは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」ということを知り、自分が貧しい人であることを自覚し、へりくだって恵みの神を信じ、共に歩む人生を送ることができるよう祈り求めました。。
テーマから思い浮かべたソプラノ歌手、小早川由起子さんと讃美歌93番「みかみのめぐみを」について言及しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第3主日です。この主日の福音書は、毎年イエス様の公生涯の第一声、宣教開始の箇所が選ばれています。今年C年は、ナザレの会堂におけるイエス様のイザヤ書朗読とその実現の宣言です。旧約聖書はネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が捕囚先のバビロンから帰還し、再建された神殿で祭司エズラたちの律法朗読を聞いた人々が感動する箇所が選ばれています。
本日の福音書はルカの4章14節からです。イエス様は霊の力に満たされ、ガリラヤに帰りました。当時の会堂(シナゴーグ)は、安息日には礼拝する場所、平日には少年の学校として機能していました。会堂には会堂司がいて、その地を訪れている教師を招いて聖書の朗読と説教を依頼しました。イエス様はユダヤ教の一教師としてとらえられ、諸会堂で教えていました。
そして、イエス様は故郷のナザレに行き、安息日に会堂でイザヤ書61章1-2節と58章6節から朗読しました。それは自分がどういう者であるか、これから何をするかということを人々に語った箇所です。
アメリカでは先日の20日にトランプ大統領の就任演説があり、日本では一昨日(24日)に石破総理の施政方針演説がありましたが、これらと同様に、本日の福音書箇所も、イエス様が自分の公生涯(Public Ministry)を始めるにあたって、どのようにしていきたいのかということを語っています。「メシアとしての就任説教」と言われている箇所です。
イエス様の第一声は何だったでしょうか? それは18節の「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。」ということでした。主が私をメシア(油注がれた者)にされたのは、貧しい人に福音を告げ知らせるためだ、というのです。主の霊(聖霊)の力によって神様がイエス様をこの世界に遣わされた理由は、この一言で要約できます。「貧しい人に福音を告げ知らせるため」ということです。
ここの「貧しい人」は、ギリシャ語では「プトーコイ」で「プトーコス」という言葉の複数形です。「貧しい人(プトーコス)」とは、まず経済的に貧しさを意味しますが、そういう人は社会的にも不当な扱いを受けることから、神様だけを頼りにするようになり、そこから「貧しい人」とは「神様に信頼する謙虚な人」という意味になりました。また、旧約聖書での「貧しい人」はヘブライ語で「アナウィム」と言い、意味は「抑圧された人々」です。ただ単に経済的に貧しいというだけでなく、貧しさゆえに弱い立場に立たされ、抑圧されている状態の人々のことです。
その「貧しい人」に福音(よい知らせ、Good News)を告げ知らせるために、イエス様はこの世界に来られたのです。なお、「貧しい人」は神様の助けを最も必要としている人であり、それはまた私たち一人一人のことであるとも言えるのではないでしょうか?
イエス様は「貧しい人」に福音を告げ知らせました。これを信じるかどうかが問われていると思います。私たちが病気をしたり、様々な苦難に遭遇したりすると、なかなか信じ難い、ということがあると思います。
旧約聖書の発想はこうでした。神様に祝福された人は羊をたくさん持ち家族がたくさんいて、健康で、皆幸せで、そういう人は神様から祝福されていますが、お金がなくて病気で、貧乏で、子供のいない夫婦というのは祝福されていない、神様の恵みをもらっていない。だから、貧しい人というのは基本的に神の恵みがない人で、お金持ちで、健康で、社会的地位も高い人は、神の祝福がたくさんあるというふうに考えられていたのです。しかし、イエス様の場合は反対で、「貧しい人に福音を告げ知らせる」というので、逆転しています。
さらに、イエス様は「主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。」と言いました。「主の恵みの年」とは、「ヨベルの年」と言われ、50年に一度、民のすべてが自由になる、解放の宣言がなされる年とされています(レビ記25章)。この年が巡ってくると、売却された土地は返還され、奴隷は元の身分を回復することができました。「ヨベル」というのは雄羊の角の意味で、雄羊の角でつくったラッパを吹き鳴らしてこの年を聖別した(レビ記25:9)のでした。その「ヨベルの年」、つまり「主の恵みの年」を私たちに告げるためにイエス様は遣わされたのです。
ちなみに、ここで「恵みの」と訳されたギリシャ語原語は「デクトス」で、元々は「喜ばしい」という意味です。「主の喜ばしい年」をヘブライ語原文の意味に従って「主の恵みの年」としたと思われます。「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことは、主が喜び、主の恵みを告げることなのです。
「貧しい人に福音を告げ知らせる」とは、詳しく言えば、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由に」する、ということです。それはつまり「口で言うだけではなくて、実際にそうする」ということです。イエス様は言葉と行いが一致しているのですから、貧しい人に福音を告げる、と言ったら、実際、福音がいただける。それが「解放」であり、「視力の回復」であり「自由」である。その恵みを主が私たちにくださる、と約束してくださり、しかも、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とあるように、このイエス様の言葉は「今日、実現した」のです。これこそ「よい知らせ、福音」であります。
私たちがなすべきことは何でしょうか? それは、「自分が貧しい者であることを認めること」、そして、「主が告げ知らせた福音を受け入れること」なのだと思います。そうする時、主は喜び、一人一人に応じた必要な恵みを与えてくださるのです。
そのことで思い浮かぶ一人の方と聖歌(讃美歌)があります。それは小早川由起子さんというソプラノ歌手で、聖歌は讃美歌93番「みかみのめぐみを」です。この曲は私たち日本聖公会の聖歌集には入っていません。この後、小早川さんのこのCD「主の愛に包まれて」から聞いていただきます。

小早川さんについては、「ライフライン」というキリスト教テレビ番組で何度か取り上げられています。「ライフライン」は群馬では毎週日曜の朝7時から群馬テレビで放映されており、見逃しても後からyoutubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=Wvs-Irnn9hw
小早川さんは23歳で肝臓の難病を発病し、2度にわたる生体肝移植手術(母及び夫から)により命を救われました。現在は、各地の教会や病院で闘病体験の証と賛美のコンサートを行う他、ホスピスでの独唱ボランティアに従事しています。体調は安定しているようですが、2014年に再々発し、薬を20種類ほど服用しながら大学病院への通院を続けています。長年のステロイド薬の副作用で糖尿病や骨粗鬆症も併発し、突然耳が聞こえなくなってしまうなど体の不調は尽きません。それでも、何度も余命宣告を受けながら生かされている神様への感謝と、闘病を通して神様から小早川さんに与えられた恵みを伝えたいという思いを込め、コンサート活動などに力を注いでいるそうです。小早川さんは死の恐怖を感じた時、「神様、どうか私を憐れんでください」と泣きながら祈ったところ、神様はみ言葉を通して小早川さんに寄り添い、涙を乾かし、力を与えてくださったことを肌で感じました。試練によって自分の弱さ(貧しさ)を知り、それが大きな恵みだったとのことです。そのような神様の恵みを多くの方に知ってほしいという思いを込めて、小早川さんは聖歌(讃美歌)を歌っているそうです。
今日はそのような曲の中から、讃美歌93番「みかみのめぐみ」を聞いていただきたいと思います。受付で取っていただいた楽譜を見ながら、CDでお聞きください。(https://www.youtube.com/watch?v=x8xxnMaFPWQ)

1 御神の恵みを 思いみれば
嬉しさ余りて 歌とぞなる
2 迷える時には 道を示し
おごれる時には 鞭を賜る
3 この身に余れる 御慈しみ
幼き時より いや積もりぬ
4 積もりに積もれる 御恵みをば
この世に彼の世に 歌い続けん
この讃美歌は、信仰者の感恩(恩に感謝する)の思いが簡潔にまとめられ、「貧しい人」である自分に慈しみをくださる神様の恵みを賛美する思いが溢れています。それは、この世だけでなく死後までもほめ讃えたいという強い思いです。
なお、この讃美歌の作詞をしたジョセフ・アディソン(1672-1719)は、英国国教会聖職者の息子で、オックスフォードで学び、政務次官等の官職を歴任した人ですが、文学的にも優れ著名な雑誌に執筆したり多くの讃美歌の作詞もしています。
神様の願いは全ての人を救いたいということです。そこで救い主イエス様をこの世界に派遣しました。イエス様は貧しい人に福音を告げ知らせるためにこの世界に来られたのです。そのイエス様に信頼しましょう。願ったことをその通りに叶えてくださるかどうかは分かりませんが、私たちが自分を貧しい人と認め、へりくだってイエス様を信じるならば、イエス様は一人一人に応じた方法で必要な恵みを与えてくださいます。それは小早川由起子さんに主がなさったようにです。
私たちが「貧しい人」であることを自覚する時、この礼拝で、また、日々の生活において、イエス様がいつも豊かな恵みを与えてくださいます。へりくだって神様を信じて、神様と共に歩む人生を送ることができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン