マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降誕後第1主日『神の家族と共に歩む』

 本日は降誕後第1主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、サムエル記上2:18-20・26、詩編148、コロサイの信徒への手紙3:12-17 及びルカによる福音書  2:41-52。説教では、聖家族に倣って、神の家族と共に歩んでいける道が与えられるよう、また、日々の生活の中で主イエスを探し求めることができるよう、祈り求めました。
 本日の福音書箇所から思い浮かべた教会問答や「ロザリオの祈り」の黙想も引用しました。
 本日の説教原稿を下に示します。

<説教>
  主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 先週は24日のイブの夕の礼拝、25日の降誕日聖餐式には初めて教会に来られた方も含めて、多くの皆さんと主の御降誕を祝うことができました。信徒の皆さんから多くのご尽力・ご協力をいただき感謝いたします。また、今日も、そして降誕日の礼拝から新しい白の祭服を着ていますが、これは信徒の皆さんの尊い献金により教会の備品として購入したものです。ありがとうございます。

 さて、本日は降誕後第1主日で降誕日後の最初の主日です。カトリック教会では「聖家族の祝日」という祝日です。
 この祝日はイエス様・マリア・ヨセフの家族に思いを馳せますが、この家族は伝統的に「聖家族」と言われて、私たちの家族の模範と考えられてきました。3年周期の福音朗読の箇所は毎年さまざまで、今年(C年)の箇所はルカによる福音書2:41-52で、ルカ福音書が伝えるイエス様の少年時代のエピソードです。

 本日の福音書の個所を振り返ります。    
 この箇所は、ルカ福音書だけが伝える12歳の少年イエスのエピソードです。「過越祭」は春分の日の後に行われる春の祭りで、「出エジプト」という神の根本的な救いのわざを記念するものでした。ユダヤ人にとって最も大切な祭りで、この祭りの時、多くのユダヤ人がエルサレムの神殿を訪れました。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフも家族を連れてエルサレムに巡礼していました。
 43節から45節にこうあります。
「祭りの期間が終わって帰路に着いたとき、少年イエスエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気付かなかった。道連れの中にいるものと思い込んで、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムへ引き返した。」 
 少年のイエス様が帰路、一緒にいないことに両親が気づかないのは、奇妙な気もしますが、これはこの当時の巡礼の仕方と関係します。当時の巡礼者たちは、安全のためにグループ(キャラバン)を作って移動していました。女性や子どもは普通キャラバン隊の先頭を進み、男性は最後尾につきました。12歳の男子はどちらの集団にもいることもできたので、両親は、イエス様が一方の集団にいるものと思い込んでいたのでした。 
 両親はイエス様を見失い、捜して、三日後に神殿でイエス様を見つけます。「三日後」や「捜す・見つける」は復活を連想させる言葉です。ルカは、この少年イエスのエピソードの中にイエス様の生涯全体が表れていると見ているのかもしれません。  
 46節から47節にこうあります。
『三日後にようやく、イエスが神殿の境内で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢さとその受け答えに驚嘆していた。』
 この教師とはユダヤ教の教師(ラビ)で律法学者のことです。12歳のイエス様が神殿で学者たちと問答している姿は、大人になったイエス様が神殿で人々に教えている姿を前もって表すものと言えます。
 49節を詳しく見ていきたいと思います。
『すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」』
 この言葉は福音書に記録されているイエス様の最初の言葉です。記念すべきイエス様が最初にお語りになった言葉です。
 ここの「自分の父の家」は直訳では「私の父のところ」です。 
 ルカ福音書が書かれた時代(紀元80年ごろ)、すでにエルサレムの神殿は崩壊していました。ルカ福音書の中での神殿とは、地上の特定の場所であるというより、「父のところ」であり、そこが本来イエス様のいるべきところだということになるのだと思います。
 この節に「いるはずだ」という言葉がありますが、これはギリシア語のという言葉の訳です。英語の聖書では「must」でした。「デイ」では「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されることもあります。典型的なのは受難予告です。ルカ9章22節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」とあります。ここの「なっている」が「デイ」です。「デイ」は、「単なる必然」というよりも、「神が定めたことであるから、そのことは必ず実現する」あるいは「神の意思であるから、必ず人はそうすべきである」というニュアンスのある言葉です。49節の「いるはずだ」は、神殿こそ父の家であり、神が定めたイエス様がいるべき場所だ、ということです。
 そして、51節です。
『それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親にお仕えになった。母はこれらのことをみな心に留めていた。』
 マリアは「これらのことをみな心に留めていた」とあります。「心に留める」と訳されてギリシャ語は「ディアテーレオー」という単語で「大事に保管(保持)する」という意味です。英語の聖書には「treasured(大事にした)」とありました。ギリシャ語のここの動詞は未完了形です。ギリシャ語の未完了形は動作の反復・継続を意味します。つまり、マリアは「これらのことをみなずっと心に留め大事にしていた」のです。「これらのこと」には、12歳のイエス様の神殿でのエピソードだけでなく、「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親にお仕えになった」ということも含まれます。「仕える」は直訳では「服従する、従う」です。イエス様が両親の思いを超えた神の子でありながら、それでも両親に従って生活する。マリアはそこに神の不思議な計画・み業をずっと感じ、大事にしていたと思われます。イエス様はその後も神様と人から恵みを受け、心身共に成長していきました。
 このような箇所でした。
 
 クリスマスからお正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを普段より余計に感じる人もいるでしょう。いずれにせよ、誰もが自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で本日、降誕日後の最初の主日に、「聖家族の祝日」は祝われます。聖家族とはイエス様と両親(マリアとヨセフ)です。

 本日の12歳のイエス様のエピソードの次にイエス様が福音書に登場するのは、30歳頃、ヨルダン川で洗礼を受ける時です。いわゆる公生涯の始まりです。イエス様はそれまでの約18年間はナザレで家族とともに過ごし両親に仕えました。そして、公生涯に入ってからはヨセフの名前は出てきません。それ以前に亡くなったのかもしれません。

 ヨセフという名前で思い出すのは、今年の4月15日に帰天されたヨセフN・M兄です。奥様のN・N姉の洗礼名はマリアです。N・Mさんは昨年のクリスマス、12月25日にご自宅で洗礼を受けられ、初陪餐も受けられました。教会の聖餐式に集うことは叶いませんでしたが、4月19日に当教会で葬送式が執り行われました。
 私が思い出すのは、逝去される6日前の4月9日に病室にお見舞いに行き、塗油(心身の癒やしを祈り額に聖油を塗ること)をさせていただいた時のことです。教父(信仰の父親)のN・Sさんも一緒でした。Nさんは最初は目をつぶって黙っておられましたが、油を塗るときに、私が「父と子と聖霊のみ名によって、あなたに聖油を塗ります。アーメン」と言うと、私の声に続いて「父と子と聖霊のみ名によって」と言って十字を切っていました。この日の病床訪問では、私がお祈りを終えて病室を出てから、傘を部屋に置き忘れたことに気がつき静かに戻ると、Nさんは目をつぶり手を合わせて真剣に祈っておられました。悔い改めてすべてを神に委ねる信仰者の姿を目撃したように思いました。
 ヨセフN・M兄は洗礼を受けてから4ヶ月足らずで召されましたが、前橋聖マッテア教会の信徒であり「神の民」「神の家族」の一員だった、いや今もNさんは父なる神の家のメンバーであると確信しています。

 イエス様が福音書で最初に言った言葉は「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」です。
 これは、父の家、神様の家にこそ、見失われたものがいるということです。私たちはすべて、父なる神の家のメンバーであります。私たちは自分を見失ったり、お互いに理解し合えなくなったり、ということもあります。しかし、人間的な困難さや、人間的な分からなさに直面した時に、私たちは父なる神の家のメンバーであるということを思い起こせば、すべては神のはからいの中にあること、そして本当の人間の絆は何かということを見いだすことができるのではないかと思います。どんな時も、孤独や困難な時も、私たちは父なる神の家のメンバーなのであります。
 そのことで思い浮かべることがあります。それは私たち日本聖公会の教会問答の問1です。祈祷書の258ページです。こうあります。
『 教会問答
1.問 教会とは何ですか
答 主イエス・キリストにあって神に生きるすべての人の集まりで、神の家族、キリストの体、聖霊の宮と言われています』
 教会は神様・イエス様を信じる人々の共同体で、私たちは「神の家族」なのであります。これは神の恵みの中で生まれる新しい家族です。イエス様を中心としたつながりこそ、私たち神の家のメンバーの絆です。 

 私は毎日、朝の祈りの後、「絵で見るロザリオの祈り」という小冊子を使って「ロザリオの祈り」を捧げていますが、今日の福音書の箇所はこのような絵です。

「喜びの神秘」の第5の黙想「マリア、イエスを見いだす」です。神殿で12歳のイエス様が学者たちと問答しています。そこにマリアとヨセフが駆けつけたところです。この絵の下にはこうあります。「マリアとヨセフは、見失ったイエスを神殿で見いだします。この一連をささげて、日々の生活の中で主イエスを探し求める心を聖母の取り次ぎによって願いましょう。」
 私たちがいるべきところは神の家であり、私たちは日々の生活の中で主イエス様を探し求めることが勧められています。
 
 皆さん、私たちは父なる神の家のメンバーであるということを思い起こし、神の恵みの中でどのように他のメンバーとつながっていけばいいでしょうか? 分からないものを理解して、共に歩もうとする時、祈ることによって、主はその道を、家族の新たな道を示してくださると思います。
 教会は神の家族であり、私たちは神の家のメンバーです。イエス様・マリア・ヨセフの分からなさを乗り越えて、共に歩んで行った聖家族に倣って、神の家族、神の家のメンバーと共に歩んでいける道が与えられるよう、そして日々の生活の中で主イエス様を探し求めることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン