マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

降臨節第4主日『摂理を受け入れる』

 本日は 降臨節第4主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。新町は降誕日の礼拝がないのでクリスマスのインテンション(意向)で行いました。礼拝後は、旧幼稚園ホールで一足早くクリスマスを祝い茶話会を行いました。皆さんがたくさんのお菓子を持ってきてくださり歓談しました。私と妻は、紅茶やコーヒーを振る舞いました。

 高崎の礼拝での聖書箇所は、ミカ書5:1-4a、マリヤの歌(ルカによる福音書1:46b-55)、ヘブライ人への手紙 10:5-10及びルカによる福音書1:39-45。説教では、マリアのエリサベト訪問から、神が私たちの所に来てくださり挨拶してくださる方であることを知り、聖霊が知らせる神の計画、摂理を受け入れ、「主と出会い主のみ言葉を信じることこそ幸せ」という実感を持ってクリスマスを迎えるよう祈り求めました。
 このテーマから思い浮かべた、渡辺和子の本「忘れかけていた大切なこと」からの言葉も紹介しました。
 本日の高崎の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は降臨節第4主日です。アドヴェントクランツのろうそくも4本まで火が灯りました。明後日、火曜はクリスマスイブ(降誕日前夕)、そして、水曜はクリスマス(降誕日)となります。

 本日の福音書の箇所はルカによる福音書の1章39節-45節で、天使から神の子を宿すという予告を受けたマリアが、身ごもっていると知らされた親類のエリサベトを訪ね、二人がやりとりする箇所です。
 旧約聖書はミカ書5章で、「ベツレヘムからイスラエルを治め群れを養うものが出る」(1節)こと、そしてその方が「大いなる者となりその力が地の果てまで及ぶ」(3節)というメシア預言の箇所です。使徒書は、ヘブライ人への手紙10章で、降臨の時にキリストが言われた「御覧ください。私は来ました。~神よ、御心を行うために」(7節)という箇所が選ばれています。これらは、メシア(救い主)の降臨の予告とその意味を示しています。 
 
 本日の福音書の箇所はその前の箇所からつなげて考えるといいと思います。そこも含めて振り返ってみます。
 まずは受胎告知の場面です。イスラエルの北部、ガリラヤのナザレに住むマリアの前に天使ガブリエルが現れ、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という挨拶の言葉を語りました。マリアは、当時14~16歳くらいと思われます。その彼女に天使は、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と戸惑いますが、天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と語ります。そして、天使はマリアに向かって、神の力が確かに働いている証として「あなたの親類のエリサベトも老年ながら、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」と告げます。その言葉を聞いてマリアは、「私は、主の仕え女(つかえめ)です。お言葉どおり、この身になりますように」と言いました。(「仕え女(つかえめ)」は以前の訳では「はしため(下女、召使い)」でした)
  
 そして、本日の箇所です。「マリアのエリサベト訪問」、カトリックでは「聖母訪問」と呼ばれる箇所です。
 マリアは、エリサベトがいるユダの山里に向かいました。それも「急いで」です。イスラエル北部のナザレから南部のユダの山里(エルサレムの西郊外のエインカレムという村と考えられています)までは、直線距離で約120㎞、徒歩で3日~4日かかると考えられます。その道を、まだ十代半ばのマリアは急ぎました。その心の中にあった思いは何でしょうか? 
 高齢のエリサベトが身ごもって既に6カ月となっているという天使の言葉が、本当かどうかを一日も早く確かめたかったのでしょうか? それだけではないように思います。マリアは、エリサベトが妊娠6カ月になっていることを天使から聞いた時に、エリサベトもまた主の言葉に自分の身を捧げたのだと確信したと思います。そして、マリアは、この時、まだ自分の身に起こったことを誰にも告げていないと思います。誰に言っても信じてもらえないことは火を見るよりも明らかだからです。誰にも何も言わずに、家を飛び出すようにして、エリサベトに会いに、危険な旅に出たと考えます。
 マリアは、どうしてもエリサベトに会いに行きたかったのだと思います。エリサベトもまた、最初、自分の身に起こったことの意味が分からず、「五か月の間身を隠した」(ルカ1:24)女性です。しかし、そのような経験を通して、「主の言葉は必ず実現する」ことをその体で知らされた女性です。この時のマリアは、そのエリサベトにどうしても会いたいと思ったのではないでしょうか? 主の言葉を聴いて受け入れる信仰を共にしたいと。「主の言葉は必ず実現する」ことを信じる信仰を、顔を見つつ互いに確認できることは、本当に大きな喜びです。その喜びは、自ずと主への賛美となって現れます。マリアは、その喜びと讃美に向ってユダの山里に向って急ぎ、その坂道を登っているのだと思います。

 その地で、感動的な場面を迎えます。マリアがエリサベトに挨拶すると、エリサベトの胎内の子が踊りました。その子は洗礼者ヨハネです。エリサベトは、「聖霊に満たされて、声高らかに」言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。・・・。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と。
  
 続いて、このエリサベトの言葉を聞いて、マリアは、言います。それが本日の詩編「マリヤの歌」、これまで「マリアの讃歌」と呼ばれていた「神をたたえる喜びの歌」です。
 冒頭1節で、マリアはこう言います。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえる」と。マリアは、このとき天使から告げられたことを実感したのではないかと思います。4節に「力ある方が、私に大いなることをしてくださったから」とあります。
 マリアは、神様の力、聖霊が働き、自分も神の子を身ごもることが事実であると確信を持ったと考えます。そして、この自分の身に起こった出来事は、自分だけのことではなくて、エリサベトにとっても同様なことが起こっているのだということを感じ、神様の大きな計画、摂理ということを思ったのではないでしょうか?

 なお、この場面でマリアがエリサベトにした「挨拶」は神からの祝福を伝える手立てであって、単純な日常の挨拶とは違います。聖書の世界における「挨拶」は日本語の感覚とは違っています。私たちが聖餐式の中で行う「平和の挨拶」や手紙などの冒頭に書く「主の平和(シャローム)」も日常生活を円滑にするためのものではありません。今日の箇所では、マリアが「挨拶する」と、エリサベトは聖霊に満たされて賛美を唱え、胎内の子は喜び躍ります。このような挨拶は単なる儀礼や個人的な好意を表明する挨拶を超えて、神の祝福を運ぶ手立てとなっています。天使ガブリエルの「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という挨拶も、イエス様が弟子に家に入ったときに命じた「この家に平和があるように」という挨拶も、復活のイエス様が弟子に最初に言った「あなた方に平和があるように」という挨拶も神の祝福を運ぶ挨拶であります。

 皆さんは本日のこの箇所からどんなことを感じられますか? 神様はこの箇所から私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 本日の福音書の箇所で、私の心に響いたのは、神の子を宿したマリアがエリサベトを訪問し挨拶したこと、それを聞いたときエリサベトの胎内の子(洗礼者ヨハネ)が喜んで躍ったこと、そして、エリサベトが聖霊に満たされて、声高らかに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と言ったことです。
 私は、これらのことは私たちにも起こることだと考えます。つまり、神様は私たちに目を留められ、神様の方から、私たちの所に来てくださり神の祝福を運び挨拶してくださる。そのとき私たちは神様と出会い、聖霊に満たされ喜び躍る。そして神様をたたえるのです。
 私には神様が私たちに伝えようとしていることは「神は、神の方から、私たちの所に来てくださり神の祝福を運び挨拶してくださる方である。その神は私たちの主である。その主と出会い、聖霊に満たされ、主のみ言葉を信じることこそ幸せなのだ」ということではないかと考えます。

 マリアほどでなくても、私たちにも予期せぬ出来事「どうして私に?」と思わされるようなことが起きます。そのとき、それを運命と思うか、神様の計画、摂理と思うかで、道は変わってくるのではないでしょうか?
 シスター渡辺和子は、この本「忘れかけていた大切なこと」の中で「運命は冷たいけれど摂理はあたたかい」と言っています。

 この本にこうあります(P.63-65)。 
『私は50歳で脂が乗っているとき、仕事が面白くて仕方がないときに「うつ病」という欲しくもない病気をいただきました。その時、一人のカトリックのお医者様が、「シスター、運命は冷たいけれど、摂理はあたたかいですよ」と慰めてくださったのです。その言葉は、この世の中に起こることをしょうがないこと、つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け取るのなら摂理として、神のはからいとして受け取る、だから「大丈夫」ということです。(中略)神の摂理として病気をいただいたということ、その時はとても辛かったけれども、今となってはあの時あの病気をしてよかったと思います。病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。自分の弱さを知ったからです。私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。そして、そう思うことができるようになったことをありがたいと思います。』
 置かれた状況を運命と思ってあきらめるのでなく、この状況には必ず何か意味がある、そしてそれは聖霊が伝える神様の計画、摂理なのだという発想を持ちたいと思います。
 
 皆さん、いよいよ今週の水曜は降誕日(クリスマス)です。神が人となり、いと小さい幼子としてこの世界に降(くだ)ってこられたことによって、全世界に大きな光がもたらされました。「神の力、聖霊が働き、主と出会い、主のみ言葉を信じることこそ幸せ」ということを確認するクリスマスでありたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン