マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第26主日『真実な方に希望を持ち続ける』

 本日は 聖霊降臨後第26主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ダニエル書 12:1-3、詩編16、ヘブライ人への手紙 10:11-14・19-25、マルコによる福音書  13:1-8。説教では、世の終わり(終末)の兆候が現れても、慌てず惑わされず、真実なお方であるイエス様に希望を持ち続けて、日々生きることができるよう祈り求めました。
 本日のテーマから思い浮かべたヴィクトール•フランクル著『夜と霧』からのエピソードも紹介しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第26主日です。そして、次主日24日は降臨節主日という主日聖霊降臨後の最後の主日となります。
 聖霊降臨後の期節も終わりに近づくと、聖書日課最後の審判など終末や世の終わり等のテーマが多くなります。

 私たちの教会は「改正祈祷書試用版」の聖書日課を使用しており、本日の福音書はマルコによる福音書13章1-8節ですが、これまでの聖書日課ではこの箇所が採用されたことはなく、今回初めて取られました。
 マルコ13章は「小黙示録」とも呼ばれる、イエス様の預言の言葉で、預言の内容はとても複雑です。
 本日の箇所を理解するには当時のユダヤの状況を知る必要があります。マルコによる福音書が執筆されたと考えられる西暦60年代は、終末思想が強く、当時の政治の乱れや、ユダヤ人がローマ軍に反逆して起こしたユダヤ戦争の勃発などによって生活が苦しく、その時はいつ来るのか、どのようにしてくるのか、その時にはどうすればよいのかということが絶えず議論されていたようです。ユダヤ人は、不安と恐れの中に、非常に差し迫った「時」が想定され、緊張が続いていました。それは「主の日」が来るということであり、それは、救い主が現れることであり、神が裁きをもたらす「時」でもありました。
 このような状況の中で、イエス様は弟子たちに説教を行い、エルサレムの神殿が崩壊されることを予告し、終末のしるしが表れる、その時には、大きな苦難が来ると予告されたのです。

 本日の福音書の箇所について解説を加えて振り返ります。
 冒頭の1節で、弟子の一人が「なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう。」と賞賛しているのは、エルサレム神殿です。これが現在の発掘された神殿の一部です。

私は2018年にこの場所に行きましたが、かなり壮麗な建物でした。イエス様がこの境内を出て行った当時、神殿はまだ工事中でした。この神殿は紀元前20年にヘロデ大王によって拡張工事が始められ、紀元64年に完成しました。完成までに84年かかったことになります。イエス様と弟子たちが神殿を去ったのは紀元30年ですので、工事開始50年後のことです。外面の美しさに目が奪われる、これは私たちにも見られるものです。壮麗な神殿の姿は神の栄光を現しているとも受け止められていました。 
 続く2節で、イエス様は、「この大きな建物に見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」と言って、この神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃が起きてその通りになりました。イエス様は、「今、あなたが目を奪われている素晴らしいものは過ぎゆくもので、本当に見なければならないものは別にあるのだ」と言っているように思います
 3節からは場所がオリーブ山になります。イエス様がそこから神殿を向いて座っていると、預言が気になった4人の弟子(ペトロ、ヤコブヨハネ、アンデレ)が「それはいつ起こるのか、その時どんな前兆があるのか」と聞きます。それに対して、イエス様は「人に惑わされないように気をつけなさい。」と話し始めて預言が語られていきます。預言は語られるうちに、エルサレム神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆、すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。
 そして、イエス様は、神殿破壊の前兆として、イエス様の名を名乗る者(つまり、「偽キリスト」)が大勢現れ、「戦争のことや戦争の噂」(地域戦争のこと)や「民族は民族に、国は国に敵対して」(世界戦争のこと)、地震、飢饉が起こると預言されました。最後に「これらは産みの苦しみの始まりである。」とおっしゃいましたが、これは「今の世が終わり新しい世になるための陣痛の始まりである。」ということです。 聖書で言う「世の終わり(終末)」とは、地に神の支配が成るときです。苦難は神の支配が地にもたらされるための産みの苦しみです。
 このような内容でした。

 この箇所から神が私たちに伝えたいことは何でしょうか?
 それに関しては本日の旧約聖書、ダニエル書12章1-3節にヒントがあります。
 本日のダニエル書の日課キリスト教の死生観を言い表しています。2節前半に「地の塵となって眠る人々の中から 多くの者が目覚める。」とありますが、復活とはまさに死からの目覚めであることがはっきり言われています。また、2節後半では「ある者は永遠の命へと またある者はそしりと永遠のとがめへと」なると言われます。選別が行われるので最後の審判があることを示唆しています。
 さらに、永遠の命に与る人たちのことを3節で「悟りある者たちは大空の光のように輝き 多くの人々を義に導いた者たちは 星のようにとこしえに光り輝く。」と言っています。これらの人々が輝くというのは、第一コリント15章でパウロが言うように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられることを意味します。「悟りある者たち」というのは、イエス様により神の秘められた計画を理解できるようになった人のことであり、その人たちは復活の体を着せられて永遠の命を持って生きることになると言うのです。
 3節にはまた、最後の審判を乗り越えた人たちとして「多くの人々を義に導いた者たち」もあります。ここの原文を直訳すれば、「多くの人を神のみ前で無罪になるように導いてくれる人々」です。そういう導きをする人はイエス・キリストの福音を周囲に伝える人のことと言えます。そして、福音を伝えられて受け入れた人は最後の審判で無罪扱いになります。ですから、福音を伝えられて自分のものにすることができれば最後の審判の恐れを上回る勇気が得られるであります。
 この箇所で言われていることは、「復活はあり、イエス様により神の計画を理解しキリストの福音を伝える人は永遠の命が与えられる。」ということだと思います。イエス様は、だから「慌ててはいけない。希望を持って生きなさい」と言っているのではないでしょうか?

 偽キリストが現れ戦争や地震や飢饉が起こったとき、どう振る舞ったらいいのでしょうか? それは「真実を見抜き希望を持って生きること」ではないでしょうか? それは本日の使徒書、へブライへの手紙10章23節で「約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。」とある通りです。

 そのことで思い浮かぶ書物があります。それはヴィクトール•フランクル著『夜と霧』です。

『夜と霧』は、第2次世界大戦中、アウシュビッツ等の強制収容所に収容されたユダヤオーストリア人の精神科医、ヴィクトール•フランクルが収容所での体験を基にした記録です。ここには、極限状況に置かれた人々が陥る心理状態等が記されています。強制収容所では、労働力にならないと見なされた者は、容赦なく殺されていきました。飢えと寒さ、疫病が蔓延する中で過酷な労働が強いられます。このような悲惨な生活環境の中でも生き残ることができた人々がいました。
 それはどのような人たちだったのでしょうか? それは、「生きる希望を失わなかった人」だったとフランクルは言っています。有名なエピソードを紹介します(P.181)。お読みします。
「医長によると、1944年のクリスマスと1945年の新年との間に、我々は収容所では未だかつてなかった程の大量の死者が出ているのである。彼の見解によれば、それは過酷な労働条件によっても、また悪化した栄養状態によっても、また悪天候や新たに現れた伝染疾患からによっても説明され得るものではなく、むしろこの大量死亡の原因は、単に囚人の多数が、クリスマスには家に帰れるだろうという、世間で行われる素朴な希望に身を委ねた事実の中に求められるのである。クリスマスの季節が近づいて来るのに、収容所の通報は何ら明るい記事を載せないので、一般的な失望や落胆が囚人を打ち負かしたのであり、囚人の抵抗力へのその危険な影響は当時のこの大量死亡の中にも示されているのである。」
 「クリスマスに解放される」という希望で命をつないでいた人たちは、その希望が叶わなかった絶望から命を落としてしまったのです。まさに「絶望は死に至る病」(キェルケゴール)です。「連合軍がクリスマス前に来て解放する」という不確かな情報を信じて、それを希望とした人はそれが実現できなかった時に、以前にも増した大きな絶望を感じ命を落としたのです。
 ここで言えるのは、私たちが生きるために必要なことは、単なる希望でなく真実に基づいた希望を持ち続けることだということです。

 今、世界では戦争や内戦等によって亡くなったり被害に遭っている人がたくさんいます。また、地震や自然災害等が起き、飢饉や苦しんでいる人も大勢います。そのような時に生きるために必要なことは希望を持ち続けることですが、何の根拠もない「偽キリスト」のような安易な希望に惑わされてはならないと、イエス様は命じておられます。
 私たちは、真実なお方、「道であり、真理であり、命である」イエス様に全幅の信頼を置き、主イエス様を希望として持ち続けていきたいと願います。
 教会暦ではもうすぐ一年が終わります。「世の終わり」の前兆のようなことが起きていますが「世の終わり(終末)」とは、地に神の支配が成るときであることを心に留め、慌てず惑わされず、私たちのために神の支配をもたらすために苦しまれたイエス様に思いを向け、日々生きることができるよう祈り求めたいと思います。 

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン