聖霊降臨後第25主日『自分の人生・生活を神に献げる』
本日は 聖霊降臨後第25主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。新町聖マルコ教会教会墓地納骨場所拡張工事が完了したので、それに合わせて、礼拝後、教会墓地で12時30分から「逝去者記念の式」が行われました。ここに葬られている信仰の先達の魂の平安を祈りました。式後、記念写真を撮りました。

10時30分からの聖餐式の聖書箇所は、列王記上17:8-16、詩編146、ヘブライ人への手紙9:24-28、マルコによる福音書12:38-44。説教では、律法学者とやもめを比較して語るイエス様の真意を知り、このやもめのように自分に固執せず神様に自分の人生・生活を献げて生きることができるよう祈りを捧げました。
本日のテーマから思い浮かべた修道女、聖女バルトロメア・カピタニオ及びこのシスターの祈り「主イエスよ、私自身をすべて献げます」を紹介しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
教会暦では、去る11月1日は諸聖徒日、翌2日は諸魂日という祝日でした。諸聖徒日は世を去ったすべての聖徒(聖人)のために祈る日であり、諸魂日は世を去ったすべての信徒・死者の魂のために祈る日です。本日はこれらの祝日後の最初の礼拝です。11月はカトリック教会では「死者の月」とされています。
そこで、本日の礼拝では、特祷の後に「逝去者のための祈り」を捧げ、新町聖マルコ教会のすべての逝去者のお名前を挙げて魂の平安を祈りました。また、本日は、週報にありますように、教会墓地納骨場所拡張工事が完成しましたので、それに合わせて、礼拝後、教会墓地で12時30分から「逝去者記念の式」が行われます。
さて、本日は聖霊降臨後第25主日、福音書はマルコによる福音書の12章38節から44節です。
本日の箇所について、解説を加えて振り返ってみます。
この箇所も先主日と同様、イエス様の地上での最後の1週間の火曜日に起こったことで、場所はエルサレム神殿です。
この福音書の前半の38―40節は、気をつけるべき律法学者に関するイエス様の言葉です。イエス様は、自分たち独特の衣装をまとい、目立つ場所に立ちたがり、やもめと呼ばれる夫を失った女性たちを食い物にし、その言い訳に長いお祈りをする、そのような律法学者に気をつけなさい、と警告しています。本日の箇所の律法学者に見られるこの偽善は、彼らのうちに神様への誠実な信仰がなくなっていることから生じていると考えます。もし、心から神様の思いに忠実なら、やもめに対する態度もまったく違ったことでしょう。彼らは、出エジプト記に記された律法「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。」(22:21)を知っていたはずだからです。イエス様は、私たちにも「この律法学者と同じような行動をしないように」と警告していると考えます。
後半の41―44節には、一人のやもめが登場します。やもめは、男性だけが働くことを許された時代の中で、働く場もなく、大変貧しい立場に置かれていました。そのやもめの一人が、祈るために神殿にやって来ました。神殿はたくさんの人が祈るために集まる場所です。この人の前にも金持ちが来て、たくさんの献金を献げていました。ここの動詞は未完了形でしたので、動作の継続・反復を表します。つまり献金を何度も献げていたのです。それに対してこのやもめが献げたのは、レプトン銅貨2枚、つまり1クァドランスだけでした。ここの動詞は不定過去形でした。つまり一回だけ献げたのです。レプトン銅貨はユダヤの最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは当時の労働者の1日の日当であり、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円ぐらいの価値と考えられます。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、1デナリオンの64分の1(1レプトンの倍)にあたります。マルコによる福音書は異邦人の改宗者(特にローマ人)を対象に書かれており、一説ではマルコはローマで執筆したとされていますので、ローマの貨幣に換算したと考えられます。やもめが献げた金額は今の価値では100円くらいと考えられます。額が少ないため、おそらくほかの誰も目をとめなかったこのやもめに、イエス様の注意が向けられます。
43・44節にこうあります。
『イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」』
このやもめが献金箱に入れたものは「生活費を全部」と言われますが、「生活費」と訳されたギリシア語は「ビオス」で、それには「人生」とか「生活」の意味もあります。英語の聖書(欽定訳)ではこの部分は「all her living」(彼女の人生のすべて・生活のすべて)とありました。このやもめはただ単に生活費を献げたというのでなく「彼女の人生・生活のすべてを神様に差し出した」と受け取ることができます。
そして、「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。」と、この行動をイエス様は大変賞賛されたのでした。
これが本日の福音書の内容です。
ところで、先ほどの旧約聖書、列王記上17章もこの福音書の箇所と似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主がこの地に雨を降らせる日まで、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることはない。」(14節)という神の言葉が実現した、という話です。すべてを差し出したところに神の救いの力が働いたのです。
エリヤとやもめの行動を通して描かれているのは、神様への絶対的な信頼です。このやもめもまた、残されているものを失えば死を待つばかりの状況の中で、そのかけがえのないものを献げた一人です。繰り返すことのできない献げ物によって、神様への信頼が表されています。
今日の福音書では、やもめを「食い物にする」律法学者(38―40節)と「生活全部」を神様に献げるやもめ(41―44節)を描くことによって、2つの生き方を対比しています。イエス様が献金箱の向かいに座って群衆の様子を見ていたのは、献金額を知るためではなく、神様に全幅の信頼を置き、生活全体を神様に捧げる人を探すためでした。人間的な力に頼ることのできないやもめが、イエス様の目に叶ったのです。それはなぜでしょうか?
主イエス様が心に留められたのは銅貨ではなくやもめの信仰でした。貧しいやもめは、主を信頼し、主を助けとし、ただ主の恵みによって満たされることに希望をかけ、自分の持てるものすべてを主に献げたのです。そのような生き方を神様は「よし」とされるであります。そして、イエス様自身も私たちを愛するがゆえに、父なる神様に御自身の命を献げたのです。
神様は、私たちの献金の額面を御覧になっているのではありません。額面の大きさではなく、犠牲の大きさを御覧になっているのです。どれだけ神様のために自分を献げているかということです。神様のために、この世の生活の多くを犠牲にした人は、天の祝福を多く受け取るのであります。
私たちは人生・生活の中でどれだけ神様のために自分を献げているでしょうか?
今日は、このやもめのように自分の持っているものを手離し、すべてを神様に献げた一人の聖人を紹介します。奉献生活者である修道女、聖女バルトロメア・カピタニオです。聖女バルトロメア・カピタニオについては、この本「一粒の麦2 聖女バルトロメア・カピタニオの生涯」に詳しく記されています。

バルトロメア・カピタニオ(1807-1833年)は北イタリアの小村ローベレに生まれ、恵まれない境遇に生きている人々、特に教育を必要とする子供たちに神様の心の良き伝達者となり、罪科を償っている受刑者には共に涙をながす愛情に満ちた理解者となり、また病人を世話するときには身体の看護だけでなく心を癒やす人となって働きました。自分も健康を害し、若くして自分の死を予知しながらも、命の続く限りこれらの人々に仕え、その短い生涯を捧げ尽くしました。日本では愛知県瀬戸市に聖カピタニオ女子高等学校という彼女の精神に基づいた女子校があります。
この修道女の祈り、「主イエスよ、私自身をすべて献げます」がこの本「聖人たちの祈りに」に収録されています。

このような祈りです。
主イエスよ、あなたは教えて下さいました。
あなたへの愛と、隣人への愛とが、
切っても切れない関係にあることを。
これから先、私の主よ、
あなたが下さったものの何一つも、
私の所有物として保持することはいたしません。
いのち、健康、能力、
考え、言葉、行い、持ち物 、
それらすべてを他者への奉仕に用います。
余分なものはすべて捨て去ります。
小さい者、貧しい者、病む者に、
徹底的に奉仕できるよう
最小限、必要な物だけで済ませます。
この約束の実行を、
主よ、私は厳かに誓います。
主よ、私は自分に頼りません。
あなたと、あなたの恵みの助けとにこそ、
全幅の信頼を置きます。
私の主、私の神よ、分からせて下さい。
取るに足りない道具の私でさえ、
あなたの全能の手の中でなら
最も偉大なわざを行えるということを。
私の神よ、常に私のそばにいて下さい。
私の心から利己主義をすべて取り除き、
私の心を愛と献身とに開かせて下さい。
私は自分のすべてを、あなたに委ねます。
私はもはや自分のものではなく、
私の命である主イエスよ、
実に、ことごとく、あなたのものなのです。
この聖女バルトロメア・カピタニオの祈りは、すべてを主イエス様に献げ、すべてを主に委ねる謙遜な祈りと言えます。
皆さん、私たちも、本日の福音書のやもめやサレプタのやもめ、そして聖女バルトロメア・カピタニオのように、神様に全幅の信頼を置き、自分に固執せず、イエス様の愛に応えたいと願います。そして、神様に自分の人生・生活を献げ、日々主に仕えることができるよう祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン