聖霊降臨後第23主日『盲人バルティマイの信仰に倣う』
本日は 聖霊降臨後第23主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、エレミヤ書31:7-9、詩編126、ヘブライ人への手紙7:23-28及びマルコによる福音書10:46-52。説教では、盲人バルティマイの信仰に倣い、イエス様を信頼し叫び続け、求め続け、主イエス・キリストに従い続けることができるよう祈り求めました。
本日の福音書のテーマから思い浮かべた人物、ヘレン・ケラーについても言及しました。
新町の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
週報にもありますように、昨日、教会墓地拡張工事の祈りを現地において私と業者(河野石材)で捧げました。この工事は近日中に完成します。完成した現場を見ていただきたいと考え、11月10日の礼拝後に当教会墓地において「逝去者記念の式」を行いたいと考えました。本日、受付に「墓地礼拝のご案内」のハガキを置きましたので、お持ち下さい。皆さん、予定に入れておいてほしいと思います。
さて、本日は聖霊降臨後第23主日です。福音書箇所は、マルコによる福音書10:46-52 で、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「盲人バルティマイを癒す」です。
本日の箇所を解説を加えて振り返ります。
イエス様と弟子たちが、エリコというエルサレムから北東へ約26キロほどの町に着き、そこからエルサレムに向かって、通りを歩いておられた時のことでした。その道端に、バルティマイという盲人が、物乞いをしていました。そこに、「ナザレのイエスが来た!」というような声が聞こえ、通りかかる人々が、叫びながら走って行きました。バルティマイは、その声と足音を聞いて、叫び続けました。この言葉のギリシャ語原文は未完了形であり、それは動作の継続・反復を意味します。バルティマイは「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けたのです。
当時のユダヤ人は、千年前に実在したダビデ王の再来として、「救い主」が現れると、伝えられていました。従って、「ダビデの子」というのは、「メシア(救い主)」、「キリスト」を意味する呼び名でした。バルティマイが、「ダビデの子、イエスよ」と叫んだ、この言葉は、「救い主、キリストであるイエス様」という信仰告白の言葉でもあったのです。
バルティマイは、たぶん、「ナザレのイエス」という方について、多くの病人を癒やしておられるという噂を聞いて知っていたのでしょう。人のざわめき、声を聞いて、バルティマイは、イエス様が近づいて来られるのを知って、思わず叫んだのです。
「私の目を癒やしてくれる方は、この方しかいない、私を救って下さる方は、この方しかいない。今、この機会を失うと二度とお会いできない」、そういう切羽詰まった思いがあったに違いありません。
ところが、まわりにいた多くの人々は、彼を叱りつけて、黙らせようとしました。それにもかかわらずバルティマイは、ますます、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」、言い換えれば「キリステ・エレイソン(キリストよ、憐れみをお与えください)」と叫び続けたのでした。人が止めようと叱ろうと、必死になって叫び続け、命がけでイエス様を求める姿を想像します。
イエス様は、バルティマイの悲壮な声を聞いて立ち止まり、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。
そこで人々は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言って伝えました。すると、バルティマイは、上着を脱ぎ捨て(原文では「投げ捨て」)、躍り上がって、イエス様のところに来ました。この上着は古い生き方の象徴で、それを投げ捨てたのは、新しい生き方への転換を表すと考えられます。
イエス様は、「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。すると、この盲人は、「先生、また見えるようになることです」と言いました。そこで、イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と。
盲人バルティマイは、すぐ見えるようになり、なお、エルサレムに向かって進まれるイエス様に、従いました。
このような内容でした。
バルティマイという盲人が癒やされ見えるようになったという出来事を通して、神が私たちに伝えていることはどんなことでしょうか?
バルティマイの行動や思いに注目してみたいと思います。
イエス様が近くに来たことを知ったバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び続けました。多くの人々が叱りつけても黙らず大声で「キリストよ、憐れみをお与えください」と叫び続けました。イエス様から呼ばれると即座に応答して、躍り上がってイエス様の所に行きました。そして、「何をしてほしいのか」と問われると、彼の望んでいた一つのこと「また見えるようになること」とはっきり求めました。その言葉には、必死の思いと「イエス様ならそれを与えてくださる」という信頼がありました。
叫び続け、求め続け、そして信頼して招きに応えるこの盲人バルティマイの信仰をイエス様が受け止め、癒やされたのです。ちなみに「信仰」と訳されているギリシャ語原文(ピスティス)は「信頼」とか「忠実」という意味を持つ言葉です。
バルティマイの真摯な思い、イエス様への信頼に基づき必死に一つのことを願う思いが、イエス様の「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」という言葉と癒やしを導きました。バルティマイは救われたから信じたのでなく、信じたから救われたのでした。そして、イエス様は救われた者に「行きなさい。」と命じ、バルティマイはエルサレムに向かうイエス様に従ったのです。ここで「従った」と訳された原文のギリシャ語も未完了形で、継続・反復を表します。バルティマイは十字架という受難に向かうイエス様に、ずっと従い続けたのです。
まとめれば、バルティマイは、救い主であるイエス様に憐れみを求め叫び続け、呼びかけに応えてイエス様のところに来て思いを伝え、霊的に救われ、癒やされ、イエス様に従い続けたのです。これは、キリスト者(クリスチャン)のあるべき姿と言えます。
「christian」を、ある英英辞典ではこう説明しています。
「christian is a person who follows or adheres to Christianity, monotheistic religion based on the life and teachings of Jesus Christ.」
直訳すると、「キリスト者(クリスチャン)とは、キリスト教、つまり、イエス・キリストの生涯と教えに基づく一神教を信じ、従う人」となります。
端的に言えば「christian is "a person who follows of Jesus Christ". 「クリスチャンとはイエス・キリストに従う人」と言えます。
神が私たちに伝えているのは、盲人バルティマイが癒やされ見えるようになったことよりも、このバルティマイのようなキリストに従い続けるという信仰が重要であるということではないでしょうか?
そのことで私が思い浮かべる人物がいます。それはヘレン・ケラー(1880年~1968年)です。ヘレン・ケラーは2歳の時の高熱のため、聴力・視力を失い話すことができなくなりました。家庭教師のアン・サリバンが、自分が弱視だった経験を生かしてヘレンに「しつけ」・「指文字」・「言葉」を教え、それにより、ヘレンは「話す」ことができるようになりました。
ヘレン・ケラーの自叙伝『わたしの生涯』の最後の方(P.452)で、ヘレン自身が信仰告白をしているところがあります。

こうあります。
「私はこの地上においてもイエスの教訓に基づいて生きうることを信じ、最大の幸福は世界がイエスの『なんじら互いに相愛すべし』という命令に服従した時、来るものであることを信じています。(中略)ゆえに私は人生が与えられているというのは、愛において成長せんがためであって、神は太陽が花の色と香の中にあると同じように私のうちに存し、私の闇の光となり、私の沈黙の声となってくださることを信じます。」
ヘレン・ケラーにとっては信仰が強い支えとなっていました。ヘレンは肉の眼(まなこ)は見えないままでしたが、神を信じ救われ霊の眼(まなこ)により真理を見ることができたと考えます。ヘレン・ケラーはキリストに従い続けるという信仰を持っていたのです。
冒頭お話ししましたように、11月10日は教会墓地で「逝去者記念の式」を行います。そこには、主イエス・キリストを信じ続けた信仰の先達が眠っています。
皆さん、本日の福音書の盲人バルティマイはイエス様を信頼して、叫び続け、求め続け、そして招きに応えました。イエス様はその信仰に応え、バルティマイを癒しました。彼は救われたから信じたのでなく、信じたから救われたのです。さらに、イエス様は救われた者に「行きなさい。」と命じ、バルティマイはエルサレムに向かうイエス様に従い続けました。これこそキリスト者(クリスチャン)のあるべき姿であり、ヘレン・ケラーにも見られるものです。私たちはバルティマイやヘレン・ケラーの信仰に倣いたいと願います。そして、霊の眼(まなこ)を開けていただき、受難を経て復活された主イエス・キリストに生涯従い続けることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン