マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第22主日『仕える者として生きる』

 本日は 聖霊降臨後第22主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、イザヤ書53:4-12、詩編91:9-16、ヘブライ人への手紙5:1-10及びマルコによる福音書10:35-45。説教では、イエス様が私たちに望むことは、権力の座に着いたり支配したりすることではなく、仕える者や僕として生きることであることを知り、そうできるよう祈り求めました。
 本日の福音書の弟子たちの思いに関連してNHK大河ドラマ「光る君へ」に言及し、テーマから思い浮かべた言葉「サーバント・リーダーシップ」についても思い巡らしました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私は去る10月7日(月)・8日(火)と大阪で行われた管区の人権セミナーに参加しました。その2日目は、当初の予定が変更され「日本聖公会として京都事件にどう向き合うか」について、参加者で話し合いました。
 「京都事件」というのは、2001年に明らかになった、京都教区の当時の牧師が複数の少女に継続して行った性暴力及びその後の京都教区の対応による二次加害等の一連の出来事を言います。話合いでは、初期対応のまずさや主教の責任を問う声、私たちがどの立場に身を置くか、被害者には謝罪し続けるしかない、外部の専門家を入れた第三者委員会の設置等についての意見が出されました。この事件については、受付に京都教区の検証報告書を置きましたので、ご覧下さい。また、私のブログで今回の人権セミナーの報告をしましたので、よろしければそちらもご覧下さい。 
 聖職者による性加害、教区が被害者に対して行った二次加害について重く受け止め、ハラスメントについて見識を深め、他人事でなくハラスメントは自分にもあり得るという意識を持って考えていきたいと思いました。

 さて、本日は聖霊降臨後第22主日です。福音書箇所は、マルコによる福音書10:35-45で、エルサレム途上でイエス様が弟子たちに受難予告をした直後の出来事です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは「ヤコブヨハネの願い」です。

 今日の箇所を振り返ってみましょう。
 ゼベダイの子ヤコブヨハネが、イエス様にお願いします。37節です。
「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」
 イエス様が王になった暁には、いわば右大臣と左大臣にさせてほしいとお願いしたのです。当時の宮廷においては、王から見て右の座が最高位、左の座が2番目の地位です。今も西洋では、中心人物から見て右の方の位が上です。オリンピックの表彰台も2位は1位から見て右になっています。使徒信経やニケヤ信経では、天に昇られたイエス様は父である神の右に座しておられます。
 弟子たちの願いはイエス様が栄光の座に着く時、最高の地位に着くことであり、この願いは、人のために生きるというよりは自分のために生きるという気持ちの表れであろうと思います。
 皆さんはNHK大河ドラマ「光る君へ」はご覧になっていますか? 私と妻は毎週楽しみに見ているのですが、このドラマでは藤原道長は「左大臣様」と呼ばれています。日本では伝統的に左の方が上位で、宮廷の順位は、左大臣・右大臣・内大臣の順です。道長左大臣道長のいとこの顕光(あきみつ)が右大臣、先週の回で、道長を呪詛して亡くなった道長の甥の伊周(これちか)は内大臣でした。有力貴族が自分の妹や娘を天皇の妻にして皇子を産ませ、自分は外戚として力を持つこと、そして、自分は右大臣、さらには左大臣になるというのがこの時代の公卿の願いです。この世での立身出世です。本日の福音書ヤコブヨハネの願いもこれと同様であると考えます。
 本日の箇所の前で、イエス様はご自身が十字架に架かって死に復活するという、三度目の受難予告をされるのですが、その後にこの話が続いています。イエス様は十字架に向かって、ご自分の命を人々のために捧げようとする決心を新たにしています。しかし、弟子たちは全くその気持ちが分からず、結局自分たちを特別優遇してくれ、と言っているのであります。

 これに対して、38節で、イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」と言われました。 
 イエス様が言われる「私が飲む杯」「私が受ける洗礼」とは、先ほど読んでいただいた「旧約聖書イザヤ書53章4節以下で預言された苦難「人々の罪をすべて自分自身に負い、屠り場に引かれていく小羊のように捕らえられ、裁きを受けて、命を取られるということ」と考えられます。
 言い換えれば、イエス様が飲もうとする杯、受けようとする洗礼とは、イエス様が負った苦しみ、捕らえられ、虐げられ、鞭打たれ、十字架につけられ、死なねばならないという、これから始まろうとする苦難の道のことを言っておられるのです。
 これと同じ苦しみを、私が受けるのと同じ苦しみを、おまえたちは受けられるのかとお尋ねになったのです。
 すると、ヤコブヨハネは、「できます」と答えました。
 さらに、イエス様は言われました。39・40節です。
「確かに、あなたがたは私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる。しかし、私の右や左に座ることは、私の決めることではない。定められた人々に許されるのだ。」
 確かに、あなたがたも、私と同じ苦しみを受けることになる。キリストの弟子だということで迫害を受け、苦しみを受け、最後にはキリストのために死ぬことになるだろうと、彼らの殉教にいたる生涯を予告されたのです。
 しかし、そうだからと言って、栄光の座に着いておられるイエス様の右や左に、誰が座るかというようなことは、誰にも分からない。それは、父である神がお決めになることだと言われたのです。
 イエス様が言われた「私が受ける洗礼」、「私が飲む杯」は、今日(こんにち)、私たちの教会が大切にしている洗礼式と聖餐式を思い起こさせます。洗礼を受け、聖餐にあずかるキリスト者は、それぞれの十字架を負って、イエス様に従わねばならないことが、示されているのではないでしょうか?

 続いて、ほかの弟子たちは、ヤコブヨハネが他の弟子たちを出し抜いてイエス様に特別の待遇をお願いしに行ったと聞いて、ヤコブヨハネに腹を立て始めました。
 イエス様の思いが、理解できない弟子たちであったことが分かります。
 さらに、イエス様は、一同を呼び寄せて「世間では支配者や権力者が偉いとされているが、本当はそうではない」と言われました。
 そして、43・44節で「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教えられました。
 この「仕える者」のギリシャ語は「ディアコノス」であり、英語の聖書(NRSV)では「servant」でした。自発的奉仕が、その特徴です。また、「僕」のギリシャ語は「デューロス」で、英語では「slave」でした。犠牲的奉仕が、その特徴です。
 私たちは単なる道徳訓や修業のために「仕える者」や「僕」になるのではありません。それは、イエス様が、そのように生き、そのようにして死なれたからです。45節でイエス様はこうおっしゃいました。
「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
 身代金とは、奴隷や囚人を解放するための代金のことです。イエス様は仕えるために、多くの人を解放するためご自分の命を捧げるために地上に来られたのです。この言葉は「私が生きたように生き、私が死んだように死になさい」という意味です。
 このような内容でした。

 イエス様は、言うだけでなく、教えるだけでなく、ご自身の生き方を通して、そして、十字架につけられて殺された死に様を通して、「仕える者」や「僕」の在り方を示されました。 
 イエス様が私たちに望むことは、権力の座に着いたり支配したりすることではなく、「仕える者」や「僕」として生きることであります。

 このことで私が思い浮かべる言葉があります。それは「サーバント・リーダーシップ」という言葉です。「サーバント・リーダーシップ」については、この本「サーバントリーダーシップ入門」に詳しく書かれています。

    この本は資生堂の社長だった池田守男と神戸大学大学院教授の金井壽宏(としひろ)の共著です。
 この本の中で「サーバント・リーダーシップの定義」をしています(P.66・67)。こうあります。
『リーダーである人は、「まず相手に奉仕し、その後相手を導くものである」という実践哲学をサーバント・リーダーシップといいます。サーバント・リーダーは相手に対し奉仕する人です。相手への奉仕を通じて、相手を導きたいという気持ちになり、その後リーダーとして相手を導く役割を受け入れる人なのです。サーバント・リーダーはつねに他者がいちばん必要としているものを提供しようと努めます。』
 本日の福音書の最後の「仕えられるためではなく仕えるために来た」イエス様こそサーバント・リーダーの代表であると言うことができると思います。
 資生堂の元社長の池田守男さんは、社長は下から社員を支えるという「逆ピラミッド型」の組織構造を導入し、経営改革を実現させました。キリスト者である池田さんは牧師になろうとして東京神学大学に入学しますが、卒業するときに「一度社会に出てみたい」と思い就職活動をし、人々の生活に密着した会社として資生堂を選び入社したそうです。
  池田さんは、『サーバント・リーダーシップの精神は聖書の一節「与ふるは受くるよりも幸いなり」(It is more blessed to give than to receive.)に集約されている』と言いますが、「奉仕こそが神に祝福される」というこのみ言葉にサーバント・リーダーシップのエッセンスが示されているように思います。

 冒頭お話しした京都事件、または昨今話題となっているハラスメント事案も、サーバント・リーダーシップの精神で丁寧に対応すべきではないでしょうか?
 
 皆さん、私たちは、イエス様が望んでいることを望むように、イエス様の生き方を選ぶことができるように願います。そのようにイエス様に従って生きることによって、喜びや平安や愛の心が湧いてくるのだと思います。
 私たちが、イエス様の弟子として、権力や支配ではなく、仕える者や僕として生きるという、イエス様が望んでおられる生き方をできるよう、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン