聖霊降臨後第21主日『天に宝を積み、イエス様に従う』
本日は 聖霊降臨後第21主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
本日の礼拝には、現在東京にお住まいで新町の教会に教籍のあった藤田(旧姓堀岡)早苗さんとお母様の堀岡(旧姓小森)富美子さんが参列されました。礼拝後、記念写真を撮りました。運動会や法事等でお休みが多かったのは残念でした。

本日の聖書箇所は、アモス書5:6-7・10-15 、詩編12:12-17、ヘブライ人への手紙4:12-16及びマルコによる福音書10:17-31。説教では、神様に目を向け、天に宝を積み、神様中心の生き方をすることが求められていることを知り、それを目指し、イエス様に従って生きることができるよう祈り求めました。
本日のテーマを実行した人として聖フランシスコを、そして彼の生涯を描いた映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』についても言及しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
去る9月22日(日)の礼拝は、私がコロナに感染したため休止させていただきました。本主日はそれから3週間が経過し回復しておりますが、まだ咳が出るため、本主日は一種陪餐(パンのみ)とし、ご自分でパテンから御聖体を取っていただく形としました。
私は先週の7日(月)・8日(火)と大阪で行われた管区の人権セミナーに参加しました。その中で、難民支援を行っているNPO法人「RAFIQ」の代表理事の田中惠子さんの話を伺いました。RAFIQとは、ペルシャ語・アラビア語で「友だち」の意味です。全員がボランティアで活動し、会員は122名で、高校生からシニアまで多様な人材が参加しているそうです。2002年に初めて支援したのがアフガニスタン難民だったので、彼らの母国語から採ったそうです。日本の難民認定は格段に少ないのですが、無償で彼らを物心共に支援し、難民始めすべての人が共に生きることのできる社会の実現に向けて尽力している「RAFIQ」の活動に敬意を表すと共に、私は何ができるのかを思わせられました。
さて、本日は聖霊降臨後第21主日です。福音書はマルコによる福音書10章17節からで、イエス様がエルサレム途上で弟子たちに富に関して教えており、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「金持ちの男」となっています。この箇所は3つの段落からなっています。それぞれ、17-22節の「金持ちの男とイエス様の対話」、23-27節の「弟子とイエス様の対話」、そして28-31節の「ペトロとイエス様の対話」です。
本日の箇所を振り返ってみましょう。
17節にこうあります。『イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」』
この人が、「永遠の命」を真剣に求めていることは、走り寄ってひざまずく姿に明確に示されています。「永遠の命を受け継ぐ」あるいは「神の国に入る」という言葉は、「救いにあずかる」ということを意味しています。「救われるためには何をしたらいいのでしょうか」という問いかけがイエス様に向けられたのです。イエス様は十戒の中の人に関する戒め六つを挙げます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」という戒めであれば、「少年の頃から守ってきました」とこの人は答えます。
これを聞いて、21節で「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書かれています。この「慈しんで」は原文のギリシア語では「アガパオー」であり、それはアガペー(神の愛)の動詞形です。イエス様の深い愛が感じられます。
さらに「あなたに欠けているものが一つある」とイエス様は語ります。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
それが救いにあずかる道であるとイエス様は語りかけます。
イエス様はこの男に「施し」を求めるとき、「彼を見つめて、彼を愛した」と述べられました。神の愛に包まれることによって、彼に欠けたものが満たされるのです。
金持ちであるこの人は財産を他の人に与えるということがどうしてもできず、悩みつつ立ち去りました。
続いて、イエス様と弟子たちとの対話です。「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか。」というイエス様の言葉に弟子たちはとても驚きます。当時の考えでは、富は神様からの祝福の表れと考えられていたからです。さらにイエス様は25節でこう言います。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」らくだは、ユダヤ地方では最も体の大きな動物です。針の穴を通ることなどできません。これは「不可能である」ということを語る言葉です。すなわち金持ちが救われることはない、ということです。たいへん厳しい言葉です。弟子たちはますます驚きます。「それでは、誰が救われることができるのだろうか」(26節)と互いに言い合います。
イエス様はそういう弟子たちに言われました。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」(27節)と。
それに対して、ペトロは「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」(28節)と胸を張ります。イエス様は、イエス様のため、また福音のために、持てるものを手放しご自分に従う者の受ける報い(霊的富)を約束しますが、最後に「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(31節)と言います。この言葉はペトロへの戒めであり、私たちの心の在り方への警告でもあります。神様はすべての人を愛し、救ってくださる方ですので、誰が一番ということではないのです。
このような内容でした。
本日の箇所で、イエス様は何を伝えようとしているのでしょうか?
金持ちが「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねるとイエス様は言われました。「なぜ私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。」と。
イエス様は、ここで、この人に「何をすべきか」という人間的な努力から目を離して、神様に目を向けさせようとされています。「神おひとりのほかに善い者は誰もいない。」と言うことによって、「自分がどうすればよいのか」ということから、「神様がどうされているのか」というように考え直すよう促していると考えます。
そして21節で「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」と言って、「天に宝を積むこと」と「イエス様に従う」という信仰者の生き方を明確に示しています。「天に宝を積む」とは、自己の存在の根拠を天(神)に求め、神様を中心に生きることを意味します。私たちがそうできるのは、まず、イエス様が私たちを見つめ慈しんで、つまり愛しておられるからです。私たちは、イエス様の愛を受けることにより、人に施しを与えることができるのであります。
イエス様はさらに25節で「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」とおっしゃいます。その真意は何でしょうか?
私は、この誇張した表現も私たちを人間的な努力から神様に目を向けさせようとしていると考えます。27節に「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」とあります。私たちはなかなか執着心をなくすことが難しいことはイエス様ご自身ご存知です。しかし、「神にはできる。」とおっしゃいます。神様の力を強調し、「神様こそが救いへの唯一の道である」と説いています。神の国へ入ることを妨げているものは財産だけではありません。神様の力に信頼できずに、この世の力にすがることが、人を神の国から遠ざけているといえます。
「だから、神にゆだねなさい」と言っているようです。これは人間中心の生き方から神様中心の生き方へ私たちを促していると考えます。
すべてを可能にできる神様に信頼し、その御子であるイエス様に従って生きたいと願います。
「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。」この御言葉を文字通り実行した人として、聖フランシスコを挙げることができると思います。清貧と奉仕に生きた聖人です。この聖フランシスコの生涯を描いた映画としては『ブラザー・サン シスター・ムーン』がよく知られています。

監督は「ロミオとジュリエット」で有名なフランコ・ゼフィレッリです。
https://www.youtube.com/watch?v=wo2eBfXdkX0
聖フランシスコは13世紀にイタリアのアッシジの裕福な家に生まれ、多くの財産がありましたが、表面的な豊かな生活に満たされない思いを抱き、イエス様の御言葉に従って、財産を売り払って貧しい人に施しました。何もなくなったので、生活に必要なものは施しをもらって生活しました。弟子も増えてきましたが、みな貧しい暮らしをしながら宣教活動をしました。
確かに、文字通り財産を売り払うのはなかなか難しく、誰にでもできることではありません。けれども、このフランシスコの精神、フランシスコの生き方に少しでも近づいて、実践することは私たちにもできると思うのです。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。」とはありますが、「すべての財産を」とは言っていません。ここの原文のギリシャ語は相関代名詞「ホサ(ものを)」でつながり、英語の聖書ではas much as (できるだけたくさん)とありました。自分のできる範囲で最大限の施しをすることだと思います。
これは、冒頭お話しした難民支援をしているNPO法人「RAFIQ」の活動とも共通している理念だと思います。
そして、イエス様に従うことです。イエス様はこれから十字架へと向かわれるのですが、私たちも自分の小さな十字架を背負ってイエス様に従うことが求められていると考えます。十字架は「愛」を意味しています。小さな愛でも意味があります。ちょっと相手のために犠牲を払って親切にしたり、何か手伝ったりするのは、小さな愛です。誰かのためにちょっと我慢して忍耐したり、不都合を忍ぶ。これも愛です。小さな犠牲は、小さな十字架です。
財産に代表される自分の持っているものに執着するのでなく、神様に目を向け、イエス様の愛を受け、自分のできる範囲で最大限の施しをする。
「ここに真の喜び、永遠の命につながる生き方があるのです」とイエス様は仰せになっているように思います。「私に従いなさい」と言われた言葉を受け止め、イエス様の十字架の道に従っていくならば、そこには「永遠の命」があるのです。
皆さん、イエス様は私たちがこの世の財産に執着するのでなく、神様に目を向け、聖フランシスコのように天に宝を積み、神様中心の生き方をすることを求めておられます。それを目指し、イエス様に従って生きることができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン