『管区の人権セミナーに参加して』
10月7日(月)・8日(火)と大阪で行われた管区の「人権セミナー2024」に参加しました。会場は両日とも在日韓国基督教会館(KCC)でした。今回のテーマは「共に生きるために」、中心聖句は「きょうだいが共に住むことは/何という幸せ、何という麗しさ。」(詩編 133:1)でした。
プログラムは当初から変更があり、以下の通りです。

参加者は主催者の管区人権委員や大阪教区宣教局を含めて27名でした。
1日目の午後3時からは、難民支援を行っているNPO法人「RAFIQ」の代表理事の田中惠子さんの話を伺い、分かち合いの時を持ちました。

RAFIQとは、ペルシャ語・アラビア語で「友だち」の意味で、全員がボランティアで活動し、会員は122名で、高校生からシニアまで多様な人材が参加しているそうです。2002年に初めて支援したのがアフガニスタン難民だったので、彼らの母国語から採ったそうです。
2019年に大阪出入国在留管理局には235 名の難民認定申請がありましたが、認定されたのは11 名、2020 年は78 名の申請があり認定されたのは0 名だったとのことです。また、この6月10日には昨年成立した改定出入国管理法が施行され、難民申請3回目以降は強制送還の対象となり、今までは保証人とされていた支援者が今後は「監理人」と呼ばれるようになったとのことです。日本は行政として難民をできるだけ受け入れたくないのですが、無償で彼らを物心共に支援し、難民始めすべての人が共に生きることのできる社会の実現に向けて尽力している「RAFIQ」の活動に敬意を表すと共に、私は何ができるのかを思わせられました。
午後6時からの「夕の祈り」は先週認可されたばかりの「改正祈祷書試用版第1版」を用いました。詩編の最後等で唱える「栄光の歌(栄唱)」がカトリックと同じになっていました。
「栄光は 父と子と聖霊に。始めのよう、今も いつも世々に アーメン」です。
また、主の祈りの前等に唱える「小嘆願」が「憐れみ」でなく「いつくしみ」になっていました。
「主よ、いつくしみをお与えください
キリストよ、いつくしみをお与えください
主よ、いつくしみをお与えください」
栄唱が聖公会とカトリックで違うため、私たちは毎朝の「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」で混乱していたので、また「日本語の「憐れみ」は可哀想というニュアンスがあるので「いつくしみ」と変えたのは、好ましい傾向だと思いました。
夕食はKCCから少し歩いて、廃校となった小学校の校舎を活用した「生野パーク」に移動し、5階(屋上)のプールの場所がバーベキュー会場に生まれ変わった所で、キムチや焼き肉等をいただきました。

コリアンタウンで、食を通して多文化共生を味わいました。また、参加者同士の交わりの時を持ちました。
2日目は、当初の予定が変更され「日本聖公会として京都事件にどう向き合うか」について、皆で話し合い分かち合うことになりました。
10時に集合すると、大阪教区の小林司祭から「H元牧師性暴力事件における京都教区による二次加害検証報告書」概要報告をもとに説明がありました。補足説明を京都教区の中尾司祭がされました。この報告については、以下のURLで読むことができます。
https://www.nskk.org/kyoto/houkoku/gaiyohokoku.pdf
その後、5つのグループに分かれ、この事件の問題点や問われていること等について、1時間以上にわたってじっくりと話し合いました。私が所属したグループは、たまたま私を含めた5人全員が聖職でした。「京都事件」というが京都教区だけの問題ではなく日本聖公会としてこの事件の問題点、聖職者の未成年者への性加害及びその後の教区の対応のまずさによる二次加害等について共有しました。そして、私たちがどの立場に身を置くか、被害者には謝罪し続けるしかない、外部の専門家を入れた第三者委員会の設置等について意見が出されました。
各グループごとの発表では、初期対応のまずさや主教の責任を問う声、聖公会全体で検証する必要があること、審判廷の在り方、主教にもspiritual directorが必要なこと等が挙げられました。
聖職者による性加害、教区が被害者に対して行った二次加害について重く受け止め、ハラスメントについて見識を深め、他人事でなくハラスメントは自分にもあり得るという当事者意識を持って考えていきたいと思いました。
午後2時からの閉会聖餐式は磯主教の司式・説教、柳司祭の補式でした。主教様は「あなたの隣に難民はいる」との認識を持ち、宣教協議会のカードにあるように「聞こう」→「祈り」→「行動」となると良い、と話され、第2日課のヤコブの手紙2章14-17節を引用され「行いを伴う信仰」を訴えられました。
今回の人権セミナーでは「多文化共生」とハラスメントについて、多くの気づきが与えられました。聖職として、キリスト者として、問われていることをこれからも考え続けていきたいと思います。