マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第20主日『人生のパートナー』

 本日は 聖霊降臨後第20主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記2:18-24、詩編8、ヘブライ人への手紙1:1-4・2:5-12及びマルコによる福音書10:2-16。説教では、キリスト教の結婚観について知り、結婚と信仰は類似しており、共に暮らす人をパートナーとして助けると共に、人生のパートナーであるイエス様に委ねて日々過ごすことができるよう祈り求めました。
 キリスト教における結婚に関して私が思い浮かべる星野富弘さん・昌子さんご夫妻についても言及しました。
 説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は10月6日、10月最初の主日です。2024年度の上半期(6ヶ月)が終わりました。皆さんにとってどんな半年だったでしょうか? この4月から私にとっては前橋と新町に加えて高崎の教会の管理が加わり、高崎で月一度の主日聖餐式及び毎週水曜日の高崎勤務が加わりました。それを宣教・牧会の機会が増えた、神様から新たな使命が与えられた、と考えております。来年3月の定年までこの体制が続きますが、主の導きのもと、イエス様と共に歩んで参りたいと思います。
 さて、本日は聖霊降臨後第20主日です。本日の福音書箇所はマルコによる福音書の10章2節から16節で、この箇所を含む部分は聖書協会共同訳聖書の小見出しでは「離縁について教える」と「子供を祝福する」とありますが、キリスト教の結婚観や信仰についてよく分かる箇所と言えると思います。

 今日の福音書の箇所を振り返ってみましょう。
 ファリサイ派の人々が、イエス様を試そうとして、イエス様に近づいて来ました。ファリサイ派は、「律法を忠実に厳守する」と自負しています。彼らはこう尋ねました。
「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」(2節)と。  
 ファリサイ派の人々はイエス様の「神が結び合わせたものを、人が離してはならない。」という教えが、律法とは違うことを群衆の前で暴露しようとしたと考えられます。
 これに対して、イエス様は、「モーセはあなたがたに何と命じたか」(3節)と問い返されました。
 彼らは、「わが意を得たり」とばかりに言いました。
モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と。
 モーセが書いたとされた旧約聖書の最初の5つの書の最後の書、申命記の24章1節にはこうありました。「ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる。」
 イエス様の教えと、モーセの律法で「離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる」ということとは違うではないかと、議論をしてきたのです。
 これに対して、イエス様は言われました。
「あなたがたの心がかたくななので、モーセはこのような戒めを書いたのだ」(5節)と。
 イエス様は次のように考えていたと思います。「モーセがこのような戒めを書いたのは、神様の本来のご意志、結婚の根本的な意味に立ち帰るようにいさめたのだ」と。さらに、「離婚を認めているというが、それは妻の側に明らかな落ち度があったときに離縁状を書いて離縁することを許したのであり、正式な手続きを踏みなさい、ということであり、このように面倒な手続きをするのは、実は夫が妻を簡単に離縁することができなくするためなのだ」と。
 そして、イエス様は創世記の創造の箇所を用いて、こう説きました。7-9節です。
『こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』
 ここの「結び合わせる」と訳されたギリシャ語「シャゼウグニューミ」の本来の意味は「くびきに一緒に付ける」です。それは2頭の牛が共同作業をするために共につながれることであり、そのように二人の人が共同生活のために結ばれることを意図しており、そこに神様の思いがあると考えます。
 イエス様は律法を形として厳守するのでなく、その奥にある神様の思いを大切にするよう示されたのでした。
 11・12節は一般的に離婚を禁じる言葉ですが、ここには「妻を離縁して他の女と結婚する者」(つまり男性)だけでなく「夫を離縁して他の男と結婚する者」(女性)のことが書かれています。旧約聖書の律法には夫(男性)が妻を離縁することに関しての記述しかありませんので、妻(女性)が夫を離縁するということは、イエス様の生きていた当時のユダヤ社会ではありえないことでした。イエス様は女性を尊重していたことが伺えます。
 13節以降では、イエス様のところに子どもを連れてきた人々を叱った弟子たちに、イエス様は憤って「妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言いました。イエス様の時代のユダヤでは、無知で無力な子どもは無価値であると見なされていました。その中で、イエス様は小さく無力な者に目を注ぎ、その謙虚な委ねる信仰を評価し、祝福されたのです。
 このような箇所でした。

 キリスト教の教える結婚とはどのようなものでしょうか?
 それは本日の旧約聖書の冒頭、創世記2章18節に端的に示されています。こうあります。
『また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」』
 ここの「ふさわしい」と訳されているヘブライ語は、二人の間に対等のつり合う関係があることを意味しているそうです。
 「彼にふさわしい助け手を造ろう」は英語の聖書(NRSV)では、「I will make him a helper as his partner.」。直訳すれば「私は彼に彼のパートナーとしてヘルパー(助け手)を造ろう」でした。神様が与えて下さった「パートナーとしてのヘルパー」とは「助け合って生きる対等の相手」であり、ある注解書には「人を孤独から助けるのに最もふさわしいパートナーという意味」とありました。これこそキリスト教の考える結婚観であります。
 結婚とは、他人同士が、ある時に出会って、夫婦になろうとお互いに約束し合ってなる関係です。その関係をつなぐのは、約束であり、契約です。
 どの結婚式でも、「私はあなたを夫とします」、「私はあなたを妻とします」と誓約して、結婚が成り立ちます。
 結婚は、私たちと神様の関係に似ています。
 私たちは、人生のある時、神様との出会いがあり、「私は、あなたを信じます」と約束・契約して、神様を信仰する関係になりました。洗礼式は、その契約を目に見えるかたちで表す儀式です。私たちの方から信仰告白をし、誓約をし、神様の方からは「救い」が約束されます。堅信式は、その契約を確認する儀式です。
 結婚ではお互いをパートナーとして助け、信仰では神様を、そして救い主であるイエス様を人生のパートナーとしているのであります。

 ところで、キリスト教における結婚ということで、私が思い浮かべるご夫妻がおります。それはこの4月28日に天に召された星野富弘さんとその妻、昌子さんのご夫妻です。
 キリスト教月刊誌「百万人の福音」9月号の特集が「富弘さんが遺したもの」という題の追悼特集でした。

 この本の14ページに「富弘さんと生きた43年」と題した2023年7月9日の星野昌子さんによる「前橋キリスト教会での証し」、15ページに「2024年5月3日の富弘さんの葬儀」における昌子さんの「喪主挨拶」が掲載されています。前者の「証し」の中で、昌子さんは、富弘さんとの結婚についてこう記しています。
『(富弘さんから)「結婚しよう」と言われ、「それはできない・・、どうすればできるのか」と考えました。できない状態なのに、どうすれば(いいのか)・・。富弘さんは「できるよ」と言いますが、「できないよ・・(でも)このまま別れるのは寂しいことだし・・」(と思いました)。
 二番目の兄が富弘さんに会って「あんないい人はいないよ。おれなんかよりずーっとすごい人だ。今の若者にはいない」と家の者に報告しました。
 職場の人や友だちにも話しました。反対されても自分の気持ちが揺るがなかったら(受けよう)・・。これで自分の(の心)が揺れていたら、結婚できないと思いました。
 そして神様に祈りました。
「この結婚をさせてください。たとえどんなに短くとも神様に感謝します。それが一か月でも十年でも長ければなおさら感謝します」という気持ちを持って結婚しました。・・・』
 こう、昌子さんは結婚に至った心境を前橋キリスト教会の信徒の前で語りました。首から下がまったく動かない男性と結婚する、そこにはためらいや迷いもありましたが、信仰を同じとする基盤があり、神様に祈った上での結婚だったことを思わされました。
 富弘さんの葬儀における「喪主挨拶」の中で昌子さんはこう言っています。
『作品は私たちの子どものようなものです。私が「子どもがいなくて寂しいかい」と聞くと「だから絵をたくさん描(書)いたんだよ。子どもに手をひかれて歩けるように」と言ってくれました。
 主人が天に帰り寂しくなってしまいましたが、神様に見守られ導かれて、また皆様の変わらないご厚情をお願いして、生きてゆきたいと思っています。』
 富弘さんご夫妻にとって作品は子どものようなものであり、神様を源泉(みなもと)とする二人の共同製作の賜物だったのでした。
 星野富弘さん・昌子さんご夫妻は多くの素晴らしい作品を協力して完成させました。パートナーとして助け合って生きたご夫妻の足跡はいつまでも残り、神様は富弘さん・昌子さんご夫妻とお二人の子どものような作品をずっと祝福されることでしょう。
         
 皆さん、私たちは、律法を形として厳守するのではなく、その奥にある神様の思いを大切にするよう思い巡らしたいと願います。
 そして今思うのは「イエス様こそ、真の人生のパートナーである」ということです。星野富弘さん・昌子さんご夫妻のように共に暮らす人をパートナーとして助けると共に、真の助け手で救い主であり、私たちの人生のパートナーであるイエス様に子どものようにまったく委ねて、日々過ごすことができるよう、祈り求めたいと思います。

  父と子と聖霊の御名によって。アーメン