聖霊降臨後第16主日『呻き執りなすイエス様』
本日は 聖霊降臨後第16主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、イザヤ書35:4-7a、詩編146 、ヤコブの手紙2:1-17及びマルコによる福音書7:24-37。説教では、イエス様が天を仰ぎ呻いて言われた「エッファタ」という言葉の意味を知り、私たちのために呻き神様に執りなしてくださる主イエス様をなお一層信じて、日々歩み続けることができるよう祈り求めました。
本日の箇所に登場する地名の場所等を確認するため「新約時代のパレスチナ」の地図も活用しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は聖霊降臨後第16主日です。
本日の福音書箇所は、ただいまお読みしましたマルコによる福音書第7章24-37節です。先週から福音書はヨハネによる福音書からマルコによる福音書に戻りました。先主日の箇所では、イエス様はファリサイ派や律法学者たちと「昔の人の言い伝え」や「神の戒め」について論じ合いました。本日はその続きです。
本日の福音書は2つの部分から成っています。24-30節と31-37節です。聖書協会共同訳聖書の小見出しは、前者は「シリア・フェニキアの女の信仰」、後者は「耳が聞こえず舌の回らない人を癒やす」とあります。今回は後者に重点をおいてお話しします。
まず前半のマルコによる福音書第7章24-30節です。この箇所では、イエス様は「ティルス」という異邦人の地に行き、そこで異邦人であるギリシャ人の女性と出会い、彼女の娘を癒やしました。
24節はこうです。
「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方へ行かれた。ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、人々に気付かれてしまった。」
受付で取っていただいたB5版の地図(新約時代のパレスチナ)をご覧ください。

ここの赤の二重丸で囲んだガリラヤ湖の北西約50キロのところにある町が「ティルス」です。ここは今の国で言えばレバノンです。ティルスは異邦人の住む地中海沿岸の港町でした。「ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられた」とありますので、そこに行ったのは宣教目的ではなく、「リトリート」のためと考えられます。「リトリート」とは退修と訳されますが、日常から離れて神様と祈りの時を持つことです。そこへ幼い娘が汚れた霊に取り憑かれたギリシャ人の女性がやってきて、娘の癒やしを願ってイエス様の足下にひれ伏しました。それに対するイエス様の答えはこうでした(27節)。
「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。」
これは比喩表現です。子供たちとは「ユダヤ人」、小犬とは異邦人のことです。パンは生命を与えるものを象徴し、ここでは「福音」、イエス様によってもたらされる神の救いの良き知らせのことであると考えます。福音はまずユダヤ人に与えられる、とイエス様はおっしゃったのです。それに対してこの異邦人の女性はこう答えました(28節)。
「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます。」
この機知に富んだ言葉に、この女性のなんとしても娘を癒やしてほしいという必死な願いと謙遜ながら神の恵みに信頼した強い信仰を感じます。パン屑でもいただきたい、パン屑でも癒やしていただけるという・・・。この女性の信仰を認めたイエス様は娘を癒やされました。
なお、この箇所をモチーフとした祈りを、私たちは聖餐式ごとに捧げています。祈祷書のP.181をお開きください。ここの「憐れみ深い主よ、わたしたちは自分のいさおに頼らず、ただ主の憐れみを信じてみ机のもとに参りました。」で始まる「近づきの祈り」です。英語ではHumble Access(謙遜な接近)と言いまして、1549年に最初の英国の祈祷書が編纂される折りにカンタベリー大主教トマス・クランマーにより取り入れられた祈りで「聖公会の宝」とも言われる聖公会独自の祈りです。冒頭の言葉に続く「わたしたちは、み机から落ちるくずを拾うにも足りない者ですが、主は変わることなく常に養ってくださいます。」が、先ほどの箇所から触発された祈りの言葉です。
そして、後半の31-37節の箇所です。ここではイエス様が、「耳が聞こえず口の利けない人」を癒された奇跡が述べられています。
まず、31節です。
『それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた。』
先ほど見たB5版の地図(新約時代のパレスチナ)を、またご覧ください。ここでは、今回、イエス様が進まれたであろう行程を赤の矢印で示しました。
「ティルス」は前半の箇所の舞台の地中海の町で、「シドン」も地中海沿岸でさらに北にあります。そして「デカポリス地方」はガリラヤの南東に位置していますから、ガリラヤ湖を目的地にするのであれば、イエス様の行程には無理があるように思います。シドンやデカポリス地方でもイエス様を求める声があり、それに応えたのかもしれません。ここに挙げられている地名はいずれも異邦人の土地です。イエス様はデカポリス地方のゲラサで悪霊に取り憑かれた人を癒やしたこともあります。イエス様は異邦人の地を歩み、おそらくデカポリス地方のガリラヤ湖畔に来られたと考えられます。
そこに「耳が聞こえず口の利けない人」、今は「聾者」も教育を受けていますので多くの聾者は話すことができますが、教育を受けなければ耳が聞こえないことで話すこともできませんでした。その人が連れて来られました。おそらくこの人は異邦人であったと思われます。デカポリス地方には多くのギリシャ人が入植していました(「デカポリス」とはギリシャ語で「10の都市」の意味)。そして、人々は「その人の上に手を置いてくださるように」とお願いしました。なお、日本語では分かりにくいのですが、「その人の上に」は原文の直訳では「彼に」ということですから、ここの「耳が聞こえず口の利けない人」は男性です。
すると、イエス様は、「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられ」ました(動作で示す)。それはイエス様が、この聾者に分かるように癒やすところや方法を動作(ジェスチャー)で示した、いわば非言語コミュニケーション(ノンヴァーバル・コミュニケーション)で行ったということです。イエス様は相手の実態やその場の状況に応じた配慮をなさるお方なのであります。
次にイエス様はこうされました。34節です。
『そして、天を仰いで呻(うめ)き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。』
きっと、イエス様はこの聾者に分かるように、この人を見つめて(アイコンタクト)はっきりと「エッファタ」と発音されたことと思います。「エッファタ」というのは、イエス様の話されていたアラム語の発音です。アラム語は当時のユダヤ人が日常会話で使っていた言語で、イエス様は弟子たちや群衆たちとアラム語で話していました。なお、当時の世界共通語であるギリシャ語に言い換えた、ここの「開け」という言葉は二人称・単数・命令形・受動態で、「あなたは開かれよ」という意味です。英語の聖書を見ると「Be opened」でした。自分の力、人間の力で「開け」というのでなく、イエス様の力、神様の力によって「開かれなさい」というのであります。
さらに今回この箇所で注目したのは、イエス様の「天を仰いで呻き」という所作でした。「天を仰ぐ」とは神様に祈るということですが、特に「呻き」という言葉についてです。このギリシャ語は 「ステナゾー(呻く)」の三人称・単数・過去形で、以前の新共同訳では「深く息をつき」、口語訳では「ため息をつき」と訳されていました。元々、「ステナゾー」は「息を吐く・呻く」を意味します。今日の福音書のこの語によって、自分ではどうすることもできない人間のために、「呻き」をもって執りなすイエス様の姿が表されたと見ることができます。
イエス様が天を仰いで呻き、その人に向かって「エッファタ」と言うと、耳が聞こえず口の利けない、この人の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。イエス様は人々に、このことを誰にも話してはいけないと口止めをされましたが、人々は、かえってますます言い広めました。そして、その結果を見た人々は、すっかり驚いてこう言いました。37節です。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
今日の福音書はこのような箇所でした。
イエス様のところに来て娘の癒やしを願った女性やイエス様のところに連れて来られた「耳が聞こえず口の利けない人」とは、救いを求めて「呻く」人の姿でもあります。この「呻き」に合わせてイエス様も呻いて、その苦悩を自分のこととして共に担ったのです。その姿は十字架に上るイエス様を暗示しているようです。イエス様の「呻き」は苦しみを神様に執りなす祈りであり、この「呻き」が奇跡を引き起こしました。イエス様が告げる「エッファタ」は、「呻き」からの救いを待ち望む人への励ましであり、「閉ざされていたこと」からの解放を告げ知らせる力強い宣言と言えます。
皆さん、イエス様は異邦人であるシリア・フェニキアの女性や「耳が聞こえず口の利けない人」を癒されました。私たちも異邦人であり、ある意味、「閉ざされている人」でもあります。イエス様が奇跡を起こすために天を仰ぎ呻いて言われた「エッファタ(開かれよ、Be opened)」という言葉は、今日、私たちにも向かって発せられているのです。その時、私たちは「どうぞ、私の耳を、心を、開いてください」と答えることができるよう、そして、私たち一人一人が、私たちのために呻き神様に執りなしてくださる主イエス様に感謝し、なお一層イエス様を信じて、日々歩み続けることができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン