マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第14主日『イエス様のみ言葉と聖餐による恵み』

 本日は 聖霊降臨後第14主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、ヨシュア記24:1-2a・14-18、詩編34:15-20、エフェソの信徒への手紙6:10-20、ヨハネによる福音書6:56-69。説教では、イエス様のみ言葉と聖餐によって生きる力と永遠の命という恵みを得ることを知り、それを受け取り、その恵みを自分のため、そして周りの人に生かしていくことができるよう、聖霊の導きを祈り求めました。
 4歳の子が高崎の礼拝に参列することが分かっていましたので、イエス様のみ言葉と聖餐による恵みを表す絵本、やなせたかしの「それいけ!アンパンマン」の読み聞かせも行いました。
 高崎の説教原稿を下に示します。

<説教>
 主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第14主日です。
 ここのところ、主日福音書ヨハネによる福音書第6章で、主にパンをめぐるイエス様とユダヤ人との問答が続いていて、今回が結びとなります。
 本日の福音書ヨハネによる福音書6:56-69節です。ここは大きく2つの場面に分けられます。56-59節と56-69節で、前者は聖書協会共同訳聖書の小見出しは「イエスは命のパン」の最終部分、後者は「永遠の命の言葉」の始めの部分に当たります。

 前半の場面の冒頭にはこうあります。
『イエスは言われた。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」』
 イエス様のこの言葉は、イエス様と聖餐を受ける人との深い交わりを表しています。私たちはイエス様の肉と血、つまり御聖体(聖餐)を受けることでイエス様の中にとどまり、イエス様も私たちの中にとどまってくださるのです。これはイエス様と同じようになるということです。イエス様から力を受け、イエス様のように生きるという、喜ばしいことでありますが、同じ使命を受けるということであり、時にはイエス様と同じように苦しむということもあるということを思います。
 続く57節で、「私を食べる者」、つまり、聖餐(イエス様の肉と血)を受ける者はイエス様により生きるだろう(原文は未来形)、と言っています。
 58節はこうです。
 『これは天から降って来たパンである。先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は永遠に生きる。」』
「天から降って来たパン」とはイエス様のことです。イエス様は、かつてイスラエルの民が約束の地に向けて旅をしていたときに天から降ってきたマナとは違います。「このパン」とはイエス様の言葉であり、イエス様を信じてつながることのしるしでもあります。このパンを食べる者は霊的な命を生き続ける、というのです。

 後半の場面に入って、60節で、多くの弟子たちが「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」と言っています。多くの弟子たちがこのように感じた話とはどんな話でしょうか? それはこれまでのイエス様のおっしゃった話、具体的には「私は天から降(くだ)ってきたパンである」(41節)、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)というような話と考えられます。天から降ってきたパンとは聖別されたパン、御聖体のことであり、「人の子の肉を食べその血を飲む」とは、聖餐にあずかることと言えます。多くの弟子たちはそのことを理解できず、イエス様も弟子たちがそのことでつまずいていると認識しているのです。61節で「あなたがたはこのことにつまずくのか。」と言っているとおりです。
 なお、ここで「つまずく」と訳されているギリシャ語は「スカンダリゾー」です。この動詞は名詞スカンダロン〈罠〉から派生した動詞で、英語のスキャンダルの元になった言葉です。イエス様を常識で割り切ろうとする、かたくなさや思い込みが、つまずかせることになります。
 62節の「それでは、人の子が元いた所に上(のぼ)るのを見たら、どうなるのか。」とはどういうことでしょうか? 「人の子」とはイエス様が自分のことを言う時に使う呼称です。イエス様は神様からこの世に派遣されました。「元いた所」とは神様のいるところ、天を指します。天こそがイエス様の故郷なのです。イエス様が命のパンであることを認めることができなければ、ましてや十字架、復活、昇天のことも認められず、一層「つまずく」というニュアンスが感じられます。
 63節から65節までは、命を与える霊(聖霊)の重要性、裏切る者の予告、さらにイエス様が『父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない』(65節)と言った経緯が述べられます。特に63節に注目します。こうあります。
『命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。』
 この「命」とはイエス様のみ言葉に従う恵みであり、「霊」は「聖霊」で父なる神の導きと言えます。ここの「肉」は自分の思いに固執する人間を表し、力や地位、生まれや人間関係のことと考えます。そして、あなた方に話した言葉は既にあなた方を助け導いている、永遠の命の内に置かれているというのだと思います。
 66節・67節で、弟子たちの多くがイエス様のもとを離れ、12弟子だけになり、イエス様はその12人に「あなたがたも去ろうとするのか」(67節)と問われます。
 68節・69節で、その問いに対して一番弟子のペトロは「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」 と信仰告白をします。ペトロは「イエス様のもとを去ることはない」という誓いをしているのです。

 なお、先ほど歌った聖歌437にある歌詞「命のみ言葉」や「主イェスのみ言葉」というのは、本日の63節の「私があなたがたに話した言葉」や68節の
「永遠の命の言葉」のことを言っています。

 本日の福音書では、前半でイエス様は「天から降って来たパン」である私を食べる者は永遠に生きると述べ、後半ではそれを理解できない多くの弟子が離れましたが、ペトロはじめ12弟子は、永遠の命の言葉を持つイエス様にとどまる宣言をしています。

 この箇所で言う「パン」とは御聖体であると同時にみ言葉のことであり、それを私たちは聖餐式として捧げています。それによって私たちは生きる力を得て、永遠の命へとつながっていきます。聖餐式は、サクラメント(聖奠)であり一つの神秘ですが、このことをよく表している絵本を今日は持って来ました。
 それは、やなせたかしの「それいけ!アンパンマン」です。今日持ってきたのは「アンパンマンシリーズの第1作」です。

 今日は小さいお友だちもいますので、この絵本をお読みします。大人の方は、童心に返って聞いてください。

『あんぱんの顔をしたアンパンマンが、風に こげ茶色のマントをなびかせて立っています。
「おや、だれかおなかをすかして死にそうになっている声が聞こえる。すぐ助けに行かなくちゃ。それいけ! アンパンマン!」
 ここは冷たい雪の谷間です。足を滑らせて、崖から落ちた子猿が泣いています。食べるものはなんにもありません。
「助けてえ~ ひもじいよう~ 」
 声は雪の谷間に響くばかり。答える者はありません。
 そのとき、アンパンマンが飛んで来ました。
「しっかりしろ、パンから生まれたアンパンマンが助けに来たぞ。」
「さあ 僕の顔を食べなさい。」
「え? 顔を食べるんですか。」
「心配しなくていい。ひもじい人の味方 アンパンマンの顔は とびきりおいしいのだ。」
 子猿はアンパンマンに かじりつきました。とてもいしかったので、大きなアンパンマンの顔も半分ぐらいになりました。
「おなかが一杯になったら 僕の背中に乗りなさい。君のうちまで送ってあげるよ。」
「大丈夫かなぁ。」
「大丈夫だ。それいけ! アンパンマン!」
 しかし、顔が半分になったアンパンマンは残った顔の方が重たくて 飛び出したとたん ぐらりと傾きます。
「きゃっ! 落っこちる!」
 子猿が夢中でしがみついたのがかえって悪かったのか、たちまち谷底へ真っ逆さま。しかし 落ちたところは柔らかい草の上でした。アンパンマンはふんわりと着陸して言いました。
「どうだ、アンパンマンはうまいだろう。」
 子猿も喜んで叫びました。
「うん! あんぱんはうまいね!」
 子猿のおうちは すぐそばの森です。
 子猿はアンパンマンにお礼を言って家に帰ります。
「ほんとにおいしいあんぱん ありがとう。」
「お腹がすいて死にそうなときは いつでも僕の名前を呼んでくれ。どこにいても必ず助けにいくよ。」」
 ひゃあ   森の中から子猿の仲間がぞろぞろ出てきました。
アンパンマン、僕たちにも食べさせてぇ。」
「こんなに いっぱいじゃ とても足りないよ。それに、死ぬほどお腹がすいている人でなくちゃ 僕の顔は食べさせられない。」
 アンパンマンは逃げ出しました。
  ところが不思議なことに大きな湖のそばまで来ると、子猿たちはきゃあーと叫びながら、一斉に逃げ出したのです。
 アンパンマンは首をひねります。
はてな? 一体どうしたんだろう?」
 突然、湖の水が泡立つと 真っ黒い怪獣がぬーっと現れました。アンパンマンを見ると、大きな口をぱっくりと開けました。
 そして、あっという間にアンパンマンを飲み込んでしまいました。
 怪獣は 舌なめずりをして言いました。
「人間を食べたのは久しぶりだな。子猿ばかり食べて少し飽きてたところだった。ごちそうさま。」
 怪獣はそのまま湖の底へ沈んでいきました。後には、気味の悪い大きな渦巻きがぐるぐる回っています。
 ああ アンパンマンは怪獣のお腹の中で今頃は溶けてしまったのでしょうか。
 怪獣がもう一度顔を出しました。そして、ぱっくりと口を開けるとアンパンマンを吐き出しました。
「何だ、これは 人間じゃなくてひどく甘いあんぱんじゃないか。甘い物は大嫌いなんだ。うーん、胸が焼ける。ペッ ペッ ペッ!」
 ひゅる ひゅる ひゅうと 吹き飛ばされたアンパンマンは 遠くの森の煙突の中に吸い込まれるように落ちていきました。
 そこは あんぱんつくりの名人、ジャムおじさんの工場(こうば)だったのです。
アンパンマン、はい、顔の修理は終わったよ。でも 少し休んでいきなさい。」
「いいえ、おじさん、世界中でお腹のすいた子供たちが僕の来るのを待っています。僕はすぐ出発します。それいけ! アンパンマン!」
 そして、また、どこともなく飛んでいきました。』

 助けを呼ぶ声に応え、自分の顔を食べさせるアンパンマン。まさに永遠の命のみ言葉であり御聖体であるイエス様そのものと思います。アンパンマンが、お腹をすかせている人に自分の顔を安心して食べさせることができるのはどうしてだと思いますか?
 それは、ジャムおじさんが新しい顔を焼いてくれるという安心感があるからです。ジャムおじさんに新しいあんパンを焼いてもらえば、アンパンマンは何度でも復活します。

 私たちも、み言葉であり御聖体であるイエス様を食べて、永遠の命につながらせていただきましょう。それは大きな恵みです。そして、イエス様とつながるということは同じ使命を受けるということでもあります。私たちも、アンパンマンのように、いただいた恵みを周りの人に分かち合っていく使命も担っていると思います。み言葉と聖餐によって、私たちは生きる力と永遠の命という恵みをいただくことができるのです。それは、ジャムおじさんが修復してくれるような恵みです。それを感謝のうちに受け取って、その恵みを自分のため、そして周りの人に分かち合っていくことができるよう、聖霊の導きを祈り求めたいと思います。

 父と子と聖霊の御名によって。アーメン