聖霊降臨後第13主日『聖餐によりキリストとつながる』
本日は 聖霊降臨後第13主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、箴言9:1-6 、詩編34:9-14、エフェソの信徒への手紙5:15-20 、ヨハネによる福音書6:51-58。説教では、聖餐にあずかることにより、主イエス・キリストとつながり、永遠の命を得ることができることを知り、「み言葉と聖餐」を通して、神と人に仕える者となるよう祈り求めました。
聖餐によって与えられる霊の恵みである「キリストの体と血」について、岩城聰著「聖公会の教会問答-信仰の手引き-」からまとめ、紹介しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は聖霊降臨後第13主日です。
ここのところ、主日の福音書はヨハネによる福音書6章で、パンに関する出来事や問答が続いています。本日の福音書箇所は6:51-58で、聖餐、つまりイエス様の御体と御血をいただく、そのことを語っていると思われます。
私たち聖公会は、陪餐(聖餐に預かること)を重要視して、毎主日のように聖餐式を執行しています。このことの意味を知ることは非常に大切であり、意義のあることと考えます。
福音書についてです。先週の福音書箇所の最後(ヨハネ福音書6:51)が本日の福音書の最初になっています。改正試用版の聖書日課でこのようになりました。重要な言葉なので重ねて取り上げたと思われます。こうです。
『[イエスは言われた。]「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。』
パンはイエス様自身であり、それを「食べる」は現在形、永遠に「生きる」は原文では未来形です。「イエス様を今食べるなら永遠に生きるでしょう」と未来につながるのです。51節の前半の「パン」は神の言葉を表す比喩表現です。後半は原文では「そして、だが」で始まり、初めて「肉(サルクス)」という言葉が使われます。「世を生かすために与える私の肉」という表現からイエス様の十字架がイメージされます。「パン」の意味合いが変わったのです。
52節で『ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に与えて食べさせることができるのか」と言って、互いに議論し合った。』とあります。
ユダヤ人たちは文字通りに「肉を食べさせる」と受け取り、イエス様のおっしゃる言葉の真意を理解することができなかったのです。
これに対するイエス様の答えが、53節以下です。
まず、53節から55節です。
『イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。』
「人の子」とはイエス様が自分のことを言うときに使う言葉です。「人の子の肉を食べて血を飲む」ということは、不気味なイメージがありますが、私たちは、神様の命をいただかなければ本当の命を生きることができない、逆にそれをいただけば「永遠の命を得」ることができると言っているのです。なお、「私の肉を食べ」の「食べる」はギリシア語では「トローゴー」でした。直訳すれば「むしゃむしゃ食べる」です。この語の意味は「かみ砕く・音を立ててかじる」であり、もともとは人間ではなく、動物が餌を食べることを表す言葉で、必ずしも上品な言葉ではありません。英語の聖書(NIV)では「feed」(訳せば「餌を与える、養う」)でした。ここでは「まことの食べ物」であるイエス様を実際に口に入れて食べることを表しています。
続く56節にはこうあります。
「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」
ここの「とどまる」という語(原文は「メノー」)は、ヨハネ福音書15章で「ぶどうの枝が木につながっている」という文章では「つながる」という意味で用いられています。ヨハネ福音書では「メノー(とどまる)」という語はイエス様と信じる者との深い交わりを表す重要な言葉です。
イエス様のこの「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」という言葉は、イエス様と聖餐を受ける人との深い交わりを表していると考えられます。私たちはイエス様の肉と血、つまり御聖体(聖餐)を受けることでイエス様の中にとどまり、イエス様も私たちの中にとどまってくださるのです。私たちは「聖餐にあずかること」によりイエス様とつながることができるのです。
続く57節で、私たちは聖餐(イエス様の肉と血)を受けることでイエス様により生かされると言い、58節では、「肉」ではなくイエス様自身を示す「パン」という表現に戻り、イエス様は「このパンを食べる人は永遠に生きる」だろう(原文は未来形)と言っています。言葉としてのパンが、さらに「肉と血」となって「永遠の命」を差し出しています。それゆえ信じる者は聞くだけではなく、具体的に「聖餐(イエス様の肉と血)」をいただくことによって「永遠の命」という「霊の恵み」にあずかることができる、と言うのです。
では、聖餐によって与えられる「霊の恵み」とは何でしょうか?
祈祷書の中にある教会問答の「問い」と「答え」を使い、確認したいと思います。
教会問答の問23と24(祈祷書P.264)にこうあります。
23.問 聖餐によって与えられる霊の恵みは何ですか
答 キリストの体と血です。信徒は信仰をもってこれにあずかります
24.問 キリストの体と血にあずかるとはどういうことですか
答 十字架につけられ、よみがえり、そして永遠の命に生きておられるキリストご自身の命を受け、キリストとの一致、またすべてキリストにある者の一致を強められ、罪の清めと、永遠の命に至る養いを受け、神と人とに仕える者となることです
聖餐によって霊の恵みが与えられ、それはキリストの体と血であります。私たちは信仰を持ってこれにあずかります。言い換えれば、信仰を持って聖餐にあずかるとき、聖別されたパンとぶどう酒は、キリストの体と血になります。そして、それを食べることにより、キリストの命を受け、キリストとの一致、キリスト者の一致、罪の清め、永遠の命への養い、神と人に仕える者になるのであります。
聖餐によって与えられる霊の恵みである「キリストの体と血」について、さらに考えたいと思います。このことについては、この本、岩城聰(あきら)著「聖公会の教会問答-信仰の手引き-」に示されています。

このようにまとめることができます。
聖餐(パンとぶどう酒)に対する理解については大きく3つの説があります。実体変化説と共在説と象徴説です。実体変化説はカトリック教会がとっている説で、ミサで供されるパンとぶどう酒は、外見上はそのままの状態にとどまるが実体的にキリストの体と血に変化(聖変化)するというものです。共在説は、ルターが唱えた説で、パンとぶどう酒はパンとぶどう酒としての本質を保ったまま、キリストの体、血が霊的にそこに混ざる(キリストはパンとぶどう酒の「その中に、それと共に、その下に」臨在する)というものです。象徴説はツヴィングリが唱えた説で、キリストは霊的な形においてのみ臨在するとして、単にキリストの体、血を表す象徴として「パン、ぶどう酒を使っているだけ」というものです。そのほか、カルヴァンは聖餐のリアリティを、交わりにおいて把握し、聖卓においてキリストと交わり、それによってキリストに与ると説明しています。
聖公会の聖餐理解はかなり幅があります。ある人は「リアル・プレゼンス」(真の臨在)と説明します。これは「イエス・キリストがユーカリスト(聖餐式)の式全体の中に臨在し、働かれる」ということであり、聖餐式の主宰者が主イエスご自身であるというものです。単にパンとぶどう酒だけの中にイエス様がおられるのでなく、聖餐式に与っている私たちの交わりの中にイエス様がいてくださる。そのような信仰を持ってパンとぶどう酒をいただくというものです。その点ではカルヴァンの聖餐理解に近いかもしれません。一方、聖餐の恵みの客観性を強調しサクラメント(聖奠)におけるキリストの実在を認める点では、カトリックやルター派と共通点があります。
パンとぶどう酒がイエス・キリストの体と血であるということは一つの「神秘」であり、言葉や理論を超えた事柄であると言えます。
皆さん、本日の福音書の56節をご覧ください。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」
この言葉を心に深く刻みながら、聖餐にあずかりたいと思います。それにより目に見えない神の恵み、キリストの愛を受け取ることができ、主イエス・キリストとつながり、永遠の命を得ることができるのです。皆さんと共にこの後も感謝・賛美の聖餐式をささげて参ります。そして、その中で私たちが神と人に仕える者となることができるよう祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン