聖霊降臨後第12主日『命のパンであるイエス様を信じ食べる』
本日は 聖霊降臨後第12主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、列王記上19:4-8、詩編34:1-8、エフェソの信徒への手紙 4:25-5:2及びヨハネによる福音書6:35、41-51。説教では、イエス様は永遠の命のパンであることを知り、イエス様を信じこれを食べ、神様の愛の内にあって主と共に歩むことができるよう祈り求めました。
テーマから思い浮かべる全盲のキリスト者で盲教育・福祉の先駆者、斎藤百合についても述べました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は聖霊降臨後第12主日です。福音書はヨハネによる福音書の6章の中心部であり、カファルナウムの会堂で「命のパン」をめぐってユダヤ人たちとやりとりする箇所です。
本日の福音書箇所は3つの部分からなっています。最初の35節は先主日の福音書の最後の言葉です。続く41-46節はユダヤ人たちが「つぶやいた」ことに対してイエス様が「つぶやき合うのをやめなさい」と言うところです。最後は47-51節でイエス様が「生きているパン」について語るところです。今回は最後の部分を中心に思い巡らしたいと思います。
最初の35節は重要な言葉なので冒頭で述べたものと思われます。こうです。
『イエスは言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。』
イエス様こそが命のパンで、イエス様を信じる者は決して飢えも渇きもしない、イエス様は永遠の命のパンであるということです。本主日のテーマもこの言葉を発展させたものと思います。
続く41-46節では、ユダヤ人たちが「私は天から降ってきたパンである」と言うイエス様の言葉に、つぶやきました。聖書の中では「つぶやく」という語は「自分の予想や期待を裏切られて、不平や不満を口にする」といった意味です。ちなみに、これまでは「群衆」でしたが、41節からは「ユダヤ人」という表現に変わっています。この「ユダヤ人」は民族名ではなく、イエス様に敵対する者を表しています。ユダヤ人たちはイエス様の父も母も知っており、どこに住んでいたかも知っていたので、自分たちの思いから抜け出すことができなかったのです。
イエス様は彼らに反論し、ご自分を知り、理解するには父なる神からの恵みが必要であると語ります。父なる神が「引き寄せて」くれるのでなければ、だれもイエス様の所へ行くことができないのです。
47-51節は詳しくお話しします。
47節でイエス様はこう言います。「よくよく言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」と。
この「信じる者は永遠の命を得ている」は現在形です。英語の聖書(NRSV)を見ると、「whoever believes has eternal life.」でした。直訳すれば、「信じる者はだれでも永遠の命を持っている」です。「イエス様を信じる=永遠の命を既に得ている」ということで、これは死後の命について語っているのではなく、今、神様とつながって生きるとき、そこにもう永遠の命が始まっているということを意味しています。この「永遠の命」は物質的な命とは区別される「キリスト・イエスにある新しい命」(ロマ6:4)であり「神の命」のことです。神様の招きに応えてイエス様を信じる者は、すでに永遠の命を得ているのであります。
さらに、イエス様は48節で「私は命のパンである。」、50節で「これを食べる者は死なない。」と言われました。この「死なない」という言葉も、この世の命のレベルで死なない、という意味ではなく、「神様とつながっている命は決して滅びない」ことを表しています。
そして51節です。「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である。」
「パン」は人の命を生かすもののシンボルです。「天から降って来た」というのは、人を真に生かすものは神様から来るということを表しています。
「命のパンであるイエス様を食べる」とはどういうことでしょうか? それはイエス様のもとに来て、イエス様を信じることだと言えます(35節)。さらに、今日の箇所の最後に「私が与えるパン」という表現が現れ、それは「私の肉である」と言われます。これは御聖体のことを表していると考えられます。
「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」は原文では断定の未来形でした。英語(NRSV)では、「Whoever eats of this bread will live forever.」でした。直訳すれば、「このパンを食べる人はだれでも永遠に生きるでしょう」となります。
イエス様がここで強調されているのは、「だれでも」ということだと思います。「このパンを食べる人」とありますが、「パン」は「命の糧」であるイエス様なので、「イエス様を信じる者」とも取ることができます。イエス様を信じる者、御聖体をいただく者は、だれでも永遠の命を得るのであります。
イエス様はこうして、信じる者が永遠の命を得ることを示されました。そして、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」のです。物質のパンを食べても一時的にしか生きられません、しかし、霊のパンを食べれば、だれでも神様とつながり永遠に生きることができるのです。
このことを表しているのが、先ほど福音書前に歌った聖歌261です。ご覧ください。
『1 神の み子なる 救いの主 主イエス キリストは 世に降りて
罪に死にたる 人を生かし 命の糧と なりたまいぬ
2 み子の与(あと)うる 体と血に あずかりしものは 罪赦され
永遠(とわ)の命に 結ばれつつ 聖(きよ)き喜び つねにぞあらん』
神様の御子であるイエス様は、天から世に降って命の糧、生けるパンになられたのです。イエス様を信じ御聖体をいただく者は、神の命である永遠の命に結ばれ、限りない喜びを得るのであります。
では、神様は私たちがどうすることをお望みでしょうか? それは今日の使徒書の中に示されていると考えます。エフェソ書5章1節と2節にこうあります。
「神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです。」と。
永遠の命のパンである主イエス様を与えられるほど私たちを愛してくださる神様に倣う者となること。ご自分をいけにえとして神様に献げられたように、私たちも自分を献げ、その愛の内に歩むことを神様はお望みなのだと思います。
この望みに応えて生涯を全うした人として、今日は、一人の盲人の女性を紹介したいと思います。それは「斎藤百合」という方です。斎藤百合については、先日、7月30・31日に行われた日本盲人キリスト教伝道協議会の開会礼拝で議長の田中文宏牧師が説教の中で触れていました。私はこの協議会(略して「盲伝」)の理事をしています。御自身も全盲である田中牧師が、この道の先駆者で今は天上会員の方々の一人として、この斎藤百合の名前を挙げておられました。そこでは「盲女子の母」と紹介されていました。
斎藤百合については、この本「光に向かって咲け-斎藤百合の生涯-」に詳しく書かれています。

著者の粟津キヨは斎藤百合の教え子です。
齋藤百合(1891年(明治24年)- 1947年(昭和22年))は、盲人女性のための教育施設・福祉施設を設置し、その地位向上に力を尽くしました。聖公会信徒の森巻耳が開いた岐阜訓盲院で盲教育を受け、キリスト者となり、母校の教員となり東京盲学校や東京女子大で学びました。弱視の斎藤武弥と結婚し1男3女の母にもなりました。まだ障害者福祉という考えが一般的でなかった大正・昭和初期、自身全盲でありながら自宅を開放し「陽光会ホーム」を主宰、盲女子の福祉と高等教育を目指しました。この「ホーム」の朝は礼拝から始まり、讃美歌を歌い聖書を読んだそうです。「ホームの聖句」はテサロニケ前書5:16-17節の「常に喜べ、絶えず祈れ すべての事に、感謝せよ」で、毎朝唱えたそうです。
弱視のある教え子が一番鮮やかに思い出す「ホーム」の光景は、冬の朝の5時、指先を火鉢にかざして温めながら、一人、点字の聖書を読み、祈る百合の姿だったそうです。
先日の盲伝の総会で、一緒の部屋になった全盲のO・Mさんは72歳で鍼灸師として現役の方でしたが、奥様も全盲でお子さんは3人いて、6人のお孫さんに囲まれているとのことでした。Oさんは幼稚部から鍼・灸・あんまの専攻科を卒業する21歳までずっと盲学校の寄宿舎で過ごしたとのことで、自立のための訓練を受け、身の回りの事は一人で何でもできていました。夫婦とも全盲で、家事や子育ては大変だったそうです。先日の夜、私とビールを飲みながらいろいろ話し、この「光に向かって咲け」の本についても話題になりました。Oさんは、斎藤百合が最初の子を妊娠した時、一人の男がすれ違いざまに「按摩さん、それ誰の子だえ? どこで拾っただえ?」と言われたエピソードを引用され、大正時代の状況を思いましたが、最近まで旧優生保護法で障害者の断種等が行われていたことにも言及され、全盲の夫婦が子供をもつことの大変さと喜び(子供が手足となってくれるなど)を語っておられました。Oさんにとっても、斎藤百合は神様を信じ、神様の愛の内に歩んだ先駆者であったのです。
皆さん、イエス様を信じ、イエス様をいただく私たちには、永遠の命はもう既に始まっています。永遠の命に結ばれ、命の糧、生けるパンであるイエス様をいただけることに心から感謝し、イエス様を信じ、私たちも自らを献げ、神様の愛の内にあって、主と共に歩むことができるよう祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン