聖霊降臨後第11主日『イエス様は永遠の命のパン』
本日は 聖霊降臨後第11主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、出エジプト記16:2-4・9-15、詩編78:23-29、エフェソの信徒への手紙4:1-16、ヨハネによる福音書6:24-35。説教では、イエス様は永遠の命のパンであり、私たちが主のみ言葉であるイエス様のもとに来て、イエス様を信じ続けることを望んでおられることを理解し、そのことに感謝し、祈りを捧げました。
私たちの教会が使用しているカトリック「御聖体の宣教クララ修道会」のシスターによる司祭用のウエハースや95歳で逝去された施設に入っていた盲人女性のエピソードを紹介しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は聖霊降臨後第11主日です。福音書はヨハネによる福音書の6章24-35節で、先週の箇所(五千人の給食及び湖上を歩くイエス様)の続きで、これらの奇跡のあった翌日の出来事です。聖書協会共同訳聖書では「イエスは命のパン」と表題のある前半部分です。
この箇所を通して神様が私たちに伝えたいと思っていることはどのようなことでしょうか?
本日の福音書箇所について、解説を加えて振り返ってみます。
群衆はイエス様を探しに、ガリラヤ湖北部にある町カファルナウムにやってきました。そして湖の向こう岸にいるイエス様を見つけ「先生、いつ、ここにお出でになったのですか」(25節)と声をかけます。群衆には、イエス様が湖の上を歩き舟に乗り込み、向こう岸に行くなど、考えも及ばなかったからです。それに対して、イエス様は群衆に「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(26節)と言います。これは男性だけで5千人、女性や子供も入れれば1万人を超す人々に食物を与え、彼らは満腹されたことを表していますが、このことを、イエス様は神様がすべての人々を救う方であることを示す「しるし」として行いました。しかし、群衆はこの出来事を単に空腹を満たすためであったと理解していました。そこで、イエス様は群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(27節)と言われました。その後、群衆はイエス様に、「神の業(わざ)を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)と聞きます。それに対して、イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(29節)と言われたのです。
群衆がイエス様に尋ねた「業」はギリシャ語「エルゴン(働き)」の複数形「エルガ」、英語ではthe worksで、イエス様が答えた「業」は「エルゴン(働き)」(単数形)、英語ではthe workでした。群衆は神の業を、諸々の指示とか掟を守ることと理解しているのに対して、イエス様は神の業をただ一つのこと、つまり神様がお遣わしになった方、すなわちイエス様を信じることであると答えているのです。この「信じる」という言葉は、原文では動作の継続を意味する表現が用いられています。つまり、「信じ続ける」ということです。イエス様は、「食べてしまえば終わってしまう食べ物のためでなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。そして、神様がお遣わしになったイエス様を信じ続けなさい」とおっしゃったのです。しかし、群衆はイエス様の言っていることが理解できませんでした。
次に、彼らは、本日の旧約聖書の出エジプト記にある、神様がモーセを通して、イスラエルの民に荒れ野でマナを与えた話を持ち出します。本日の福音書の31節に「私たちの先祖は、荒れ野でマナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」とありますが、これは本日の詩編78節の24・25節を引用したものです。聖書日課の2ページの該当箇所(詩編78節24・25節)をご覧ください。
「彼らの上にマナを降らせて食べさせ∥ 天の穀物を彼らに与えた
人は皆、天の使いのパンを食べた。∥ 神は満ち足りるまで糧を送った」
群衆は旧約聖書を引用して、肉の糧であるパンを要求したのです。
それに対して、イエス様は彼らに、「イスラエルの民が荒れ野でマナを与えられた出来事は、モーセが与えたのではなく、父、すなわち神様が与えた」ことを伝えます。さらにイエス様は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(33節)と告げます。
そこで、群衆は「主よ、そのパンをいつも私たちにください」(34節)とイエス様に言います。すると、イエス様は彼らに、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」(35節)と告げました。ここで「命のパン」と訳されている「命」はギリシャ語聖書を読むと「ゾーエー」でした。命には「ビオス」や「プシュケー」というギリシャ語もあります。「ビオス」は肉体的な命、生物学的な命を表します。「プシュケー」はもともとは「息(呼吸)」で、心や魂も意味する言葉です。それに対して、「ゾーエー」は、「命のパン」のほか「永遠の命」とか「命の水」というときに使われ、生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続ける命を指しています。なお、「私が命のパンである」は、英語の聖書(NRSV)では“I am the bread of life.”であり、この“I am”に当たるギリシャ語原文は「エゴー・エイミ」で、先週の湖上を歩くイエス様を見て恐れる弟子たちにイエス様が言った「私だ。恐れることはない」の「私だ」と同じ言葉です。出エジプト記でモーセに対して神が御自身を「わたしはあるという者だ」(新共同訳・出エジプト3:14)と明かした「わたしはある」のギリシャ語が「エゴー・エイミ」です。ですから、イエス様が「私が命のパンである“I am the bread of life.”」と言うのは、イエス様の神性宣言(イエス様は神であると宣言すること)でもあります。「命のパン」とは、人々を永遠の命に導く神であるイエス様自身を表しているのです。
さらに言えば、パンのギリシャ語原語は「アルトス」であり、これには、食物の他、「霊的糧」の意味もあります。ヨハネ福音書の1章1節には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあり、この「言(ロゴス)」はイエス様のことであることを考えると、「パン」とは「糧」であり「み言葉」でもあると言えます。神のみ言葉こそが命の糧であり、日頃からそれに親しむことが求められていると考えます。
群衆はイエス様を捜し求めて、しかもイエス様がパンを割(さ)かれたところに集まりましたが、イエス様がそこで割かれたパンは、実はイエス様御自身であったということがここで示されました。「私が命のパンである」と。イエス様は神様からのパンを与える人であると同時に、自分自身がパンであると言われるのであります。
カトリック教会や私たち聖公会は聖餐式や聖体拝領、または御聖体(聖別されたイエス様の体であるパン)に対する信仰を重視しています。それは御聖体が命のパンであり、私たちに生きる力と永遠の命を得させるためのイエス様御自身であるからです。
ところで、ナザレ修女会が解散になり、そこからウエハースをいただけなくなったので、現在、私たちの教会では、軽井沢にあるカトリック「御聖体の宣教クララ修道会」のシスターによるウエハースを購入し使用しています。司祭用のウエハースは何種類かありますが、本日はこのウエハースが今、パテンに載っています。

文字はギリシャ語をローマ字化したもので、IC XC はイエス・キリストの略字、NIKA は「勝利」という意味です。これは、「イエス様は十字架を通して勝利者となった」という救いの神秘を表しています。
先ほど歌った聖歌255の2節はこのことを歌っています。
「2 み子なるイェスは 十字架に 神の救いを 成し遂げて
まことの命の パンを裂き 日ごと われらを 生かされる」
イエス様は「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」とおっしゃいました。それは言い換えれば「私は永遠の命をあなたがたに与える。私のもとに来なさい。私を信じ続けなさい。そして、私を食べなさい」、また、「命の糧であるみ言葉に親しみなさい」と言っているのだと思います。
主のみ言葉に親しむということでは、先日、7月30・31日に行われた日本盲人キリスト教伝道協議会の総会で伺ったある話を思い出します。私はこの協議会(略して「盲伝」)の理事をしています。施設に入っていた盲人女性が95歳で逝去されたそうですが、その方はいつものように点字の聖書を読んでいるとき、指で点字の聖書を触りながら吸い込まれるように天に召されたそうなのです。それは、み言葉であるイエス様によって天に導かれたのだと思うのです。私たちも、このように日頃からみ言葉に親しみたいと願うものであります。
皆さん、私たちは、この聖餐式で、まず、主のみ言葉を聞きました。そして、この後、主の聖餐にあずかります。イエス様が「私が命のパンである。」と言われたことを思い起こしながら、御聖体、十字架を通して勝利者となったイエス様の御体にあずかりましょう。その恵みに感謝し、共に心を合わせて祈りを捧げたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン