聖霊降臨後第9主日『イエス様の深い憐れみによる癒やし』
本日は 聖霊降臨後第9主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
本日の聖書箇所は、エレミヤ書23:1-6 、詩編23、エフェソの信徒への手紙2:11-22及びマルコによる福音書6:30-34・53-56。説教では、神様との交りの時を大切にし、母親のようなイエス様の深い憐れみによって癒やし・救いが与えられたことについて思い巡らし、主の御心にかなう生き方ができるよう祈り求めました。
本日のテーマから思い浮かべた山田火砂子監督の映画「わたしのかあさん-天使の詩-」にも言及しました。
説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は聖霊降臨後第9主日です。先ほどお読みしました本日の福音書は、マルコによる福音書6:30-34及び53-56です。これまでの主日の聖書日課ではマルコによる福音書6:30-44で五千人の給食の箇所も含んでいました。私たちの教会が昨年の降臨節から使用している「改正祈祷書試用版」の聖書日課(RCL)では、6:30-34及び53-56で、後者は今回初めて取り上げられた箇所です。ここは大きく2つの部分からなります。前半の「弟子たちが宣教から戻ってきた後の状況」(30-34節)と後半の「ゲネサレトでの病人の癒やし」(53-56)です。
今回は主に前半の部分にスポットを当てて思い巡らしたいと思います。ここでは「弟子たちの宣教の結果を報告されたイエス様が、彼らに「休むように」勧め、駆けつけた「飼い主がいないような大勢の群衆を、深く憐れまれた」ことが記されています。
本日の福音書箇所の冒頭にこうあります。「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」
使徒と訳されたギリシャ語は「アポストロス」で、その意味は「遣わされた者」であり、ここでは宣教に派遣されたイエス様の弟子のことです。
使徒たち、つまりイエス様の弟子たちの「自分たちが行ったことや教えたこと」とは何だったでしょうか? それは、悪霊を追い出し病人を癒やしたことや神の国の福音を宣べ伝えたことだと言えます。そしてそれは、師であるイエス様がなさったことで、弟子たちはイエス様からそうできる権能を授かったからできたのでした。「残らず報告した。」という表現から、成果が上がり意気揚々としている弟子たちの様子がうかがえます。
さて、自分たちの成果を喜んで報告した弟子たちに、31節でイエス様は、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言って、寂しい所へ行かせようとしました。それはなぜでしょうか?
「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」とあります。騒がしくて忙しいからというのですが、私はイエス様はこのままでは弟子たちが大事なものを見失ってしまうように感じたからではないか、と考えます。弟子たちはいろいろな出来事や緊張で疲れている、とイエス様は感じられ、また宣教の成功で自分の力を過信し、自分でも気がつかないうちに、霊性の貧困という事態に陥ってしまうとイエス様は思われたのではないでしょうか? 「寂しい所」、以前の新共同訳では「人里離れた所」、つまり日常の活動や仕事から離れた所で、弟子たちに心も体も休息させ、神様との交わりの時、祈りの時を持たせようとしたのだと思います。聖書の中では「休む」とは「祈る」ことでもあるのです。
「リトリート」という言葉があり、それは元々は退却とか避難を意味しますが、キリスト教では「リトリート」というと、日常生活から離れて休み、祈りの時を持つことを言い、修養会や黙想会と訳されるときもあります。キリスト教主義学校では高校や大学で、新入生が入学して1、2ヶ月位したときに2泊3日程度の「リトリート」や修養会をすることがあります。また、私が神学校の実習で3週間寝食を共にした障害者施設「ラルシュかなの家」では、年に一度はアシスタントが障害者へのケアから離れる1週間程度のリトリートがありました。それらは日常の活動や仕事から離れた場所で心も体も休息させ神様との交わりの時を持つために設定されているのでした。
イエス様が弟子たちに「寂しい所に行って休むように言った」のも同じ意図だと思います。
ところが、「寂しい所」のはずが、そこはすでに、方々の町から一斉に駆けつけて来た群衆で大騒ぎでした。イエス様はその「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。彼らには、自分たちを養い、守り、導いてくれる飼い主、主人がいないのです。旧約聖書では、指導者を失った民が「飼い主のいない羊」にたとえられます。エゼキエル書34章5節では、「彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。」と述べられています。羊は古くから飼育されており、聖書時代には、山羊と共に家畜として飼われていました。山羊は野生のものと家畜化されたものがありますが、羊は家畜のみです。ですから、羊は飼う者がいなければ、野の獣の餌食となってしまい、命を失います。イエス様は、集まった群衆がそのような「飼い主のいない羊」のような有様を見て、深く憐れまれたのです。
イエス様の深い憐れみ、それはただ「可哀想に思う」というのではありません。
「深く憐れ」むというのは「心の底から相手の痛みを感じる」という言葉で、ヘブライ語で「ラーハム」と言います。その名詞形が「ラハイーム(憐れみ)」です。その言葉の元は「レヘム」から来ていて、「レヘム」は子宮という意味です。女の人の「子宮から痛む」というのが、「深く憐れむ」という言葉の元々の意味です。つまり、お腹を痛めた自分の子供に対して、いつも愛情を注いでいる。そのような母親の心を持って、イエス様は憐れまれた、ということです。
イエス様は、集まっている群衆に、お腹を痛めた子供を大切に思い育てる母親のような心で、いろいろと教え始められたのです。
本日の福音書の前半で、神様はイエス様が使徒たちの話をじっくりお聴きになり、寂しい所で休むように指図(さしず)されるお方、また、主人のいない群衆に母親のような愛情で深く憐れまれるお方であることを示されたのであります。
本日の福音書の後半は53節から56節です。、そこではイエス様と弟子たちが、「ゲネサレト」というガリラヤ湖の西の平原に着くと、人々が多くの病人をイエス様の所に運び、触れた人は皆癒やされたことが語られています。ここで「癒やす」と訳されたギリシャ語は「ソーゾー」で、この単語には、「癒やす」という意味だけでなく、「救う」という意味も含まれています。この言葉の意味は、物理的な癒しだけでなく、霊的な救いも含まれています。つまり、イエス様に触れた人は皆、物理的に癒やされ霊的に救われたのです。
本日の福音書が私たちに教えていることは何でしょうか?
イエス様は2,000年前の弟子たちに望み、人々になさったことと同じことを、現在の私たちにも望み、なさっておられます。イエス様は、そのことを知ってほしいと願っておられます。それは神様との交りの時を大切にしてほしいということと、イエス様の母親のような深い憐れみによって癒やし・救いが与えられるということです。本日の箇所はそのようなことを私たちに教えていると思います。
今回、私はイエス様が、自分のお腹を痛めた子供を慈しみ大切に思い育てる、その母親のような心を私たちに対して持っておられるということに深く感じ入りました。
そのことに関係して、ある映画のことを思いました。それはこれまで「筆子その愛」等多くの福祉やキリスト教に関する映画を撮ってきた山田火砂子監督の「わたしのかあさん-天使の詩-」です。

この映画は一昨日まで前橋シネマハウスで上映していて、現在92歳の山田監督の集大成のような作品で、「人は必ず何らかの目的を持ってこの世に生まれました」など、宝物のような言葉にあふれていました。私は1週間置いて2回見ました。こんな話です。
『障害者特別支援施設の園長である山川高子(常盤貴子)はある日、親友から母親・清子(寺島しのぶ)のことを本にしないかと声をかけられます。高子は聡明な子でしたが、両親は知的障害者でありそれを恥じた時期がありました。親友の言葉に高子は小学三年生の頃を思い出します。同級生に母親を見られたくなくて、授業参観のお知らせを隠していた高子でしたが、それを見つけた清子は授業参観にやってきてしまいます。騒がしくおどけ、同級生から失笑を買ってしまう清子。その後、両親が知的障害者であることを知らされ、高子は動揺します。そんな高子の心を癒したのは母清子の裏表のない、何より高子を愛する気持でした。・・・』
母・清子はどんな時も娘・高子を守り、一心に深い愛情で育てました。この母の愛情こそが、イエス様の「深い憐れみ」だったと思うのです。
皆さん、主イエス・キリストは、私たちにも日常の場から離れた所で心も体も休息させ、祈りの時、神様との交わりの時を持たせたいと思っておられます。また、イエス様は自分のお腹を痛めた子供を慈しみ大切に思う母親のような深い憐れみによって、私たちに癒やし・救いを与えて下さるのです。
私を含めてここにお集まりの皆さんは、自分の力ではどうにもならないと自覚した人生のある時にイエス様に出会い、全幅の信頼により祈りの時を持った時、主イエス様の母親のような「深い憐れみ」によって癒やし・救いが与えられたという経験をお持ちのことと推察します。私たちはその慈しみと恵みに感謝し、師である主イエス様に倣い、神様との交わりの時を大切にし、主の御心にかなう生き方ができるよう祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン