マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第16主日 聖餐式 『ラザロのこころ』

 本日は聖霊降臨後第16主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、アモス書6:1-7 とルカによる福音書16 :19-31。「金持ちとラザロのたとえの意味するところを知り、神の御言葉に耳を傾け、自分が救いを求めている者であることを自覚し、神に頼り御言葉を受け止めて日々生きることができるよう祈り求めました。ラザロの心を示す神に頼る姿勢を表す聖歌32についても言及しました。

   ラザロのこころ

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第16主日、私たちに与えられた福音書箇所はルカによる福音書16章19節から31節です。本日の聖書協会共同訳聖書の小見出しは「金持ちとラザロ」です。ここでは、先ほどお読みした箇所の直前の14節に「金に執着するファリサイ派の人々」という言葉がありますように、ファリサイ派の人々に語っています。
 
 本日の箇所はこんな話です。説明も加えてお話しします。
『あるところに金持ちがいました。立派な屋敷に住んでいて、いつも紫色に染めた衣や上質の亜麻布(あまぬの)の服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。
 一方、この金持ちの家の門の前に、ラザロという貧しい人がいました。今でいうホームレスですね。ラザロは、体中にできものができて、横たわっていました。病気のために働くこともできません。「その(金持ちの家の)食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」とあります。空腹のため、恥も外聞もなく、「犬もやって来ては、そのできものをなめて」も、それを追い払うこともできません。
 間もなく、ラザロは死にました。そして、金持ちも死にました。多分、ラザロは、「葬られた」とは書いてありませんので、葬式もなく誰からも看取られることなく死んだのでしょう。一方、金持ちは、大勢の人が集まり立派な葬式をして丁重に葬られた、と思われます。
 場面は、金持ちとラザロが死んだ後の世界に移ります。
 ラザロは、天使に導かれて、天国に行き、宴会の席に招かれました。そして、ユダヤ民族の父、アブラハムが座っている席の、一番近い席にいました。
 一方、金持ちの方は、陰府(よみ)の国に落ちていました。彼は、炎の中でもだえ苦しんでいました。その中で、目を上げて見ると、はるか上の方に天国が見えます。
 その天国で開かれている宴会の席に、あのラザロが座っているのが見えました。それもアブラハムの一番近い所に座って、楽しそうに食べたり飲んだりしているのが見えました。
 そこで、この金持ちは大声で言いました。
 「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。この炎の中で苦しくてたまりません。」 金持ちは、生前、自分の家の門の前で、毎日物乞いして、憐れみを乞うていたラザロの姿を見てはいました。お腹を空かして物乞いをしているラザロを見ていたけれども、同情したこともなかったでしょう。見えていても無関心で気にも留めていなかったでしょう。愛の反対語は「無関心」と言ったマザー・テレサの言葉が思い出されます。
 その金持ちが陰府の国の炎の中で、熱さと渇きの苦しみの中で、金持ちは必死になって憐れみを乞い、叫びました。
 しかし、アブラハムは、言いました。
 「子よ、思い出すがよい。お前は、生きている間に良いもの(良い人生)を受け、ラザロのほうは悪いもの(悪い人生)を受けた。今は、ここで彼は慰めら、お前はもだえ苦しみのだ。そればかりか、私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられ、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない」と。
 金持ちは言いました。「父よ、ではお願いです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人いますので、こんな苦しい場所に来ることのないように、彼らによく言い聞かせてください。」
 自分の兄弟たちが、今でも、同じ暮らし、贅沢三昧をしています。まだ何も気づいていないのです。彼らに、その結果を知らせるために、どうぞ、そこに座っているラザロを私の兄弟の所へ使いにやって、「大変な間違いをしている」と言いにやって下さいと、金持ちは言うのでした。
 しかし、アブラハムは言いました。
 『お前の兄弟たちにはモーセ預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
 彼らの所には、神様は、モーセ預言者たちを遣わし、何度もそのことを伝えにやっている。今も、その気になれば、耳を傾けることができると、アブラハムは言います。
 それを聞いて、金持ちは言いました。
 『いいえ、父アブラハムよ、それだけでは、彼らは分からないのです。気づかないのです。もし、死者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
 アブラハムは言いました。「もし、モーセ預言者に耳を傾けないのなら、たとえ誰かが死者の中から復活しても(そのような奇跡が起きても)、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と。』

 このような話でした。このたとえ話は、一体どのような教えなのでしょうか? 誰が天国に行くか、地獄に堕ちるのかというようなことでしょうか? 金持ちは、かならず陰府の国に落とされ、貧しい人は必ず天国へ行く、というようなことでしょうか? あるいは、天国とはどんな所か、陰府の世界とはどんなところかということでしょうか?
  そうではないようです。ではいったい、どのようなことをイエス様はおっしゃりたいのでしょうか? 
 このたとえのポイントは、金持ちが陰府に落とされた理由にあると考えます。このたとえに出てくる金持ちは、金持ちであることで高慢になり、お金や財産に望みを置き、頼り、贅沢な暮らしをしていました。
 このような金持ちの生き方を、本日の旧約聖書アモス書6章で預言者アモスは厳しく糾弾します。アモスは紀元前8世紀の、王国分裂時代の北イスラエル預言者です。この時代、北イスラエル王国は栄えましたが、貧富の差は広がりました。ここでは、イスラエル社会が金持ちと貧しい者とに分裂し破滅しようとしているのに、それに痛みを覚えない鈍感さが非難されています。そして、自分の周りを見ようとしない金持ちは、やがて厳しい報いを受けると、アモスは警告しているのです。
 
  福音書に戻ります。このたとえ話に出てくる「ラザロ」という言葉の意味は、「神は助けたもう」という意味です。また、「貧しい」と訳されたギリシャ語原語の「プトーコス」は、聖書では物質的に貧しいことに加えて、貧しさに苦しむがゆえに神の救いを必要とし、神様に頼る人といった意味合いがあります。金持ちの食卓から落ちる物を求めていたということも、ただ神の恵みを求めている姿を連想させます。そうすると、この話の金持ちとラザロの対比は、神様に頼らない人と頼る人、という比較であると考えられます。神様を必要としない人と、神様を必要とする人の比較といってもよいかもしれません。この金持ちは、神様を必要としていませんでした。自分の持ち物で十分生きていける、と思っていたのです。 
 この金持ちは、「モーセ預言者」、これはモーセ5書(律法)と預言書(及び諸書)、つまり旧約聖書の教えを全く無視していたわけではなかったでしょう。しかし、本当に神様の御言葉を必要としていたのでしょうか? 満腹の人にいくらごちそうを出しても、「いりません」と言われるでしょう。それと同じように、神様を求めていない人に対しては、いくら死者が復活して忠告をしても真剣に聞かないでしょう。 
 一方、ラザロは、何も持っていなかったので神様に頼るほかはありませんでした。そして、救われ、神の国に迎え入れられたのです。イエス様がルカ福音書6章20節で「貧しい人々は、幸いである 神の国はあなたがたのものである。」と言っていたとおりです。

 私たちは金持ちとラザロ、どちらの立場、状況にいるでしょうか? 誠実に聖書の言葉に耳を傾けているでしょうか? 自分に救いが必要であると自覚しているでしょうか? 

 私たちに必要な姿勢は、端的に言えば神様に頼るということであります。
 先ほど入堂で歌った聖歌32番をご覧ください。

 この聖歌は先日のエリザベス女王の葬送式で最初に参列者が歌った聖歌です。神様に頼る人の姿が、特に2・3・4節に示されていると考えます。
2 光にむかいつつ  めぐる地と共に
  み守りを絶やさぬ 主をほめたたえよ
3 海 山 島々に   あまねく み民の
  祈りとほめ歌は  夜も日もたえせず  
4 み民の目を覚ます 憩いの陽射しよ
  新たなくちびるは み名をほめたたえん

 皆さん、私は、一人でも多くの人が、神様の御言葉を聞く耳を持つように、神様の御言葉を求める者となりますように、祈ります。すべての人が救いを必要としている者であることに気がつくようにと、祈ります。そのためには、まず私たち自身が神様に頼り、御言葉に耳を傾ける者でありたいと思います。そして、自分が救いを求めている者であることを自覚し、神様の御言葉を受け止めて日々生きる者でありたいと願います。そうできるよう祈って参りたいと思います。