マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『ジャスティン・ビーバーの音楽と信仰(2)』

  前々回のブログで現代のポップ・シンガー、「ジャスティン・ビーバーの音楽と信仰」について記しました。今回はその続編です。
 ジャスティン・ビーバーの最新盤は今年3月、リリースされたアルバム『Justice(ジャスティス)』です。新型コロナウイルスパンデミックの最中に生まれたこのアルバムには、ヒット・シングル「Anyone」、「Holy」、「Lonely」などが収録されています。

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 このCDの帯にはこうあります。
『救われた僕が今度は君を救いたい 傷つき、気付きを得たジャスティンが知った、希望を表現する事の喜びを歌う』
 このCDは単なるラブ・ソングを歌うだけでないクリスチャン・シンガーであるジャスティンの面目躍如を示すアルバムとなっています。
 ジャスティンはこのアルバムのタイトルに、“Justice(正義)”を選びました。そしてアルバムの中でマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉を2カ所で引用しています。まずは1曲目「2 Much」の冒頭で聴こえる「Injustice anywhere is a threat to justice everywhere(どこかで不正が起きている限り 正義が安泰な場所はどこにもない)」という言葉です。これは1963年、人種差別への抗議活動で逮捕されたキング牧師が獄中で綴った公開書簡にある有名なくだりです。もう一カ所は、「MLK Interlude」と題された中盤のインタールードです。それは1967年にアトランタの教会で行われた説教の音源を用いており、そこでは「自分が信じるもの、守るべきものが危機にさらされた時に、怖いから、批判されたくないからと、真実や正義のために声を上げられないなら、それは死んでいるのも同然だ」と説いています。
 このアルバムの曲では先行発売された「Holy」に心惹かれました。このアドレスで英語字幕・和訳で見る(聞く)ことができます。ご覧ください。
 https://www.youtube.com/watch?v=XHmbLQgrjQ4

 このミュージックビデオは、切なくも温かいストーリーに仕上がっています。
 コロナ禍のためか石油工場が閉鎖となり職を失ったジャスティンと、恋人で看護師役のライアン・デスティニーがアパートまで追い出され、夜道をさまよい途方に暮れているところ、車で通りかかった米軍兵のウィルマー・バルデラマに声をかけられ、家に招かれ彼の家族と一緒に食事をするストーリーです。食前の感謝では兵士家族と手をつなぎ祈っています。

 今回は長いので抜粋の歌詞と和訳を載せます。
最初のVerse 1で、ジャスティンはこう歌い始めます。
 I hear a lot about sinners Don't think that I’ll be a saint
 But I might go down to the river 
‘Cause the way that the sky opens up when we touch
 Yeah, it’s making me say
 聞こえてくるのは罪人の話ばかり 自分が聖人になれるとは思ってないよ
  でも洗礼を受けると思うんだ
  なぜって僕たちが触れると空が裂けて雨が降り
 こう言いたくなるから

続くChorusはこうです。
 That the way you hold me, hold me, hold me, hold me, hold me
 Feels so holy, holy, holy, holy, holy
 On God
 Runnin' to the altar like a track star
 Can't wait another second
‘Cause the way you hold me, hold me, hold me, hold me, hold me
 Feels so holy
 君がそうやって抱きしめてくれると 神聖な気持ちになるよ
 誓うよ
 陸上選手みたいに全力で祭壇まで駆けつけるよ
 1秒だって待てない
 だって君が抱きしめてくれるから
 すごく神聖な気持ちになる

Verse 3でチャンスが歌い始めるところはこうです。
 The first step pleases the Father Might be the hardest to take
 But when you come out of the water I'm a believer, my heart is fleshy
 まずは父なる神を喜ばせよう なかなか難しいかもしれないが
 でも洗礼を受けたら 俺は信者 心の中が満たされる

最後のChorusの前にこうあります。
 Formalize the union in communion, He can trust (Woo)
 I know I ain't leavin' you like I know He ain't leavin' us (Ah)
 I know we believe in God, and I know God believes in us
  聖体拝領で信者として認められたら 彼は信頼してくれる
 そうだ 俺は君を見捨てない 彼に見捨てられることがないように
 そうだ 俺たちは神を信じている 神も俺たちを信じてくれる

 敬虔なクリスチャンとなったジャスティンとチャンスによる、この歌詞はゴスペル・ソングそのものとも言えます。信仰心にあふれ、洗礼と聖餐という2大サクラメントを称えています。この曲は全米3位のヒットとなりました。昨今のキリスト教離れと言われるアメリカ社会にあっても、この曲は多くの人に受け入れられたのです。

 問題の多かったジャスティン・ビーバーがこのような信仰を持つに至ったのには、ある出来事がありました。そのことは『アメリカン・セレブリティーズ』の中の「ジャスティン・ビーバー:セレブリティとキリスト教」の項に記されていました。

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 この本の中にこうあります。
『デビューしたてのジャスティンは「いい子」風なキリスト教徒だった。2010年のコンサートを追うドキュメンタリー映画ジャスティン・ビーバー ネヴァー・セイ・ネヴァー』では、友人と昼食の前にきちんとお祈りして神に感謝を述べているし、映画興行ではキリスト教徒向けマーケティングも行っている。しかしながら、10代の終わりにさしかかる頃には、音楽界を代表する「バッドボーイ」な問題児になり、とにもかくにも非行を繰り返した。ナイトクラブで掃除用のバケツに放尿し、壁に飾られたビル・クリントンの写真にスプレーで落書きする映像が流出した際には、元大統領その人に謝罪の電話をかけるまでの騒動に至っている。ペットの猿をドイツの税関で取り上げられ、そのまま放置したエピソードも顰蹙を買う。夜遊びも盛んになり、ストリップクラブでは札束をばらまいたし、ブラジルの売春宿から帰る場面を撮られたりもした。2014年には、免許切れの身でランボルギーニに乗って爆走レースを行い、ついにアメリカで逮捕された。この際、アルコールのほか、大麻と処方薬を摂取していたことが明らかになっている。
 逮捕された2014年、ジャスティンは心身ともにボロボロだった。アルコールと抗うつ剤を過剰摂取していたため、就寝時はボディーガードが息をしているか確認しにくる生活だったという。数多の女性と性的関係を持ったが、同時に「女性を大切にせよ」という母の教えを守らぬ自分を恥じつづけた。罪悪感も働き、母親とは疎遠になっていた。ある日、ジャスティンは鏡に映る自分を見て泣きはじめた。そして、その場にいた旧知の牧師に跪き、涙ながらに懇願する。「イエス・キリストについて学びたいです」そのまま牧師とともに祈ったジャスティンは唐突に福音を授かる。「僕に洗礼を受けさせててください!」彼を救ったのは信仰だった。 
■「バッドボーイ」から「敬虔なクリスチャン」へ
 福音を授かったジャスティン・ビーバーは再起をはかる。それを支えたのは、彼に洗礼を授けたキリスト教プロテスタントヒルソング教会の牧師カール・レンツである。牧師は、妻子のいる自宅にジャスティンを招き入れ、1ヶ月半の共同生活を送った。荒廃したライフスタイルから抜け出したジャスティンは、牧師のもとで熱心に聖書を熟読し、専門家の助けなしに薬物依存から抜け出したうえ、なんと禁欲まで誓う。彼のソーシャルメディアには聖書の言葉が増えていった。変化は大衆の目にも明らかだった。』

 牧師家族との1ヶ月半の共同生活により、ジャスティン・ビーバーは生まれ変わりました。それはまるで「パウロの回心」のようでした。
  使徒言行録9:17-19にこうあります。
『そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、 食事をして元気を取り戻した。』
  このアナニアがレンツ牧師、サウルがジャスティンです。ジャスティンがこれから、パウロのように多くの人にみ言葉を伝える者として主に用いられることを祈ります

 私たちにもこのようなことがあった(orある)のではないでしょうか? 
 私たちも主の器として用いられますよう、聖霊の導きを祈り求めます。