マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第16主日(特定19) 聖餐式 『イエス様の弟子の生き方』

 本日は聖霊降臨後第16主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました(前橋は「み言葉の礼拝」)。聖書箇所はイザヤ書50:4-9とマルコによる福音書8:27-38。説教では、イエス様の弟子とは、自分を捨て自分の十字架を背負ってイエス様に従う者であることを知り、「イエス様ならどうなさるだろうか」と考え、答えを見出し、実践することができるよう祈り求めました。また、「イエス様に従う」ということで思い浮かぶW.W.J.D.と文字のあるリストバンドや「What Would Jesus Do?」の文字の付いた三色ボールペンを紹介しました。

    『イエス様の弟子の生き方』

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第16主日です。本日の福音書はマルコの8:27-38です。この箇所は3つの部分から構成されています。第一はペトロがイエス様のことを「あなたはメシア(救い主)です」と」告白する部分(27-30節)、第二は、イエス様が弟子たちに「救い主」とは何を意味するのか、教えた部分(31-33節)、第三はイエス様が弟子たちと群衆に、イエス様の弟子であるとはどういうことなのか、話す部分(34-38節)です。

 今日の箇所の中心的テーマは「イエス様とは何者か」という問いかけです。
 洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、当時もいろいろな考えや噂がありました。イエス様が宣教活動をしていた時代も、マルコの福音書が書かれた時代でも、「イエス様とは何者か」という議論があったと考えられます。今日の箇所ではペトロが弟子を代表して「あなたはメシアです」と言いました。そうすると「イエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと」、ペトロはメシア(救い主)だと言ったのですが、それを「誰にも話すな、秘密にしておけ」と不思議な命令をしました。いわゆる「メシアの秘密」と言われるものです。
 なぜ、イエス様はそのような命令をされたのでしょうか?
 これは、当時のユダヤの人々が何を期待していたのかということと関係すると思います。ユダヤ人は自分たちを救ってくれるメシアをずっと待っていましたが、イエス様が現れて病人を癒したり、パンを増やしたり、奇跡を行うので、皆、この人がメシア(救い主)だと思ったのです。
 しかし、彼らが考えていたメシアと、イエス様がメシアであるということの意味が全く違いました。簡単に言うなら、ユダヤ人たちはイエス様を目に見える幸せをもたらしてくれる方、現世御利益的なメシアであると思ったのです。でも、本当のメシアは違います。イエス様がメシアであるということは、もっと深い意味があるのです。
 この福音書から言うなら、31節にあるように「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」、そのようなメシアです。いかにもメシアらしくないメシアです。それは現代の私たちにはメシアとは理解しがたいメシアですが、当時のユダヤの人々にとってもそうでした。

 では、私たちはイエス様がメシアであることをどうしたら分かるのでしょうか? 私たちは、黙想の中で、イエス様としっかりと向き合わなければ、本当にイエス様がメシアであると分からないと思います。黙想する中で、祈りを通して、聖書を読むことを通して、「イエス様はメシアである。私にとってキリスト(救い主)なのだ」ということがだんだん分かってくるのではないでしょうか?
  
 この後は「弟子というのは一体何なのか」という話が続きます。「本当の弟子とは何なのか」ということです。
 本日の福音書の8章34-35節にこうあります。
『それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。』
 弟子に加えて群衆を対象に、つまり、私たちすべての人間に向かってイエス様はこの言葉を発せられています。
 その後の、イエス様の言葉を直訳すると「もし誰かが私の後ろに従うことを欲するなら、彼は彼自身を否定しなさい。そして彼の十字架を彼は運びなさい。そして彼は私に従いなさい。」となります。
 ここには、イエス様に従う弟子の取るべき態度が示されています。イエス様の後ろに立って、後に従いたければ、自分を「否定して」、十字架を「運び」、イエス様に「従う」者とならなければならない、というのです。弟子は、イエス様を否定せずに、むしろ自分を否定し、自分の望みを捨てて、十字架を背負い、イエス様に従うのであります。ここでの「十字架」とは人間の常識からかけ離れた「神の思い」のことです。   
 これは義務ではないと思います。神様の大きな愛と恵みをいただいた者として人々に奉仕できるか、自分を捨てて愛に生きていけるかを、イエス様が私たちに問うているのだと思います。
 なお、「自分の命」とか「福音のために命を失う者」の「命」はギリシャ語原文では「プシュケー」であり、「魂」や「自己」とも訳すことができる言葉です。私たちは自分の魂「自己」を救おうとするとそれを失い、イエス様のため、福音のため自分の魂「自己」を捨てると、イエス様が救ってくださるというのです。このように、一人一人の命(魂)を助けて下さる方がイエス様というメシア(救い主)なのであります。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従う者」「自分の命を救うのではなくて、福音のために命を失う者」、これが今日の福音書が伝える私たち弟子の生き方だと言えます。端的に言えば「イエス様に従う」ということです。
 イエス様に従うとは、イエス様の心を自分の心として生きるということです。
それは何かに出会った時、また判断に迷った時、「イエス様ならどうなさるだろうか」と考え、思い巡らし、答えを見出し、実践していくということです。

 ところで、今日はこのリストバンドをしてきました。ここにW.W.J.D.とあります。

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 このようなリストバンドは、NBAマイケル・ジョーダンやポップ・シンガーのジャスティン・ビーバーが身に着けて知られるようになりました。W.W.J.D.は「What Would Jesus Do?」を略したものです。私はこの文字の付いた三色ボールペンも持っています。

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    これこそまさに、「イエス様ならどうなさるだろうか?」という意味です。
 このWWJDの文字を見て、人生において何か困難に出会った時、「What Would Jesus Do?(イエス様ならどうなさるだろうか)」と考え、思い巡らし、答えを見出していくのは、イエス様の弟子の生き方としてふさわしいものです。そのために、祈りを通して、聖書を読むことを通して、イエス様の御心を知り、それに従いたいと思います。
 
 皆さん、イエス様は私たちにも「イエス様とは何者か」、また「イエス様の弟子であるとはどういうことか」と問いかけておられます。私たちはこの問いに答え、「イエス様こそ私の救い主である」と告白し、「自分を捨て十字架を背負ってイエス様に従う者」でありたいと願います。人生の困難な時、W.W.J.D.「イエス様ならどうなさるだろうか」と考え、答えを見出し、それを実践することができるよう、祈り求めたいと思います。