マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『「祈り」とは神に見つめてもらうこと』

 ここのところブログで「祈り」について思い巡らしています。そして、「祈るとは神様の前に自分を置くこと」や「自分の願いを神様の願いに替えていただけるよう祈り求めること」などをテーマに語りました。そこでは、神様に願うというよりも神様に聴くことが「祈り」であるという思いがありました。
 最近、その思いをさらに踏み込んだ言葉に出会いました。それは教皇フランシスコ訪日講話集「すべてのいのちを守るため」の中にありました。

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 この本の「あとがき」に当たる部分で、若松英輔氏が東京カテドラル聖マリア大聖堂で開催された「青年との集い」において「祈りとは何ですか」と問われた教皇が、ある思慮深い霊的指導者の言われた言葉として引用されたのが以下の言葉です。
 「祈りとは基本的に、ただそこに身を置いているということ。心を落ち着け、神が入ってくるための時間を作り、神に見つめてもらいなさい」
 ここでは神様に聴くことを通り越し、ただそこに身を置き、神様に見つめてもらうこと、それが祈りだと言うのです。ここには、ギリシャ語でテオリア、ラテン語でビジオ・デイの語で伝承してきたカトリックの長い修道の伝統があると考えられます。日本語では「見神」と訳されますが、直訳では「神の眼差し」です。そこから「祈り」とは「私たちが神の眼差しの内に置かれる」こと、あるいは「神の眼差しのうちに私たちが見出される」ことと言えます。それを教皇は青年たちに「祈りとは神に見つめていただくことです」とやさしく語られたのだと思います。

 「祈りとは神に見つめてもらうこと」から、思い浮かべる詩編があります。それは詩篇33編です。13・14節にこうあります。
「主は天から見つめ/すべての人の子らを御覧になった。座しておられる住まいから/地に住むすべての者に目を注がれた。」
 さらに18節はこうです。
「見よ、主の目は主を畏れる人に/主の慈しみを待ち望む人に向けられる。」
 神は地に住むすべての者、私たちに目を注がれる、神の眼差しは主を畏れ主の慈しみを望む人に向けられている、と言うのです。それほど神様は私たちを愛してくださっているのです。ここでは「見つめる」ということが愛の行為であることが示されていると考えます。

 私はこれまで、人生の様々な場面で「聖体訪問」をしてきました。聖堂の中で神様の前に身を置き時間を過ごしてきました。聖母子像や聖ヨセフ像の前で、そして、なにより御聖体やイエス様の磔刑像の前で祈ってきました。それは実は、「神様から見つめていただいている」ということだったのだと思わされました。「祈りとは神の眼差しの内に置かれる」とはこのことだと気づかされました。

 祈りとは神様に見つめていただくことです。つらすぎて時には祈りの言葉も出なくても、ただ神様の前に自分の身を置くとき、神様の方から目を注いでくださるのです。本当に感謝なことです。その神様に信頼して、これからも祈りの時を持ち、神様の前に自分を置き、日々、神様に見つめていただこうと思います。