マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第7主日(昇天後主日)聖餐式 「イエス様のとりなしの祈りに倣う」

 本日は復活節第7主日(昇天後主日)です。前橋の教会で10:30から聖餐式を献げました。聖書箇所は使徒言行録 1:15-26とヨハネによる福音書 17:11c-19。説教では、世に派遣された弟子たちが聖なる者となるよう、「とりなしの祈り」をしてくださるイエス様について語りました。そして、イエス様がされたように「とりなしの祈り」を日常的に捧げることができるよう祈り求ました。「射祷」という祈りにも言及しました。

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 既に皆様ご存じのように、私たちの信仰の先輩であるS・Mさんが、先週の木曜13日の午後に逝去され、本日ご自宅で通夜の祈り、明日9:30から葬送式が当教会で執り行われます。先月の私のマッテアでの最初の司式の折りには車椅子で参列され、言葉を交わし御聖体も差し上げることができたので、まさかこんなに早く天に召されるとは思ってもいませんでした。ペンテコステの礼拝後には、ご自宅を訪問して御聖体を差し上げたいと考えていたところでした。S・Mさんは洗礼名のヨセフがふさわしい、まさに私たちの父親のような存在だったように思います。Sさんが天に帰られたのは、昇天日の礼拝を献げた午後でした。イエス様と共に天に召されたように思います。Sさんの御国での魂の平安とご家族に主が慰めをお与えくださいますようお祈りいたします。

 さて、本日は復活節第7主日(昇天後主日)です。この前の木曜日に私たちは昇天日を迎えました。イエス様が天に昇られた日です。そして来週の日曜日が聖霊降臨日となります。今日私たちは、昇天日と聖霊降臨日の間にいます。受付にあります小冊子「み国が来ますように(Thy Kingdom come)」という「祈りのしおり」では第4日目に当たります。先ほど特祷の後にこの「み国が来ますように」の祈りを捧げましたが、毎日この冊子を用いることで、主の御心を知り祈りの姿勢を整えることができますので、ぜひご活用下さい。

 本日の福音書箇所はヨハネによる福音書17:11c-19です。ここは、イエス様がこの世に残していく弟子たちのことを、父なる神様にとりなして祈られた箇所です。「大祭司の祈り」と呼ばれているところです。今日の福音書の中で、イエス様は、父なる神様とイエス様が一つであるように、弟子たちも一つとなるように守ってください、と祈っておられます。イエス様ご自身が弟子たち、さらには、私たちのために「とりなしの祈り」をしてくださっているのです。
 
 先ほどお読みした箇所の直前の11節の最初には「わたしは、もはや世にはいません」とあります。もうすぐ自分はいなくなってしまう、そのときに「聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください」とイエス様は祈ってくださいます。これが私たちを思うキリストの、祈りの言葉です。
 12節には「私が保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。」とあります。この「滅びの子」とは「滅びに向かっている者」を示し、ここでは直接的にはイスカリオテのユダと考えられています。今日読まれた使徒書の使徒言行録の箇所では、このユダの滅びとこのユダに替わって12使徒の一人に選ばれたマティアのことが記されています。このマティアが私たちの教会の守護聖人であるマッテアです。
 13節に「しかし今、私は御もとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。」とあります。
 死はイエス様にとって「神様のもとに」行くことであり、もといた場所に戻ることです。そして「私の喜び」とは、「神様のもとで」享受していた喜びであって、イエス様が自分だけで作り出した喜びではありません。神様のもとで享受した喜びを世へ運ぶことがイエス様の仕事であり、この喜びは父なる神様との交わりによって引き起こされました。この喜びは父なる神様からイエス様へ、そしてイエス様から弟子へ、さらに弟子から私たち信じる者へと伝わっていくのであります。
 15節に「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とあります。イエス様の願いは、神様が弟子たちをこの敵意と憎悪に満ちた世から取り去ることではなくて、この世において彼らを悪者から守ることなのです。さらに、17節で弟子たちの共同体を悪い者から守るとはどういうことか説明しています。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉は真理です。」とイエス様は祈っておられます。弟子たちが聖なる者になること、それが実は悪い者から守られることになるのです。

 今日の福音書では、イエス様は残される弟子たちのために、十字架につかれる前に、悪い者から守られるよう、聖なる者となるよう神様へ「とりなしの祈り」をされました。
 私たちもイエス様がされたように、他の人のために「とりなしの祈り」をしたいと願います。
 実は、私たちは毎主日、礼拝の中で「とりなしの祈り」をしています。それが代祷です。全聖公会や北関東教区の他の教会のためや、当教会在籍信徒で記念日を迎える方々等のために祈っています。他者に代わって、その人のためにする祈りが代祷であり「とりなしの祈り」です。私たちはそれを、毎主日だけでなく日常的に行うことが大切であると考えます。
  そしてその祈りは、難しいことを祈る必要はありません。
 単純な祈り、カトリックで言う「射祷」という祈りがあります。「射祷」はArrow prayerとも言われます。Arrowとは矢、prayerは祈りです。矢を射るように、神様に向かって私たちの短く、燃い祈りを捧げるのです。これによって心を神に上げ、神と一致できます。神様はいつも私たちと共におられますから、どんな時も、神様にお祈りできます。受付の献金袋の上に置いたにB5版横の資料をご覧ください。これは、この「ポケット版カトリック祈祷書 祈りの友・抄」の中の「射祷」の例を示した部分です。

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「主よ、あなたに信頼します」「主よ、み旨のままに」「神の子、主イエス、罪人の私をあわれんでください」等、短くて凝縮された祈りばかりです。この資料の最後の祈りは「とりなしの祈り」であり、木曜に天に召されたSさんをおぼえて祈りたいと思います。「いつくしみ深いイエスよ、みもとに召された人々に永遠の安らぎを与えてください。」

 皆さん、イエス様は十字架につかれる前に、残された弟子たちが悪い者から守られるよう、聖なる者となるよう、父なる神様に「とりなしの祈り」をされました。それは私たちにも向けられています。
 神様はいつも私たちと共におられますので、私たちもイエス様がされたように、他の人のため、「とりなしの祈り」をして参りたいと思います。射祷のように、短くても熱い代祷を、私たちが日常的に捧げることができるよう祈り求めて参りたいと思います。