マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『バッハのカンタータ67番「死人の中より甦りしイエス・キリストを覚えよ」に思う』

 前々回のブログで、バッハ・コレギウム・ジャパンのCDからバッハのカンタータ134番「イエスによりて生くるを悟りし心は」について思い巡らしました。このCDには復活節に歌われたカンタータが他にも2曲入っています。今回はこのうちのカンタータ67番「イエス・キリストを覚えよ、主は死者の中から甦られた」及びこれらの作品を生み出したバッハの源泉等について記してみたいと思います。
 カンタータ67番を今回はこのCDで聞いてみました。カール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ管弦楽団、合唱団によるものです。

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 このCDではカンタータ67番の題名は「死人の中より甦りしイエス・キリストを覚えよ」となっていいます。
 復活日から最初の日曜日(主日)。その名称や数え方は、教派や時代によって異なります。バッハは当時のルター派の教会暦で「復活節後第1日曜日」としていますが、私たち聖公会では「復活節第2主日」にあたります。
 カンタータ67番は1724年のこの日(4月16日)に、ライプツィヒの教会で初演されました。この日の礼拝で読まれた福音書は、ヨハネによる福音書第20章19節~31節でした。復活したイエス様が弟子たちの前に現れて語り掛け、手と脇腹を見せた箇所です。

 カンタータ67番はYouTubeでHelmuth Rillingの演奏を聞くことができます。次のアドレスです。https://www.youtube.com/watch?v=Gpr5EvXd-wA&t=33s
 編成はアルト、テノール、バス独唱と合唱。スライド・ホルン、フルート、オーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ)、弦楽と通奏低音となっています。

 カンタータ67番の作詞はだれによるものか分かっていませんが、聖書の記述に添って表しています。
 第1曲は全楽器を伴って合唱が、「死人の中より甦りしイエス・キリストを覚えよ」と新約聖書テモテの手紙Ⅱ2章8節の言葉を歌います。
 続いてテノール(アリア)がオーボエ・ダモーレや弦楽、通奏低音と「我が主は、甦られた。しかし、私をまだ恐れさせるものは何か? 私の信仰は主の勝利を知っている。我が主よ、どうぞお出でください」と歌います。
 この後、当日の福音書のテーマ「トマスの不信」を下敷きにした信徒の迷い等を述べ、合唱によるコラール「栄光の日が来た。この喜びは味わいつくせない。わたしたちの主、キリストは、今日勝利の凱旋をされる。敵は捕らえられる、ハレルヤ!」と続きます。
 再びアルト(レチタティーヴォ)が「今もなお、敵の残党が、私の平安を奪い、脅かしているように見えるのです・・・」と言った後、第6曲ではバスと合唱によるアリアになり、イエス様自らが現れます。ここでは戦いの様子を表す賑やかな弦楽に始まり、穏やかな木管を背景としたバスによるイエス様の声「あなた方に平和があるように!(ヨハネ20:19)」、ソプラノ、アルト、テノールの「イエスは私たちと共に戦い、敵の怒りを鎮めてくださる。地獄よ、サタンよ、退け!」というように、イエス様の声と救いを求める人々の合唱(ソプラノ、アルト、テノール)が交互に演奏されます。私の聴いているリヒター版では、バスのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがイエス様として、朗々と謳い上げています。最後には楽器も争いのモチーフをやめてイエス様の言葉に収斂されていくドラマチックな曲で、ここがこの曲の特徴を最も良く表しています。
 そして、合唱によるコラールで曲を閉じます。「平和の君、主イエス・キリストよ、真実の人であり、真実の神よ。あなたは苦難の際の強い救い主。生きている時も死ぬときも。だから私たちはただあなたの御名により、あなたの父に向って叫ぶのです」。

 まるで復活したイエス様がこの場にいるような、臨場感溢れる曲です。ここの聖書箇所を熟知し正しく理解していなければ、このような曲は作曲できないだろうと思わされます。
 バッハがこのような作品を生み出すことのできた源泉は何だったでしょうか? そのことについて「聖書の音楽家バッハ」という本が大きな示唆を与えてくれました。

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 この本の中にこうあります。
『バッハは我々を捉えてやまない。我々の時代を超えた次の世代にも、バッハはまた新しい局面でアピールして、その心を捉えるでしょう。その根源はバッハが聖書を基礎としているから、しかも神がかり的な意味での聖書ではなく、現代の問題、またこれから先に人類が直面するであろう問題の根本を衝いた聖書を基礎としているからということです。
 バッハにとって聖書とは、現実の生身の人間同士の掛け合いとやりとりの世界であった。私たちがその中に入っていけて本当に人間らしく喜び、悩み、悶え、泣き、歓呼するような、自由にのびのびと、そこで純粋に自分の本心がありのままに吐き出せる世界だった。
 バッハは「神の言」を録した聖書だからといって、ただ崇めてそれを使ったのかというと、そうではない。この聖書の記事とバッハは格闘しているんです。はっきりいうと、生身の自分を聖句にぶつけて自分自身を聖書のどこかに位置づけながらこの聖書を読んでいる。バッハは聖書の行者、福音の真理の体得者として、聖書の音楽を書いたということです。』 
 バッハの音楽の根源(源泉)は聖書であること、しかもそれは生身の人間同士の掛け合いの中にある生きた世界であったこと、バッハは聖書の記事と格闘し生身の自分をぶつけて聖書を読み、聖書の音楽を書いた、というのです。それがバッハの音楽の秘密だったのだと思いました。
  さらに、これは私が説教を作る上でも心しなければならないことだと感じました。説教の源泉は聖書であり、現実の人間の喜び、悩み、悲しみとからめて読み取り、聖書と格闘し生身の自分を聖句にぶつけて説教を作るということです。バッハから学ぶことはまだまだありそうです。