マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第4主日聖餐式  「良い羊飼いのみ声に従う」

 本日は復活節第4主日。午前前橋、午後新町の教会で聖餐式を献げました。
 聖書箇所はヨハネの手紙一3:1-8とヨハネによる福音書10:11-16。説教では、羊を知り、羊に知られている「羊飼い」であることについて、特に「知る」という言葉にスポットを当てて考えて思い巡らしました。イエス様こそ私たちを導く「良い羊飼い」であることを知り、そのみ声に生涯聞き従っていくよう勧めました。私宛にK先生から2000年に送られて来た手紙も紹介しました。

   「良い羊飼いのみ声に従う」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は復活節第4主日です。復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日Good Shepherd Sunday」と言って、毎年、ヨハネによる福音書第10章の「良い羊飼いのたとえ」が読まれます。そのことから、将来の良い羊飼い・牧者を育てる
という意味で「神学校のために祈る主日」とされています。入口にポスターが
あります。

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 本日は、先ほどお読みしました福音書の箇所、ヨハネ福音書の10章11節から16節について思い巡らしたいと思います。
 本日の福音書箇所では、良い羊飼いであるイエス様を3つの側面から述べています。第1は、イエス様は羊のために命を捨てる「羊飼い」であること。第2は、羊を知り、羊に知られている「羊飼い」であること。第3は、囲いに入っていない羊をも導く「羊飼い」であることです。
 今回は2つ目の側面について、特に「知る」という言葉にスポットを当てて考えてみたいと思います。
 
 イエス様は14・15節で言われます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」と。
 ギリシャ語の「知る」には二つの言葉があります。「オイダ」と「ギノースコー」です。前者は「見ている、知識を持っている」、後者は「観察、経験により知るようになる」というニュアンスがあります。「オイダ」は単に知覚の範囲内にあることを示すのに対し、「ギノースコー」はしばしば知る者と知る対象との間に能動的な関係があることを示していると考えられます。
 今回のこの箇所では「ギノースコー」が使われています。良い羊飼いであるイエス様と飼われている羊は、単に知識として知っている関係でなく、観察、経験により知るようになる能動的な関係なのです。そしてそれは、父なる神様とイエス様との関係と同じだというのです。

 このことで、私は、養護学校で学級担任をしていた頃を思い出しました。障害のある子の指導・支援のためには、一人ひとりをよく知る必要がありました。障害の状況、発達段階、性格や特性、家庭環境、友達関係、生育歴等をつかむため情報収集し、観察し、共に生活しました。朝、登校してから子どもが下校するまで、全教科を持ち、休み時間も昼食も一緒でした。トイレに行くときも子どもを一緒に連れて行き用を足しました。「オイダ」ではなく「ギノースコー」として全人格的な関わりで、一人ひとりの子を知りました。一クラス5・6人でしたのでそのようにできたのかもしれませんが、家族のように愛情が湧きました。そのような関係が良い羊飼いと羊の関係だと思いました。
 現在、私は玉村のマーガレット幼稚園のチャプレンをしていて、先日、20日(火)も4月の誕生会があり、イースターの話をしてきました。マーガレット幼稚園は2年前にこども園になり1歳から6歳までの園児が76人在園していますが、そこでの先生と園児の関係も良い羊飼いと羊の関係のように思いました。

 良い羊飼いは羊のことを知っており、良い羊飼いに養われる羊は、羊飼いのことを良く知っています。羊はすべてをゆだねて安心しています。単に見て知っているのではなく、心の深いところで受け入れられています。このように、イエス様は私たちのことを全人格としてよく知り、受け入れて下さっているのです。これこそ福音(良き知らせ)であります。 
 イエス様こそ、私たちの牧者、良い羊飼いです。そして、私たちはこの良い羊飼いに養われる羊です。
 羊は、羊飼いの声をよく聞き分け、羊飼いをよく知らなければなりません。羊飼いに、すべてをゆだねきる、本当の信頼がなければ、迷いだしてしまいます。私たちも良い羊飼いであるイエス様に全幅の信頼をしていきたいと願います。
 皆さん、イエス様は十字架のみ業を為し遂げられた後、復活し、今も私たちと共に生き、導いてくださっています。この良い羊飼いのみ声に、生涯聞き従っていくことができるよう祈り求めて参りたいと思います。
 そして、私は、牧者、聖職としても、大牧者であるイエス様のみ声に生涯聞き従っていきたいと思います。それが、私のためにこれまで祈り支えてくださった多くの方々に応えることでもあると考えます。

 今日は一通の手紙を持ってきました。私宛にK先生から2000年に送られて来た手紙です。K先生はマッテア教会の古くからの信徒で、長く保母や公立の保育所の所長を務められた方です。娘の幼児洗礼の時の名親でもあります。先生は榛名の新生会マリア館のお部屋でS先生と一緒にお住まいでしたが、2007年に天に帰られました。
 今日はこの手紙の抜粋をお読みして、私の説教を終了したいと思います。
『 福田先生 思いがけない時、先生からクリスマスカードとお手紙をいただきましたこと、驚き、そしてお懐かしく、思い出の中にしばし我を忘れました。
 福田先生とは、先生が教会でお説教の時など横文字の本で勉強していらっしゃるお姿をいつも拝見していました。いつも真面目な勉強のお姿で、「今に教会のお仕事をしてくださるといいな」などと空想したりしていました。
<略>聖公会新聞や教区時報等にまで先生が投稿されているのを拝読して、嬉しく読ませていただいております。
<略>先生が、聖職を目指して勉強なさっていらっしゃるとのことを拝見して本当に嬉しく存じました。マッテヤから聖職が生まれること、歴代の司祭様にお知らせしたい衝動にかられます。神様もきっとお喜びでしょう。私共のことはすべてご承知の方ですから。御降誕~十字架の死に至るまでの聖書に語られた神様の愛は涙が出て参ります。
<略>学問は何でも広い広いものですから大変な勉強と存じますが、どうぞ努力してください。ご成功を祈っております。
<略>お元気でよき希望に向かって歩いて下さい。
 2000年12月27日   K・A
 福田先生』