マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第2主日聖餐式  「傷ついた復活の主を信じる」

 私はこの度の辞令により、高崎聖オーガスチン教会副牧師から前橋聖マッテア教会牧師となりました。新町聖マルコ教会については継続勤務し、協働司祭から管理牧師となりました。4月5日(月)から前橋聖マッテア教会での勤務が始まりました。
 これまで「オーガスチンとマルコの家」のブログで、高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記してきました。この度の福田司祭の前橋聖マッテア教会への異動に伴い、今日から新たに「マッテアとマルコの家」というブログを開設します。
 次からが本日のブログの記事です。

 本日は復活節第2主日。新町の教会で聖餐式を献げました。先主日、新町は礼拝がなかったので、イースターを祝う礼拝として実施しました。聖書箇所はヨハネの手紙一5:1-6 とヨハネによる福音書20:19-31。説教では、「不信のトマス」の福音書箇所から、復活した主イエス様にあった傷跡にスポットを当てて、目には見えない「傷ついた癒し人」である復活の主がずっと私たちと共にいてくださることを信じ、日々主と共に歩んでいくよう勧めました。この箇所から思い浮かべるマッテア教会のステンドグラスについても言及しました。

   「傷ついた復活の主を信じる」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、主のご復活おめでとうございます。今日は復活節第2主日で、先主日が復活日(イースター)でしたが新町では礼拝がありませんでしたので、本日をイースターのお祝いの礼拝としています。受付に置きましたイースターのお祝いの「み言葉せんべい」をお帰りにお持ち帰りください。
 
  今日の福音書の箇所を簡単に振り返ってみましょう。
『その日、週の初め日、つまり墓が空であることが発見された日の夕方、弟子たちのいる家に、復活したイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言って挨拶されました。イエス様は手とわき腹を見せ、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言いました。さらに、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば罪は赦される」と言いました。
 この出来事があった時には、12人の弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。帰ってきて、仲間の弟子たちからイエス様が現れたという話を聞いても信じられず、こう言いました。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」 と。
 そして、その日から、8日が経った時、すなわち1週間後に、復活したイエス様が再び現れ、今度はトマスの前に立たれ、こう言いました。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 と。
 トマスは思わず、「私の主よ、私の神よ」と言いました。イエス様は「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と言いました。
 この書物が書かれたのは、イエス様が神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエス様の名により命を得るためです。』

 このような箇所ですが、今日は復活した主イエス様にあった傷跡にスポットを当てて考えたいと思います。
 25節で、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」と、頑なに言いました。そして、一週間後、イエス様はもう一度、弟子たちの前で復活されました。復活された主の体には、十字架に釘付けられた傷跡が残っていました。復活したイエス様に傷跡が残っていたのです。
 復活したイエス様の体の中で、どこが一番輝いていたのか、と考えると、十字架の傷跡、そこが一番輝いていたのではないでしょうか?
 傷こそが輝く。傷跡というか、傷そのものが一番輝いていた、というのが、私たちに対する復活の大きな恵みではないかと思います。
 このことで、私はあるステンドグラスを思い浮かべます。それは私が先週の月曜、4月5日から勤務している前橋聖マッテア教会の祭壇の上にあるステンドグラスです。

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 これは復活の主イエス様を描いていますが、右の手のひらにはっきりと釘の傷跡が記されています。そしてそこが輝いているように私には見えるのです。

 聖書に戻りますと、トマスはその傷の輝きを見て、イエス様の復活のすごさを、悟ったのではないでしょうか? 傷の輝きを見て、罪の赦しの恵みを感じた。あるいは自分の疑いが吹き飛ぶような信仰の恵みをいただいた。言い換えれば、悲しい心が喜びに変えられる。そのような体験をトマスはその時にしたのだと思います。
 イエス様のことを「傷ついた癒し人」と言う表現があります。ヘンリー・ナウエンに同名の表題の本があります。

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 英語では「The Wounded Healer」と言います。この本は「牧師のための手引書」ですが、牧会者のお手本はイエス様であり、それはイエス様自身が傷を負ったからこそ傷を負った人の思いを受け止め癒やすことができる、牧師もそのようであることが記されています。それは大きな恵みであります。
 そしてその恵みは、ここにおられる皆さん一人一人にも与えられていると言えます。キリスト者であるということは、この復活の恵みに与ることができる、その恵みをいただいているということであり、「傷が輝く」ということと言えるかもしれません。過去の体験や、今体験されているかもしれない、傷や、苦しみや、辛さや悩み。傷は傷のまま、治っていないかもしれない、今も傷を負っている方もおられるかもしれませんが、私たちがイエス様の復活に与るならば、傷は輝き癒やされ、恵みに変わるということです。これこそ神様の慈しみの大きな神秘であります。その恵みを私たちは、今日かみしめたいと思います。
 
 では、傷が輝くために、私たちに必要なことは何でしょうか? それはイエス様がおっしゃっています。29節です。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と。
 見えないことを信じられるかどうか。見えている傷や苦しみは、「傷ついた癒し人」であるイエス様によってその傷は癒され、恵みがあふれてくるのです。その見えない恵みを信じられるかどうか、ということです。
 傷には癒しが与えられる。罪には赦しが与えられる。私たちの悲しみは喜びに変えられる。その癒し、赦し、喜びを、まだ見てなくても信じて歩むことができるかどうかです。復活した主イエス様による見えない恵みを信じていく中で、その傷は恵みと変えられていくのであります。

 皆さん、私たちは恵みの世界に生きているのです。恵みの世界を信じて私たちが歩むときに、神様の慈しみは私たちの心の中に、生活の中にあふれてきます。私たちは一人一人の生活の中に働いている、神様の恵みの力を見出し信じていきたいと思います。
 私たちは誰一人、イエス様を見たことはありません。でも復活したイエス様はいつも私たちと共にいてくださいます。そしてイエス様は「見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃっておられます。目には見えないけれど「傷ついた癒し人」である復活の主がずっと私たちと共にいてくださることを信じ、復活節に入った私たちが日々主と共に歩んでいくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。