大斎始日 『隠れた神と心を合わせる』
本日は大斎始日です。前橋の教会で「灰の水曜日」の礼拝を捧げました。聖職も含め全員、灰の十字架を額に受けました。

聖書箇所は、ヨエル書2:1-2・12-17、詩編51:1-17、コリントの信徒への手紙二 5:20b-6:10及びマタイによる福音書6:1-6、16-21 。
説教では、大斎始日に灰の十字架のしるしを額にし、大斎節に善行と祈りと断食をする意味を知り、隠れた神と心を合わせ、大斎節をみ心にかなうように過ごすことができるよう祈り求めました。
私は3月末で定年退職となりますので、最後の「灰の水曜日」の礼拝の司式・説教だと思います。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は大斎始日です。大斎節の始まりの日です。そして、「灰の水曜日」とも言われる祝日・斎日です。
私は教育公務員でしたので、平日の礼拝にはほとんど出たことがありませんでした。ただ、「灰の水曜日」の礼拝は、東京出張の帰りに寄った四谷の聖イグナチオ教会で「灰の水曜日」の夕の礼拝があり、額に灰の十字架をつけてもらったことがありました。四谷駅で額に灰の十字架をつけた人を見て「私もそうだった」(礼拝に参列した)と気づいたことを覚えています。教職を退職し入学した神学校の研修で行った韓国の教会や、神学校を出てから赴任した榛名の教会で「灰の水曜日」の礼拝に参列しました。それ以降、高崎やこの前橋の教会でも「灰の水曜日」の礼拝を守ってきました。私はこの3月末で定年退職になり、基本的には主日の礼拝だけをすることになりますので、「灰の水曜日」の礼拝の司式・説教をするのはおそらく本日が最後となると思います。
大斎始日(灰の水曜日)は年間で2つある断食日(もう1つは受苦日)です。古くは大斎節の始まる日、信徒は罪を悔いたしるしとして粗布をまとい、灰をかぶる習慣がありました。それが「灰の」水曜日の由来です。
大斎節とは何でしょう? 大斎節というのは、灰の水曜日から復活日の前日(聖土曜日)までの40日間(プラスその間の主日の数、実際は46日間)を言います。今年は本日、3月5日から4月19日までです。この大斎節は、イエス様の荒れ野での試練に倣い、節制(欲を抑えて慎むこと)と克己(己に克つこと)に努め、自分を見つめ直すという「悔い改めと反省の期間」という意味があります。イースター(復活日)を迎える準備の時でもあります。
この礼拝式文の最初の「勧め」にもありますように、初代教会では、この期間はその年の復活日に洗礼を受ける人や教会の交わりに回復される予定の人々によって守られてきました。そして、8世紀から10世紀にかけて、この40日間を、洗礼志願者のみでなく全会衆が大斎節として守ることとなり、悲しみと悔い改めを表すため、初めの日に、前年のしゅろの主日(復活前主日)に渡されたしゅろを燃やした灰を、聖職と信徒の額に付ける習慣ができたようです。
大斎節は信仰の業の励行に留意します。主イエス様の生涯とその苦難に思いを馳せながら、自らを省みながら、深い祈りの時を持ちます。各種の黙想集等を使ったり「ロザリオの祈り」をするのもいいと思います。また、節制によって手許に残ったお金を特別な献金(大斎克己献金)として献げ、教会や、その他助けの必要な人々のために用います。従前から行われているように、大斎節の間この袋を見やすいところにかけ、折に触れお献げすることもお勧めします。

さて、本日の聖書日課は、毎年共通です。まず、旧約聖書を見たいと思います。
ヨエルの預言で主は言われます。2章12節後半から13節前半です(聖書日課2頁)。
「心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって 私に立ち帰れ―主の仰せ。あなたがたの衣でなく心を裂き あなたがたの神、主に立ち帰れ。」と。
大斎節は悔い改めのときです。悔い改めはギリシャ語では「メタノイア」で、回心とも訳されます。大斎節は回心の時です。回心とは心を主なる神様へ向け直すことです。神様は私たちが心から悔い改めることを求めておられます。
聖書を読むと、たびたび「衣を裂く」という表現に出会います。強い心の動きを表す動作を示しているようです。ヨエル書の言う「衣でなく心を裂き」という表現は、見せかけではない心からの回心、心から悲痛な思いで神に立ち帰ることを意味していると考えられます。そして、悔い改め・回心も神様から与えられる恵みであります。
また、本日の使徒書のコリントの信徒への手紙二の5章20節の「神の和解を受け入れなさい」ということについては、こう考えます。
私たちは主イエス・キリストによって贖いの恵みを受けています。神様の和解は、自分の力、自分の行いによってはできません。ただ主キリストに心を開き、イエス様を通して与えられる神様のいつくしみを受けることによってのみ、和解を受け入れることができるのです。
そして、本日の福音書のマタイによる福音書6章1節以下で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とイエス様は教えています。イエス様は、人の「偽善」を咎(とが)めています。3節で「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とイエス様は教えています。 この箇所では、当時のユダヤ人にとって宗教的な3つの行い、施しと祈りと断食が大事であることが述べられていますが、大斎節の始まりにあたってこのことを意識することは大切であると思います。イエス様はこの3つをする時に、隠れて行いなさいとおっしゃる。施しにしろ祈りにしろ断食にしろ、「隠れてしなさい」とイエス様は強くおっしゃっておられます。
なぜ、隠れてしなければならないのでしょうか? それはここに書いてある理由もそうですが、神様自身の働きが隠れておられるからとも言えます。神様も私たちのために働いておられ、神様も私たちのために祈っておられ、十字架につけられるイエス様の最後の態度ですが、神様は私たちのために犠牲を献げられたのです。イエス様が私たちに施し、つまり恵みを与えてくださる。神様自身が隠れたかたちで働いておられる。だから私たちが隠れて施しや祈りや断食をするということは、隠れた神様に倣うということと言えるのです。私たちが隠れている神様の心に合わせて、施しや祈りや断食をする。つまり神様と心を合わせて行うことに意味があると言えます。それこそが、「宝を天に積むこと」になるのです。
ところで、本日の礼拝では、この後の嘆願に続いて、一人一人の額に棕櫚を燃やした灰で十字架のしるしを刻みます。どうして額に灰の十字架のしるしをするのでしょうか? 十字架のしるしをするときの言葉はこうです。
「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。罪を離れてキリストに忠誠を尽くしなさい」
この前半の「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」は、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様の御言葉(創世記3:19)です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様の御言葉に背いたのです。エデンの園から追い出されたことも、自分の欲望を満たすために、エデンの園で生きていくことができなくなったのです。私たちもこのアダムとエバの遺伝子を受け継いでいます。私たちはちりにすぎないのです。そして、私たちはみな、どんなに長生きしようとも、いつかは必ずちりに帰らなければなりません。この世の命は有限であること、そして自分が死せる存在であることを直視することが、神様と向き合うための初めの一歩です。「私たちはちりにすぎず、必ずちりに帰らなければならない存在である。だからこそ神に立ち帰り、キリストに従うことが大切なのである。」このことを体に、心に刻むために額に灰の十字架のしるしをするのだと言えます。なお、「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい。」はオリジナルの英語の式文では「Remember you are dust, and to dust we shall return.」であり、「return(帰る)」がキーワードであると思います。何に帰るかと言えば「ちりに帰る・神に帰る」ということです。
さらに、大斎節は、イエス様が荒れ野で40日間、断食し祈られたことをおぼえます。イエス様はなぜ荒れ野に行き、断食されたのでしょうか? 荒れ野は、水もなくて食べ物もありません。昼は暑く、夜は寒い所です。イエス様はそういう所で人間としての限界を感じられたことでしょう。そして「人間は、ちりであるから、ちりに帰らなければならない」ということを悟ったでしょう。淡々とした日常生活を続けるだけでは、このような悟りを得ることは難しいと言えます。そうだとすれば、私たちもこのような悟りのために、荒れ野に行かなければならないのでしょうか? そのようなことができれば、それが一番良いかもしれません。しかし、誰でもそのようにはできません。それで初代教会は日常生活を続けながら荒れ野を体験することができる方法を用意しました。それがまさに断食と節制、祈りと善行です。
善行とは、貧しい人への施し等を指します。祈るときは、「奥の部屋に入って戸を閉め」なさいとイエス様はおしゃっています。ユダヤ人は通常、神殿や会堂で立って手を挙げ、人前で祈っていました。人に見られるために祈るのは間違っていると、イエス様は言っておられます。断食については、ご自分の健康の状況等に即して実践してほしいと思います。
皆さん、イエス様は「善行と祈りと断食を形式的にしてはいけない、他人に見せるためにしてはいけない」と教えておられます。私たちキリスト者・信仰者の人生は他人に見せるためにあるのではありません。私たちが善行と祈りと断食などの行いを、隠れた神様と心を合わせてすることに本当の意味があるのです。
本日の代祷で、病人や逝去者のための祈りと自然災害や山林火災、ウクライナやパレスチナの平和等についても祈りますが、一人一人の個人的な思いと共に災害や戦争等にも思いを馳せ、神様による癒やしと解放を求めながら、隠れた神様と心を合わせて、善行と祈りと断食などをこの40日間行っていけると素晴らしいと思います。
なお、週報の、<礼拝の案内>にありますように、私は大斎節中の火曜日から金曜日の午前10時30分~「朝の祈り」と「ロザリオの祈り」を小聖堂で行っていますので、よろしければご参加ください。
私たちがこの大斎節を神様のみ心にかなうように過ごしていくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
大斎節前主日 『祈ること、イエス様に聞くこと』
本日は大斎節前主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、出エジプト記34:29-35、詩編99、コリントの信徒への手紙二3:12-4:2及びルカによる福音書 9:28-36。説教では、「キリストの変容」の箇所を通して、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられていることを深く思い、大斎節を過ごすことができるよう祈り求めました。
本日の福音書の場面を描いた絵画、ラファエロの「キリストの変容」も活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
教会の暦で、本日は「大斎節前主日」で、今週の水曜日、3月5日から「大斎節」に入ります。
本主日の福音書はルカによる福音書9:28からの、いわゆる「変容貌(キリストの変容)」の箇所です。顕現節から大斎節に移ろうとするこの主日は、福音書では毎年この変容貌の箇所が採用されています。それはこの出来事がイエス様の公生涯のちょうど半ばあたりに置かれ、これ以後、今までのガリラヤからエルサレムでの受難・復活へと進展していくことが、イエス様の地上の生の前半を記念してきた顕現節から、後半の部分を記念する大斎節に入っていくのに、重なっているからです。
本主日のインテンション(意向)について、本日の特祷がそれを示しています。別紙の聖書日課の1頁をご覧下さい。先ほどこう祈りました。
「神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上で 御子の栄光を現されました。どうか私たちが、信仰によって 御顔の光を仰ぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように。」と。
ここでは、信仰によって御顔の光を仰ぎ見ること、自分の十字架を負う力が強められること、そして、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられること、という3つのことが祈られています。御顔の光を仰ぎ見るとは、神を求め神との関わりを持ち、神の思いを自分の思いとして生きることと考えられます。神の思いを実践していこうとするとき様々な困難が生じますが、それが「自分の十字架」であり、その十字架を受け入れるためにそれを負う力を強めてくださいと続いて祈るのです。そして「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられること」を願いますが、この栄光とは十字架と復活と考えられます。十字架の栄光から復活の栄光へと歩まれたイエス様と同じ姿に変えられますように、ということです。つまり、イエス様が神の思いの実現のために生きられたように、私たちもその姿に倣って生きていくことができますようにとの祈りであります。
これらのことを、大斎節に向かうとき、心に留めておくことが大切なのだと思います。
本日の福音書を振り返ります。
『イエス様は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子を連れて、祈るために山に登られました。そこで、祈っていると、イエス様の顔の様子が変わり、衣は白く光り輝きました。その光景は、イエス様が神の栄光をお受けになったことを表す姿で、イエス様が天的存在であることを示しています。見ると、モーセとエリヤがイエス様と語り合い、2人はイエス様がエルサレムで遂げようとしている最後のことについて話していました。ここで「最後」と訳されたギリシャ語は「エクソドス」です。この言葉は出エジプトを意味し、「出発」とも訳すことができます。ここではイエス様が受ける受難と復活のことです。モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、この3人が語り合うとは、イエス様の受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示していると考えられます。
この場面を描いた絵画があります。バチカン美術館にあるラファエロの「キリストの変容」です。この絵画のオリジナルは上部にイエス様の変容貌の箇所、下部にこの箇所の後のエピソード(汚れた霊に取り憑かれた少年を癒やす奇跡)がありますが、今回はその上部だけを示します。

この絵では太陽のように輝く様子のイエス様を中心に右側にモーセ、左側にエリヤが描かれています。3人は宙に浮く形で表現され、この出来事の神々しさが伝わってきます。その下には、左から、ヤコブ、ペトロ、ヨハネが眩しさで目を覆い身を伏せています。
この有様の素晴らしさを目の当たりにして、ペトロは思わず言いました。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」(33節)と。 ペトロが幕屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからと考えられます。ちなみにここで「幕屋」と訳されている言葉(スケーネー)は、遊牧民が寄留地での住まいとする「幕屋・仮小屋」を表します。この前の新共同訳聖書では「仮小屋」、口語訳では「小屋」と訳されていましたが、「幕屋」が原文に一番近いと考えます。英語の聖書(NIV)では「Shelter」(「避難所」または「雨風などをしのぐ住まい」)とありました。
さて、そのうちに、雲が彼らを覆いました。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。すると、「これは私の愛する子。私の選んだ者。これに聞け」(35 節)という声が、雲の中から聞こえました。声の主はもちろん父なる神様です。「私の愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエス様が洗礼を受けられた時に天から聞こえた声と同じです(ルカ3:22)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエス様は、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も「神の愛する子」としての道であることが示されたのです。さらに「私の選んだ者」という言葉が加わっています。それはイエス様は、神様から選ばれ、特別な使命や権威が与えられているということです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を「耳で聞く」という意味ではなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18:15等)。この声がしたとき、そこには、イエス様のほかには誰もいませんでした。「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時、誰にも話」しませんでした。』
このような箇所でした。
この箇所を通して、イエス様が大切にしておられること、そして、神様が私たちに求めておられることは何でしょうか?
冒頭の28・29節にこうあります。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。」
この話とは、この前の9:21-27において、イエス様が弟子たちに御自身の死と復活を予告したことを示します。その8日後に、イエス様は3人の弟子を連れて祈るために山に登られたのです。ここの「祈る」の原文のギリシャ語は「プロセウコマイ」です。この言葉は直訳すれば「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分を」ということなのだと思います。つまり、「祈る」ということは「神様の前に自分を置く」ことです。
イエス様の地上での歩みは受難と死に向かう道でした。イエス様は祈りの中で、すべてを神様に委ねていたのではないでしょうか? この箇所で言えば、だからこそイエス様の姿は祈るうちに光り輝いたのだ、と言えるかもしれません。これは、十字架の死と復活が予告された後、山の上で、その衣が白く光り輝き、人間となられたイエス様が、神の栄光をお受けになったという出来事です。その出来事の直接の引き金になったのが「祈り」であり、それこそイエス様が大切にしておられることだと言えます。
本日の箇所の最後にあたる34-36節では、雲が現れ彼らを覆い、雲の中から「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」という声が聞こえます。雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲の中からの声は、もちろん神様の声です。それが、弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。既にお話ししたように、聖書における「聞く」はただ声を耳で聞くというだけでなく、「聞き従う」ことを意味します。受難・復活・昇天へと進む神の子、救済の業を行うため神様が選んだ者に私たちも「聞き従わなければならない」ということであり、それこそ神様が私たちに求めておられることだと思います。
イエス様が大切にしていることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることはその「イエス様に聴く」ことだと言えます。なお、「祈る」と訳した「プロセコウマイ」には“聴く”という意味もあり、キリスト教の「祈る」目的は「神様やイエス様の声を聴く」ということです。言い換えれば「祈りは神様やイエス様の声を聴くこと」と言えると思います。ぞしてその祈りは、私たちが神様の前に身を置き、神の思いを自分の思いとすることができますようにという祈りです。
大斎節に神様やイエス様の声を聞くことの一助となるのが、北関東教区と東京教区の聖職・信徒が執筆した「2025年み言葉と歩む大斎節」という黙想集です。

これを大斎始日から毎日読み黙想することで、神様やイエス様の声を聞きながら大斎節を過ごすことができます。この冊子を既に希望された方は、受付にありますのでお取りください。これから希望される方は、申込用紙にお名前をお書きください。
皆さん、大斎節が近づきました。今度の水曜が大斎始日(灰の水曜日)です。
イエス様が大切にしておられることは「祈り」であり、神様が私たちに求めておられることは「イエス様に聴き従う」ことです。これから始まる大斎節の期間、祈りを大切にし、神様が「これに聴け」と命じられてことを深く思い、イエス様のみ跡を黙想しつつ、この期節を過ごすことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
『讃美歌「小さなかごに」に思う』
先主日、説教ではテーマと関係する讃美歌第二編第26番「小さなかごに」を紹介し、本田路津子のCDを聞いてもらいました。
讃美歌「小さなかごに」を初めて聞いたのは、15年以上前の「神奈川県キリスト教学校合同フェア」ででした。当時、息子が横浜市内のある女学校に勤めていた関係でこのイベントに参加し、アトラクションでその学校の聖歌隊がこの曲を歌い「いい賛美歌だな」と思ったことをおぼえています。
https://www.youtube.com/watch?v=QQPYBCyQQ6o
この賛美歌はプロテスタントの教会や日曜学校で行っている「花の日礼拝」等で歌われているようでした。
この曲については、この本『大塚野百合著「子どもの賛美歌ものがたり-イエスさまいるってほんとかな」』に取り上げられています。

讃美歌「小さなかごに」は、小さな優しい業(わざ)をも神様は用いて人々の人生を明るくしてくださる、という歌です。原曲名は「Little Deeds(小さな行い)」です。以下は、大塚野百合のこの本から得た情報です。
作詞者はアリス・ジーン・クリーター(1871-1926)で、英国のマン島で生まれ、1880年前後に家族とともに米国へ移住し、オハイオ州クリーヴランドに定住しました。その後、 1915 年頃までニューヨーク市で学校教師を勤めました。彼女は日曜学校用の讃美歌を200曲以上作詞し、讃美歌496番「うるわしの白百合」も彼女の作詞です。
作曲者はグラント・コルファックス・テュラー(1869- 1950)で、彼は米国コネチカット州ボルトンで生まれました。彼の父親は、南北戦争で負傷し身体障害者となり働くことができず、母親は彼が2 歳のときに亡くなったため家族は離散し、教育や宗教的訓練も受けられないまま羊毛工場や靴屋の店員として働きました。彼は19歳の時、コネチカット州ウォーターベリー近郊でのキャンプ集会でキリストに出会います。それから彼はニュージャージーのハケッツタウン・アカデミーで学んだ後、メソジスト教会の牧師に任命されました。悲しみと苦難の人生を経験した彼は、彼の歌と詩で何百万人ものアメリカ人に喜びをもたらし続けました。
「小さなかごに(Little Deeds)」の原語歌詞を示します。
1. Just a dainty basket Filled with autumn bloom,
Yet it brought the sunshine To a darkened room;
All the week seemed brighter For those shining hours,
Laden with the sweetness Of the smilling flow'rs.
※ Chorus
Let us all be helpful; Let us live to bless;
Little deeds of kindness Magic pow'r possess.
Scatter beams of sunshine, O'er the darkest way;
Soon the midnight gloom shall change To brightest day.
2. Just a sweet birdcarol Trilled upon the air,
Yet a heart was lightened Of its load of care;
Like a heav'nly message Seemed that little strain;
Sunshine, hope and courage All came back again;
※ Chorus
3. Just a glad "good Morning," On a day so drear,
Yet as if by magic Skies seemed bright and clear;
And the one who heard it Passed along her way,
Smilling at the prospect Of a happy day.
※ Chorus
大塚野百合の訳は以下のようです(P75・76 からの転載)。
1. 可愛いかごに秋の花を入れて
暗い部屋に置いたところ、
日の光が部屋にみちて、
その一週間心が明るかった。
微笑んでいる花の美しさに包まれた
素敵な時間をすごすことができて。
(折り返し)
皆で人の役に立つように生きよう。
皆で人を祝福するように生きよう。
小さな親切な行いは
魔法のような力がある。
太陽の光が
最も暗いところを照らすようにしよう。
そうすれば夜中の闇は消えて
最も明るい日が訪れるのだ。
2. 美しい小鳥の鳴き声が響くのを聞くだけで、
心にたまっている悩みごとが軽くなる。
小鳥の鳴き声が天国からの訪れのように響き、
太陽の光、希望と勇気が戻ってくる。
3. 憂鬱な日に、
楽しそうな 「おはようございます」 を聞くと、
魔法にかかったように
空は晴れて、澄んで見える。
それを聞いた人は
今日は幸せな日になりそうだ、と思って
微笑んで道を歩いていた。
(折り返し)の「Scatter beams of sunshine, O'er the darkest way ; Soon the midnight gloom shall change To brightest day.(太陽の光が最も暗いところを照らすようにしよう。そうすれば夜中の闇は消えて最も明るい日が訪れるのだ。)」がこの賛美歌のテーマではないでしょうか?
神様は「悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせ」るお方です。その神様に倣い、その力を神様からいただいて、暗いところを照らしたいと思います。そしてそれは、「小さいわざ(Little Deeds)」として行われます。小さなかごの中の花をいただいたり「おはよう」というちょっとした言葉かけが、私たちを幸せにしますが、それをさせるのは、全能の父なる神様なのです。
この賛美歌及びそのテーマから、次の聖句を思い浮かべました。ヨハネの手紙一 4章7節です。
「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。」
私たちが愛すことができるのは、神様がまず私たちを愛し、その愛が神様から私たちに注がれるからです。その愛を受けた私たちは、互いに愛し合うことができるのであります。そうできるよう祈り求めたいと思います。
讃美歌「小さなかごに」から、このようなことを思い巡らしました。
顕現後第7主日 『敵を愛し、慈しみ深くなる』
本日は顕現後第7主日です。午前は高崎・午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。聖書箇所は、創世記45:3-11・15、詩編37:1-11・39-40、コリントの信徒への手紙一15:35-38・42-50、ルカによる福音書6:27-38 。説教では、イエス様が「あなたがた」に言った「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」等の言葉の意味することを知り、イエス様の教える「敵をも愛する」「慈しみ深くなる」という愛に生きることができるよう祈り求めました。
本日のテーマと関係する讃美歌第二編26番「小さなかごに」を本田路津子のCDで聞き、活用しました。
本日の新町聖マルコ教会のための説教原稿を下に示します。
め
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第7主日です。当教会では前回の礼拝後、堅信受領者総会が行われました。週報の「報告・連絡」にありますように2024年の諸報告及び2025年予算案が承認されました。また、11月第2日曜の礼拝後に教会墓地で「逝去者記念の式」を行うことが決議されました。2025年の新町聖マルコ教会が主のみ守りのうちに歩み、祝福がありますよう祈ります。
さて、本日の福音書を振り返ります。ルカによる福音書6:27-38、先週の続きの箇所で、いわゆる「平地の説教」(ルカ6:20-49)の中の言葉です。この箇所は5つの部分から成っています。①27-30節、②31節、③32-35節、④36節、⑤37-38節です。
最初に27-30節です。最初の27節のみ言葉「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」から、まず、圧倒されてしまうのではないでしょうか? これは普段私たちが考える常識とはかけ離れ、無理難題のようにも思われます。ここでの「敵」は教会の迫害者を指していると考えられます。なぜなら、27節の後半以下で、敵が「あなたがたを憎む者」「呪う者」「侮辱する者」と言い換えられているからです。そのような敵に「祝福を祈る」ことが「愛する」ことなのです。
これらのみ言葉の前に「聞いているあなたがたに言っておく」とイエス様はおっしゃられました。これは、イエス様の言葉を聞く、そのために集まっている、その「あなたがた」に「言っておく」ということです。であれば、主日に、神の言葉、イエス様の言葉を聴こうとして集まっている私たちにも、イエス様は語りかけておられると言えます。
愛はさらに積極的な行動を生み出します。頬を打つ者にはほかの頬をも「向け」、上着(オーバー)を取る者には下着(中に着るもの)をも「拒まず」、求める者には「与え」、奪う者から「取り戻そうとしてはならない」(29~30節)、愛は「与えること」であります。
なお、「敵を愛せ」という言葉は、神の国の到来を告げるイエス様の教えの一部であり、「神は恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」(35節)、「悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせ」ます(マタイ5:45)。「敵を愛せ」とは、敵をも愛せる神の支配が到来したという呼びかけであり、その支配に人を招く福音です。
続いて31節で、イエス様は「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と語られます。これは黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれるものです。イエス様は「自分がされて嬉しいことを他の人にもしなさい」と教えているのです。これは神との関わりに基づく勧めであります。
次に、32-35節です。ここの32-34節は、どの節の文章も同じ構成(条件文→修辞的疑問文→理由文)です。愛してくれる者を愛するとか、よいことをしてくれる人によいことをするとか、返済を期待して貸すということなら、「罪人たち」も実行しています。ここでの「罪人たち」は神を信じられない人のことです。
35節前半で、イエス様はふたたび「敵を愛しなさい」とおっしゃっています。その後に、この要求の根拠となる言葉があります。それが35節後半です。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」と。「いと高き方」とは神様のことです。神様は「悪人にも太陽を昇らせ、正しくない者にも雨を降らせ」るのです。ここの「たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」の原文を直訳しますと、「あなたがたにはたくさんの報いがあるでしょう。そして、あなたがたはいと高き方の子となるでしょう」と二人称・複数・未来形で語られていました。
イエス様は私たちにこうおっしゃっているのではないでしょうか。「敵を愛しなさい。神様は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いのだから、あなたがたもその愛をもって慈しみ深くなりなさい。神様はあなたがたに恵みを与え、あなたがたは神の子となるでしょう」と。
そして、36節で「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」とあります。これは、あなたがたが慈しみ深いのは、父なる神が慈しみ深いからということであります。神へ近づき、その愛に触れるとき、私たちは敵を愛することが可能になり、その力が与えられるのです。
最後に37-38節です。ここの37-38節前半では、否定の命令形を二度(「裁くな」「罪に定めるな」)述べた後に、肯定の命令形を二度(「赦しなさい」「与えなさい」)と述べています。命令形の後に、それぞれ「そうすれば」で始まる平叙文が続きますが、そこでの動詞はすべて受動態です(「裁かれない」など)。これらの受動態は神の行為を婉曲的に示す受動態(神的受動態)ですから、裁かず、罪に定めず、赦し、与えるのは「神」であります。神の近くにいる者は人を裁かずに、赦し、与えることができます。人を裁かずに赦せるかどうかは、自分と神との距離を示す物差しとなっています。つまり、これらのことができないのは神と自分との距離が離れているからであり、これらのことができるなら、その人が神の近くにいる証であるということです。38節後半以下では、あなたがたが量られる「量り」がテーマになっています。恵みを与える神は、量り(枡)の中味を「詰め込み」満たし、さらに「揺すって」すき間をなくし、そこに「溢れる」ほどに入れてくれるのです。「与える」者は、それほどの豊かさを「与えられる」のです。
このような箇所でした。
イエス様は私たちに「敵を愛しなさい」「あなたがたも慈しみ深い者となりなさい」と教えておられます。そのようなことが私たちにできるのでしょうか?
そのことについては、本日の使徒書(コリントの信徒への手紙一 15章)が参考になります。ここでは、最初の人アダムと最後のアダム(つまり、イエス・キリスト)が登場します。45節にこうあります。『「最初の人アダムは生きる者となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となりました』と。最初の人アダムは「人間一般」の意味で用いられています。そうしますと、パウロはこう主張していると思われます。「人間は最初の人アダムの子孫であるから、地上の命を生きる肉なるものでもあるが、最後のアダムであるイエス様が与える聖霊によって天上の命と関わりをもつ霊的な存在になり得る」と。私たちはイエス様の与える聖霊によって新たな霊的な力で生きる人間になることができ、それにより通常では難しい「敵を愛し、慈しみ深くなる」ことができるのだと考えます。
そして、それは結果として、それぞれの場所で「憎む者に親切に」するという行動として示されるのであります。
福音書前に歌った聖歌第493番の1節に「愛のわざは 楽しきかな 愛の結ぶ実は 永遠に残る」、そして6節に「愛の神よ 愛をたまい 愛の人とせよ とこしえまで」とありますが、私たちが愛のわざを行うことができるは、愛の神から愛をいただくからなのです。
そのことは、この後聞いていただく讃美歌第二編第26番「小さなかごに」で明確に示されています。受付で取っていただいたこの讃美歌の楽譜をご覧になりながら、この本田路津子のCDでお聞きください。

この讃美歌「小さなかごに」は多くのミッションスクールで愛唱されています。立教女学院では小学校の入学式で必ず聖歌隊がこの曲を歌っているそうです。お聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=rZxSBSGui0w
1.ちぃさなかごに 花を入れ さびしい人に あげたなら
へやにかおりが 満ちあふれ くらい胸も はれるでしょう
(おりかえし)
あいのわざは ちぃさくても かみのみ手が はたらいて
なやみのおぉい 世のひとを あかるくきよく するでしょう
2.「おはよう」とのあいさつも こころをこめて 交わすなら
その一日 おたがいに よろこばしく 過ごすでしょう
(おりかえし)
この曲の(おりかえし)に「あいのわざは ちぃさくても かみのみ手が はたらいて なやみのおぉい 世のひとを あかるくきよく するでしょう」とありますが、私たちが愛のわざを行うことができるのは、神のみ手が働くがゆえなのです。それは霊的な力です。
皆さん、イエス様は「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい」そして、「慈しみ深い者となりなさい」と教えておられます。それは人間の力では難しいですが、神様は聖霊によって私たちを、それをなすことができるよう霊的な力で生きる人間にしてくださいます。この敵をも愛する優れた賜物を私たちに与えてくださるよう祈りましょう。私たちキリスト者が慈しみ深い者になれるのは、父なる神が慈しみ深いからです。神がイエス様を通して示した慈しみ深い愛を見つめるとき、私たちは新しい生き方へと向かう者となるのです。
私たちが、「敵をも愛する」「すべての人に慈しみ深くなる」、そのような愛に生きることができるよう聖霊の導きを祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
『佐久間神父の絵本「ぼく うれしかった」に思う』
チャプレンをしている玉村のマーガレット幼稚園(認定こども園)で、先日2月12日(水)に誕生会があり、誕生礼拝を捧げました。
そこで読んだ佐久間彪神父の絵本「ぼく うれしかった」と、その後の子供たちの反応から大きな示唆を得ましたので、そのことを記すこととします。
当初計画した案は以下の通りです。
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2025年2月12日 マーガレット幼稚園誕生会 「ぼく うれしかった」
○ テーマ
・イエス様は私たちをよく知っていて大切にし、迷子になった連れ戻してくれる羊飼いであることを知り、イエス様に信頼して生きていこうとする心を育む。
○ 中心聖句
『ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。』(マタイによる福音書18:12)
1 導入
○ 誕生者
<一人一人の誕生者の頭の上に(距離をおく)手を置いて、名前を呼び祝福する>
今日は2月の誕生会です。毎日寒いですね。皆さんが着ているセーターやカーディガンは何でできているか知っていますが? それは羊さんの毛です。
羊さんの手遊び歌を知っていますか? だいぶ前にしましたが覚えていますか? やってみましょう。
○手遊び歌「もこもこひつじさん」
1 もこもこもこもこひつじさん もこもこもこもこひつじさん
うでももこもこ うでももこもこ
おなかももこもこ おなかももこもこ
あったかいね あったかいね
2 もこもこもこもこひつじさん もこもこもこもこひつじさん
あたまももこもこ あたまももこもこ
ほっぺももこもこ ほっぺももこもこ
あったかいね あったかいね
3 もこもこもこもこひつじさん もこもこもこもこひつじさん
せなかももこもこ せなかももこもこ
おしりももこもこ おしりももこもこ
あったかいね あったかいね
2 絵本「ぼく うれしかった」(井口文秀 絵 佐久間彪 絵 月刊カトリック 保育絵本 こどものせかい2024年11月号)

今日はこの絵本を読みます。
(園児の様子を見ながら、ゆっくり丁寧に心を込めて読む。)
<内容>100匹の羊のうち1匹がいなくなったら…。迷子になった子羊の不安と、羊飼いに見つけられたときの喜びが、美しい色彩とやさしい言葉で描かれます。私たちへの神様の愛に気づく、新約聖書のたとえ話の絵本。
3 適応
○ 振り返り
●ちっちゃな羊は何をするのが好きでしたか?・・・元気よく遊ぶのが好き。
●楽しく遊んでいた羊はどうなりましたか?・・・迷子になりました.。仲間からはぐれてしまいました。
●そのときの子羊はどんな気持ちだったでしょうか?・・・さびしい。怖い。不安。etc.
●その後、羊はどうなりましたか?・・・羊飼いのおじさんが見つけてくれました。
●おじさんに見つけてもらった羊はどんな気持ちだったでしょうか?・・・とてもうれしかった。ほっとした。
●仲間の羊はどうしましたか?・・・気がつくと走ってきました。
●迷子の羊を見つけることができたおじさんはどんな気持ちでしたか?・・・ほっとした。うれしくてたまらない。etc.
●どうして羊飼いのおじさんは迷子の羊を見つけることができたのでしょうか?・・・この羊のことをよく知っていたから。この羊のことを大切に思っていたから。
○ この羊飼いは誰でしょう?・・・イエス様です。 では、羊は?・・・私たち一人一人です。
* イエス様は私たち一人一人のことをよく知っていて、私たちを大切に思っています。そして、もし迷子になったら捜し出し、連れ戻してくれます。
4 祈り
父なる神様、私たちを2月の誕生会のために集めてくださりありがとうございます。お誕生日を迎えたお友達をお祝いしてください。
私たちは羊、そしてイエス様は私たち一人一人のことをよく知っていて、迷子になったら捜し出し、連れ戻してくれる羊飼いです。
神様、ありがとうございます。そして、私たちがいつもイエス様に従い「神様のよい子ども」として生きることができるようお導きください。
イエス様によってお願いいたします。アーメン
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実際の様子はこのようでした。
最初にホール祭壇のイエス様の前で、2月の誕生者一人一人の頭の上に手を置いて、名前を呼び祝福しました。
次に、当日の絵本に羊が登場するので、「もこもこひつじさん」の手遊び歌をしました。久し振り(5年くらい前)にした手遊びでしたが、皆喜んでしていました。
そして、佐久間彪神父の絵本「ぼく うれしかった」を読みました。
本文は以下の通りです。
「ぼくは ひつじ ぼくは ひつじなんだけど
あーあ なぜだか こんなに ちっちゃな ひつじなんだ
でもぼく とんだり はねたり げんきよく あそぶのが だいすき
それで よく しっぱいしちゃうんだ
なかまのひつじがいっぱいいるけど ぼくみたいにちっちゃいのはいない
ひつじかいのおじさん やさしいけど ぼくのこと忘れちゃうかもしれない
しんぱいだよ ぼく
でも このあいだ からすと あそんでかわに おっこちたとき
おじさんは はしってきて たすけてくれたっけ
だけど ぼく ちっちゃすぎて やっぱり わすれられちゃいそう
きょうは ちょっと とおいところまで おじさん ぼくたちをつれていく
おいしい くさの あるところにね みんなみたいに はやく あるけないよ
ぼく こまっちゃう
どこまで いくんだろ いわだらけの みち
つかれちゃった
ともだちのからすが 「がんばって」って いってくれてるけど
おじさーん ぼくを おいてかないでねー
ついた ついた やっと ついた
わあ おいしそうなくさ きれいなはな すずしいかぜ
とってもきもちがいい やまのうえ
おなかは いっぱいになったし さあ あそぶぞ
たのしいな おもしろいな はしれ はしれ はしれ
あれ ここは どこだろう
おじさんも なかまのひつじも みんないない
おひさまが しずんでいく ともだちの からすも かえっていく
ぼく どうしよう
もう もうあるけないよ
くらくなってきた あぁ あしがいたい
さびしい みんな どこに いるの
ひつじかいのおじさん きっと ぼくのいないこと きがつかないだろな
もう おうちに かえれないのかな
さむいなあ くらいなあ こわいなあ
おやっ あしおとが きこえる
おじさんだった おじさんだった
おじさんが ぼくを みつけに きてくれたんだ
おじさんの かたに のっかって ぼくは ねむっちゃった
あっ なかまの ひつじだ
みんな ぼくに きがつくと はしってきた
まっててくれたんだね
おじさん それから みんな みんな
ほんとに ありがとう
ぼくは ねむってる
ゆめのなかで ひつじかいの おじさんが あるいてる
ちっちゃな ぼくを さがしてる
しんぱいそうに あるいてる
とうとう ぼくを みつけた
おじさんは うれしどう
やさしい かおが わらってる
ぼくは おじさんの かたの うえ
ぼく うれしかった
ぼく うれしかった」
子供たちは小さい子も良く集中して絵本を見て、私の話を聞いていました。
絵本を読み終わり、振り返りの応答の後、「どうして羊飼いのおじさんはこの羊を見つけることができたのでしょう?」と聞くと、「足跡があった」とか「臭いで分かった」等の予想外の答えがありました。
「この羊飼いのおじさんは誰でしょうか?」と聞くと「神父様!」という答えがありました。私はハッとしました。しかし、表情には出さずに「みんなのことが大好きで見守ってくれるのは?」と聞いたら「イエス様」「神様」という答えが返ってきました。
「この羊はだれでしょう?」と聞くと、なかなか答えが返ってきませんでした。仕方がないので「この羊はみんなです。イエス様はみんなのことが大好きで、みんなのことをよく知っているから、迷子になったら必ず探し出してくれます」とまとめました。
最後に、祭壇の十字架に向かい跪き、お祈りをしました。子供たちも跪いて、私が「~イエス様によってお願いいたします。アーメン」と言うと「アーメン!」と声を合わせて大きな声で祈り、誕生会(誕生礼拝)が終了しました。
佐久間彪神父の絵本「ぼく うれしかった」を読み、子供たちに「この羊飼いのおじさんは誰でしょうか?」と問うと、「神父さん!」という答えがありました。この答えは私に、私自身のこれからの在り方を考えさせました。
私はこの3月末日で教役者として定年で退職となります。前橋の牧師や高崎・新町の管理牧師は、その任が解かれます。しかし、職位としての司祭は亡くなるまでずっと続き、いや、この世を去っても御国で大祭司であるイエス様と共に聖餐式を捧げると思っています。
退職後は、これまでは「ぜひ教会に来てください」と言って教会で様々な活動をしてきましたが、これからは自分がもっとこの世界に出かけて行って、ニーズのある人に寄り添ったり、困難や生きづらさを抱えている人を支援したりしたいと思いました。ウェスレーが「私の教区は世界である」と言ったことを思い浮かべます。
今、私は羊飼いである自分を自覚し、自分の羊はもっと広い世界にいるので現場に出かけて行き、私ならではの経験と賜物を生かした奉仕をしたいと願っています。その具体的内容は、幼児教育にもっと力を入れ、障がい者施設等でのミュージック・ケアを増やし、インクルーシブ教育の推進やその社会実現に向けての活動等です。障害者のアート活動や交流等の支援もしたいと思います。退職まであと1ヶ月少しありますが、祈りながら自分に与えられた使命について考えたいと思います。
顕現後第6主日 『幸いと災い、2つの道』
本日は顕現後第6主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。礼拝後には堅信受領者総会を行いました。すべての報告・議案が承認され、2025年度の宣教聖句は信徒の提案による「一人よりも二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。」(コヘレトの言葉 4:9)に決定しました。

本日の聖餐式の聖書箇所は、エレミヤ書17:5-10、詩編1、コリントの信徒への手紙一 15:12-20及びルカによる福音書 6:17-26。説教では、神は私たちに「幸いと災い」という2つの道を示され、「神に信頼しイエス様を求めることによって幸いとなる」ことを知り、イエス様に従い神とつながって生きることができるよう祈り求めました。
本日のテーマと関係する山野繁子司祭の作詞の聖歌364も活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第6主日です。福音書箇所はルカの6章17節から26節です。4つの幸いと4 つの災い(以前の訳は「不幸」)をイエス様が述べている箇所です。
ここでイエス様が語られている教えは、マタイによる福音書5章~7章に記されている有名な「山上の説教」と呼ばれる教えに似ています。ルカによる福音書の方がマタイの「山上の説教」に比べると全体的に短く省略された印象があります。また、この教えをイエス様が話された場所が違っています。マタイによる福音書の方は山の上で語られました。一方ルカによる福音書の方は17節にありますように、山から降りて平地での出来事として書かれています。そこで「平地の説教」と呼ばれます。
これはどちらが正しいのか、と考える必要はなく、どちらもその通りだと考えるべきと思います。イエス様は3年半に渡ってこの世界で神の国の教えを宣べ伝えられましたので、同じような教えを何度も人々にお話しになったと考えられます。ですからマタイもルカも、それぞれ違った時にイエス様がお話しになったことを記録していると言えるのではないかと思います。
本日の福音書を振り返ります。ここは3つの部分に分かれています。①17~19節、②20~23節、③24~26節です。
まず17~19節です。
ここに至る文脈の確認をします。6章12・13節で、イエス様は、山に行き、夜を徹して神に祈られ、朝になると弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選んで、使徒と名付けられました。
それから本日の箇所に入り、イエス様は使徒たちと山を下り、平地にお立ちになりました。そこに大群衆がユダヤ全土や異邦人の地である海岸地方から押し寄せ、イエス様は彼らを癒やしました。この箇所は、「平地の説教」の導入です。
続いて20~23節です。
この「平地の説教」の冒頭で、イエス様は「貧しい人々は幸いである」とおっしゃっています。
この言葉は、私たちをたいへん困惑させます。なぜなら、「貧しい」ということが普通は「幸い」には思えないからです。貧しいことは災い、または不幸なことと私たちは思うではないでしょうか?
「貧しい人々」はギリシャ語では「プトーコイ」で、これは「プトーコス」という言葉の複数形です。この言葉は単に経済的に苦しい人というのでなく、貧しいがゆえに神に頼るしかなく、「ひたすら神に信頼して生きていこうとする人」のことです。その人々こそ幸いであると、イエス様はおっしゃっているのです。
20節の前半に「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた」と書かれています。イエス様は弟子たちを見て言われたのです。ここの「弟子たち」というのは、12弟子だけではなく、イエス様に従っていた人々のことです。そして「貧しい人々は幸いである」と続きますが、この言葉は以前の口語訳聖書では「あなたがた貧しい人たちは幸いだ」となっていました。原文のギリシャ語でも「あなたがた」という言葉が入っています。そうするとこの「貧しい人々」というのは、貧しい人々一般を指しているのではなく、今イエス様を求めて集まってきている貧しい人々、ということになります。あるいは、貧しい人々が幸いなのは、イエス様を求めるようになるからだ、と言うこともできます。いずれにしても、イエス様を求め、イエス様の所に来ることによって、貧しい人が幸いな人となるということです。
そしてなぜそのように幸いになるかと言えば、「貧しい人々は幸いである」の続きに述べられています。「神の国はあなたがたのものである」と。ギリシャ語原文ではこの2つの文の間に「なぜなら~だから」という意味の接続詞が入っています。イエス様は、「神の国が、その人たちのものであるがゆえに、貧しい人々は幸いである」とおっしゃっているのです。これは祝福の言葉です。神様によって祝福されるということです。「神の国」とは「神の支配」とも訳せます。「神様が王として恵みと力を持って支配されること」です。その「神の国はあなたがたのものである。」とイエス様はおっしゃっています。ここは現在形です。つまり「神の国(the kingdom of God)」、「神が王として支配される状況」が始まり実現される。それゆえに幸いであるとおっしゃっているのです。
次の「今飢えている人々」についても同じです。ここでは「あなたがたは満たされる」と言われています。この動詞は未来形です。また、ここが主語が示されていない受動態(神的受動態)であることを考慮すれば「神様の恵みで満たされるでしょう」ということだと考えられます。その次の「今泣いている人々は、幸いである」についても、「あなたがたは笑うようになる」の動詞は未来形なので「神様の慰めが与えられて笑うようになるでしょう」ということです。
ですから、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々は、もちろんそのままでは幸いではありませんが、イエス様によって幸いへと変えられる。「イエス様を求めることによって幸いとなる、神の祝福がある」ということです。
22・23節では「イエス様を信じるがゆえに迫害されるが幸いである」と言っています。なぜなら、「イエス様も弟子たちも迫害を受けたが、その後、祝福と栄光を受けられた。だから、私たちもイエス様と同様にそれを受けることができる」というのです。
最後に24~26節です。
24節の冒頭にこうあります。
「富んでいる人々、あなたがたに災いあれ」
「災いあれ」と訳したギリシャ語「ウーアイ」は、苦痛や悲嘆を表す感嘆詞として「悲しいかな・ああ哀れだ」を意味します。
弟子や群衆の一人一人の心には、神の支配に信頼し貧しく生きる「あなたがた」と、富に憧れて快適な生活を捨てきれない「あなたがた」とが共存しています。
「富んでいる人々」「今食べ飽きている人々」「今笑っている人々」「皆にほめられる人々」に「災いあれ」と言われます。これらの人々は、20~22節で「幸いである」と呼びかけられた人々とは反対に、神の支配があまねく行きわたる終わりの日に、神の救いにあずかれないからである。今の状況に心を奪われ、真の幸いと喜びをもたらす神に心を閉ざしているがゆえに、イエス様は彼らに「災いあれ」と言うのです。
このような箇所でした。
この箇所では「幸いと災い」という2つの道が対比され、私たちは「あなたはどちらの道を歩みますか?」と問われています。
本日の旧約聖書エレミヤ書17章でも、5節の「呪われよ、人間を頼みとし 肉なる者を自分の腕として その心が主から離れる人は。」と7節「祝福されよ、主に信頼する人は。 主がその人のよりどころとなられる。」が対比されています。「呪われよ」と「祝福されよ」の対比です。
また、本日の詩編第1編でも、1・2節の「幸いな者 悪しき者の謀に歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし その教えを昼も夜も唱える人。」と4節の「悪しき者は違う。 風が吹き払うもみ殻のよう。」が対比されています。こちらは「幸いな者」と「悪しき者」の対比です。
「神様にひたすら信頼する人、主の教えを昼も夜も唱える人」を、神様は祝福しておられるのです。
貧しさや苦しみが人を幸いにするのではありません。貧しさや苦しみの中に働く「神の支配」が人を幸いにするのです。このことが確かな真理であるのは、イエス様自身がこの神からの幸いを生き、励ましを語っているからです。
そのことをよく表しているのが、先ほど福音書前に歌った聖歌364「貧しい人にキリストは呼びかける」です。(以下のURLで高木喜彦さん(彦根聖愛教会オルガニスト)の演奏が聞けます。https://www.youtube.com/watch?v=4h43P8wWjSA )
歌詞を読んでみます。
1 貧しい人に キリストは呼びかける
あなたは神の力を受けて
豊かさを分かち合う人になる
2 悲しむ人に キリストは呼びかける
あなたは神の希望を受けて
喜びを分かち合う人になる
3 寂しい人に キリストは呼びかける
あなたは神の光を受けて
交わりを分かち合う人になる
4 怒る人にも キリストは呼びかける
あなたは神の正義を受けて
まぼろしを分かち合う人になる
この聖歌は、昨年1月に82歳でこの世を去った山野繁子司祭の作詞です。山野先生は日本聖公会における二人目の女性司祭でした。この聖歌364番の各節の2行目にある「神の力」「神の希望」「神の光」「神の正義」は、「神の支配」の具体的な姿と言えると思います。この「神の支配」が、人を幸いにするのです。
皆さん、神様は私たちに「幸いと災い」という2つの道を示され「どちらの道を歩みますか」と問うています。「神様にひたすら信頼する人、主の教えを昼も夜も唱える人」が神様から祝福されるのです。
イエス様は、「貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々」が幸いであるとをおっしゃっています。これらの人々が幸いであるのは、「神の国」「神の支配」が始まり、神様にひたすら信頼し、イエス様を求め神様とつながるから幸いなのです。そして、イエス様が祝福してくださるから幸いなのです。
「貧しい人々は幸いである」と言われたイエス様の心を受け止め、私たちも、ひたすら神様に信頼し、イエス様を求め、心からイエス様を信じ、神様とつながり、生きていくことができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
顕現後第5主日 『主イエス様の言葉に従い行動する』
本日は顕現後第5主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。礼拝後は堅信受領総会が開かれました。
聖書箇所は、イザヤ書6:1-8、詩編138、コリントの信徒への手紙一15:1-11及びルカによる福音書5:1-11。説教では、主イエス様の言葉に従い行動することが信仰者の在り方であることを知り、そこに立脚して、己の無力さを自覚し、神様の恵みの内に歩み使命を果たすことができるよう祈り求めました。
本日の福音書箇所を描いた絵画、ラファエロの『奇跡の漁』も活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第5主日です。福音書は、ルカによる福音書の第5章1節以下で、シモン・ペトロがイエス様から召し出される箇所です。シモンは本名、ペトロはイエス様が付けたニックネームで「岩」という意味です。彼が教会の礎石となったからだと思います。
本日の福音書箇所を振り返ります。
イエス様は公生涯に入り、ガリラヤで宣教を始め、諸会堂で教えたり、多くの病人を癒やしたりしました。ある時、湖畔に人々がたくさん集まってきたので、イエス様は舟に乗って舟の上から湖畔にいる人々にお話をしました。その湖はゲネサレト湖です。ゲネサレトとは湖の西側にある平原地帯の名で、ゲネサレト湖はガリラヤ湖の別名です。
シモンたちは、ゲネサレト湖で夜通し働きましたが、全く魚が捕れませんでした。群衆へのお話が終わった時、イエス様はシモンへ「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」とおっしゃいました(4節)。この「漁をしなさい」の原文のギリシャ語は二人称・複数・命令形でした。「あなた方は漁をしなさい」ということです。それに対してシモンは「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。この「お言葉ですから」の直訳は「あなたの言葉の上で」であり「網を降ろしてみましょう」は一人称・単数・未来形でした。「私は網を下ろすでしょう」ということです。シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って網をおろしますが、彼がそうするのは漁師の経験や常識に立ってのことではありません。彼がそうするのは、「あなたの言葉の上に」立つからです。シモンは自分の経験や常識を捨て、イエス様の言葉に従います。
イエス様の言葉に従ったら、網が破れそうになるほどたくさん捕れました。シモン・ペトロは驚いて「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です。」(8節)と言って、ひれ伏しました。
この箇所を描いた絵画があります。それがこのラファエロの『奇跡の漁』で、現在はロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館にあります。

イエス様の神性に驚きひれ伏すペトロ、後ろの人物はペトロとよく顔が似ているので、弟のアンデレ、その後ろはゼベダイの子のヤコブとヨハネと考えられます。ヤコブとヨハネは網にかかったおびただしい魚を引き上げようと必死のようです。
イエス様の言葉の力を目撃したシモン・ペトロは、畏敬の念に捉えられ、イエス様の前にひれ伏します。5節ではイエス様を「先生」と呼んでいたシモンですが、8節では「主よ」と呼びかけ、「私から離れてください。私は罪深い人間です。」と告白します。それは、シモンの目にした出来事が彼の「罪深さ」を直感させるほどに神々しい出来事であるからであり、同時に、恵みに包まれた者は自然と罪の告白を口にできるからです。己の罪深さを強く意識するあまり、シモンはイエス様が汚れた自分と同じ舟にとどまらないように願わなければという、純粋な気持ちに迫られたのです。シモンが「私は罪深い人間」だと言ったことについては、この後の様子を見ると、シモンは出来の悪い弟子のようで、自分を「罪深い人間」と言うシモン・ペトロの告白は、理解できますが、それを引き起こしたのが主イエス様がなされた奇跡(神々しい出来事)であります。
そのシモンに対してイエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)と言って弟子に選びました。イエス様が神の国のために用いる働き人は己を低くする人なのです。
イエス様は「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」とペトロたちに語っています。ここは原文では2節や6節の「漁師(ハリエイス)」という言葉でなく、ゾーグレオー「捕らえて生かす」いう言葉の分詞形が使われています。「捕らえて生かす者」ということです。ゾーグレオーは、形容詞ゾーオス(生きている)と動詞アグレオー(捕る)の合成語で、「生かすために捕まえる」「捕らえて神の支配の下で生かす」の意味であり、弟子の使命を表すのにふさわしい言葉であると言えます。
そのイエス様の言葉に応えて、彼らは従いました。
このような箇所でした。
シモンはなぜ「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です。」と言ったのでしょうか?
本日の旧約聖書では、預言者イザヤが神殿で聖なる神にお会いした時、セラフィムが飛び、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満ちる。」(イザヤ書6章3節)という声を聞き、神殿の敷居がゆれ動く体験をした時に「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者 私は汚れた唇の民の中に住んでいる者。しかも、私の目は王である万軍の主を見てしまったのだ。」(5節)」と言っています。聖なるものに出会った時に、私は滅ぼされるという思いを持ったのです。「ああ、災いだ。私は滅びるばかりだ」と言って自らの罪深さに気づいたのです。それと同じ思いをシモン・ペトロは持って、こう言ったのだと思います。
また、本日の使徒書、コリントの信徒への手紙一15章で、パウロは9-10aにおいて「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今の私があるのです。」と言っています。つまり、ふさわしくないけれども自分は選ばれた。それはなぜかと言ったら、「神の恵みによって」であり、自分の努力によってではないと言うのです。パウロは多くの働きをしましたが「働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」(10節b)と言っています。神様の恵みが私たちに働いているので、私たちは、ふさわしくないけれど選ばれたのです。
この神様の恵みの神秘を生きるように、私たちは呼ばれています。信仰は努力主義ではありません。自力で自分を救うことはできません。私たちは神様の恵みによって救われて、神様の恵みを生きるように呼ばれています。神様はペトロやパウロのような、ふさわしくないと思われる人を選ばれました。私たちも選ばれました。神様の恵みを生きるように呼ばれ、使命を与えられているのです。
シモンたちは夜通し働いたのに魚が捕れませんでしたが、イエス様の言葉に従ったら、急にたくさん捕れました。これは、信仰者の世界は、人間の努力に見合う形で恵みがあるのではないということだと思います。ちなみに、ここの「言葉」という単語は原文では「ロゴス」(1節)ではなく「レーマ」(5節)で、「レーマ」には、「言葉」と「出来事」という二つの意味があります。イエス様が語った言葉は、「魚が捕れる」という出来事となってシモンたちの目の前に現れたのです。それを引き起こしたのはシモンの答えと行動です。5節でシモンはこう言っています。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」
ここで大事なのは「しかし」という言葉です。「自分の経験や常識では魚は捕れないはずだ。しかし、他ならぬイエス様がおっしゃるのだからその通りにしてみます。」というのです。信仰はこの「しかし」という言葉とそれに伴う行動だと思います。私たちも自分の経験や常識にとらわれるのでなく、主イエス様のお言葉に従い行動することが信仰者としての在り方だと思います。私たちは「しかし、お言葉ですから」と言えるかどうかが問われているのであります。そして、神々しい出来事を目撃した者は「私は罪深い人間」と己の無力さを自覚し、謙遜になります。
なお、「舟」は教会の象徴とも考えられます。教会は「言葉(レーマ)」の上に立つ共同体であり、言葉が語られる場であると同時に、その出来事を実際に体験する場であります。教会は神の言葉の上に立ち、罪を告白し、「生かすために捕まえる」ことを使命としていると言えます。
本日は礼拝後、「堅信受領総会」がありますが、この視点でも「教会を見つめること」ができるといいと思います。
皆さん、私たちは神様の恵みを生きるように呼ばれ、「人間を生かして捕らえる」という使命が与えられています。
自分の経験や常識は大事なことではありますが、それに固執せず「しかし、お言葉ですから」と主イエス様の言葉に従い行動することが信仰者の在り方です。私たちがそこに立脚して、己の無力さを自覚し、神様の恵みの内に歩み使命を果たすことができるよう、この礼拝で、そして日々の生活の中で祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン