『「聖歌535番(讃美歌529番)」に思う』
先主日の説教の中でファニー・クロスビーの「聖歌535番(讃美歌529番)」について言及しましたが、テーマや時間の関係もあり、思ったことの半分も話せませんでした。今回は、この聖歌(讃美歌)についてもう少し詳しく述べてみたいと思います。
聖歌535番と讃美歌529番の歌詞は、微妙に違っています。讃美歌529番はこうです。
1ああうれし、我が身も 主のものとなりけり
浮世だにさながら 天つ世の心地す
(おりかえし)
歌わでやあるべき 救われし身の幸(さち)
たたえでやあるべき 御救いのかしこさ
2残りなく御旨(みむね)に 任せたる心に
えも言えず妙なる 幻を見るかな
(おりかえし)
3胸の波収まり 心いと静けし
我もなく世もなく ただ主のみいませり
(おりかえし)
この讃美歌は本田路津子のこのCD「讃美歌アルバム」で聞くことができます。

この本田路津子の音源は以下のURLで聞くことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=kwKiMTREr6Y
ファニー・クロスビーの思いが本田路津子の澄んだ声(シルキー・ボイス)でよみがえります。
聖歌535番(讃美歌529番)のオリジナルの歌詞を見ていきます。
1.Blessed assurance, Jesus is mine! Oh, what a foretaste of glory divine!
Heir of salvation, purchase of God, born of his Spirit, washed in his
blood.
(Refrain)
This is my story, this is my song, praising my Savior all the day long.
This is my story, this is my song, praising my Savior all the day long.
2.Perfect submission, perfect delight, visions of rapture now burst on my sight.
Angels descending bring from above echoes of mercy, whispers of love.
(Refrain)
3.Perfect submission, all is at rest. I in my Savior am happy and blest
watching and waiting, looking above, filled with his goodness, lost in
his love.
(Refrain)
訳は以下の通りです。
1 祝福された確信、イエスは私のもの! ああ、神の栄光を前もって経験で きるとは!
救いを受け継ぐ方、主イエスの血の代償、主の御霊によって生まれ、その 血によって洗われる。
(折り返し)
これこそ私の物語、これこそ私の歌。一日中、私の救い主を賛美する。
これこそ私の物語、これこそ私の歌。一日中、私の救い主を賛美する。
2 完全な服従、完全な喜び、歓喜の幻影が今、私の視界に満ち溢れる;
天から降りてくる天使たちが、慈悲の響き、愛のささやきをもたらす。
(折り返し)
3 完全な服従、すべてのことが解決した時、私は私の救い主にあって、幸せ で祝福されている;
見守り、待ち望み、上を見上げ、神の善良さに満たされ、神の愛により「私」 は隠された。
(折り返し)
この聖歌の冒頭の歌詞「Blessed assurance, Jesus is mine(祝福された確信、イエスは私のもの)からエフェソの信徒への手紙 1:13-14を思い浮かべます。
「あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。」
この歌詞は、キリスト信徒が持つ救いの確信と喜びを表しています。エフェソの信徒への手紙の一節は、信徒が聖霊によって証印を受け、神の遺産を受け継ぐことが約束されていることを思い出させます。この確信は、キリストを信じる者の心に平和と喜びをもたらします。
また折り返しの「This is my story, this is my song, praising my Savior all the day long.(これこそ私の物語、これこそ私の歌。一日中、私の救い主を賛美する。)」からは詩編34:2を思い浮かべます。
「私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美がある。」
この折り返しは、信徒の生活がどのように神に対する感謝と賛美に満ちているかを示しています。この詩編の一節は、主を常に賛美することの重要性を強調し、キリストを信じる者が経験する喜びと感謝の気持ちを反映しています。
さらに「聖歌535番(讃美歌529番)」は、歌詞は違いますが福音派の聖歌232(新聖歌266)「つみとがをゆるされ」です。歌詞は以下の通りです。
1 罪とがを赦され 神の子となりたる わがたまの喜び 比べうるものなし
(折り返し)
日もすがら証せん 夜もすがら主を誉めん 「み救いはたえなり み救いはくすし」と
2 主にまたく従い 安きえしわが身に 天つやの歌声 響き来るここちす
(折り返し)
3 主のものとせられし わが身こそ幸なれ 感謝なき日はなく 賛美なき夜 はなし
(折り返し)
この歌詞の本田路津子の歌を以下のCD「ファニー・クロスビーの世界」で聞いています。

この音源は以下のURLで聞くことができます。本田路津子がトークも担当し、ファニー・クロスビーの生涯についても語っています。
https://www.youtube.com/watch?v=qmdq-tXSEmI&list=PLL2KgM0-Ydbqb9zHvxMGVGovWTDjId5MQ
ホーリネスや福音派の方々はこの歌詞の方が親しみがあるようです。
ファニー-・クロスビーは、生後6週間で失明、友人の死、愛する我が子の死等、多くの試練がありましたが、それも神から与えられた賜物ととらえて、神を讃える賛美歌をあふれるように作りました。その精神が最もよく表れたのが「聖歌535番(讃美歌529番)」であると思います。
この聖歌を歌いながら人生を歩みたいと願うものであります。
被献日 『主にあってみ前に献げられる』
本日は被献日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、マラキ書3:1-4、詩編51:15-19、ヘブライ人への手紙2:14-18及びルカによる福音書2:22-40。説教では、被献日はイエス様が神に献げられ諸国民の光として迎えられた日であることを知り、私たちも主にあってみ前に献げられ、この世において主の栄光を現すことができるよう祈り求めました。
本日の福音書箇所から思い浮かべた聖歌535番、そして、この聖歌の作詞をしたファニー・クロスビーについて記した「大塚野百合著 賛美歌・聖歌ものがたり」からの文章を紹介しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
教会の暦では、本日、2月2日は「被献日」という祝日です。先主日が顕現後第3主日でしたので、例年ですと本日は顕現後第4主日となるのですが、今年はたまたま2月2日が主日と重なり、祈祷書の2ページに「次の祝日は主日に優先して守る」と指定されている3つの祝日の1つに「被献日」がありますので、本日は「被献日」として礼拝を守っています。ちなみに、主日に優先して守る他の2つは「主イエス命名の日(1月1日)」と「主イエス変容の日(8月6日)」です。
「被献日」は生後40日目のイエス様が両親によってエルサレムの神殿に連れられ、神様に献げられたことを記念する日です。英語の祈祷書では「The Presentation of Christ in the Temple(神殿におけるキリストの奉献)」という祝日であり、カトリックでは「主の奉献」と呼ばれる祝日です。
なお、昨日、高崎聖オーガスチン教会で北関東教区婦人会の総会及び被献日の礼拝が捧げられました。当教会からはY・M姉とF・E姉が参加しました。この時期に婦人会の総会があるのは、日本聖公会婦人会が1920年の2月2日(被献日)に成立したことからですが、女性たちがイエス様が神殿で献げられたことに思いを馳せ、献げること(物心ともに)を重視している証しでもあると思います。
本日の福音書の個所を振り返ります。
マリアは、イエス様を出産した後、モーセの律法に従って、その期間を守り、イエス様の出生の日から、40日後に、ヨセフとともにイエス様を連れてエルサレムの神殿に詣でました。それは律法に従っていけにえ(山鳩や家鳩)を献げるためでした。
イエス様の聖家族はエルサレムの神殿に着きました。神殿の境内には、大勢の人々が集まり、ごったがえしています。
その神殿の境内で、ヨセフとマリアは、二人の老人に会いました。それは、シメオンと、アンナという女預言者でした。
シメオンは、ずっとエルサレムに住んでいる人で、人々から「正しい人で、信仰が篤く、イスラエルの民が、神様によって慰められることを待ち望み、聖霊が彼にとどまっている」と、人々から思われている老人でした。
そのシメオンは、神様が遣わされる「救い主」に会うまでは決して死なないという、聖霊のお告げを受けていました。
このシメオンが聖霊に導かれ神殿の境内に入ったら、ちょうど、ヨセフとマリアが、幼いイエス様のためにモーセの律法に従って、いけにえを献げようとしているところでした。
シメオンは、幼いイエス様を、腕に抱き賛美の声を上げました。29節から32節です。意訳して述べます。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私は、この目であなたの救いを見たからです。これ(この幼子)は、すべての人々のために、備えられた「救い」です。この方こそ、異邦人をも含めて、すべての人々を照らす、神のみ心を表す光です。この方こそ、あなたの民であるイスラエルの栄光です。」
これは、夕の礼拝の中で唱えられる「シメオンの賛歌」です。シメオンはイエス様に出会ったとき「この方こそ長い間待ち望んでいた救い主である」ことを確信し、ほめ讃えたのです。それは聖霊の導きによるものでした。
ヨセフとマリアは、この老人が、突然、イエス様について、このようなことを言い出したので、驚きました。シメオンは、この家族を祝福し、さらに、母親のマリアに言いました。34節から35節を意訳します。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと、この子の将来は、定められています。また、同時に、多くの人々から、様々な反対を受ける「しるし」が見られます。そして、あなた自身も、剣で、胸を刺し貫かれるような経験をすることになるでしょう。それは、この人に対して、悪意や疑問を持つ多くの人々の心や思いが、そこに現れるためです。」
老人シメオンは、これから起こるイエス様の生涯を予言するだけでなく、母マリアの上に降りかかる痛みと苦しみをも予告したのでした。
約30年後、現実に、シメオンによって予言されていたことが起こりました。ゴルゴタの丘で、十字架につけられている我が子を、母マリアは仰ぎました。
シメオンに続いて、アシェル族(北部10部族)の84歳のやもめである女預言者のアンナもイエス様に近づき、感謝を献げ「エルサレムの贖い(救い)を待ち望んでいる人々皆に幼子のことを語」り、伝道しました。
イエス様の親子、聖家族は律法で定められた奉献の儀式を終え、故郷のナザレに帰りました。幼子イエス様は神様の恵みのうちに成長しました。
このような箇所でした。
本日、「被献日(主の奉献)」の福音書箇所は、神殿で幼いイエス様のために献げられた犠牲(山鳩や家鳩の命)は、実は、すべての人々を救うために献げられたイエス様御自身であったと言っているようです。生まれながらにしてイエス様ご自身が献げられたことを、覚えたいと思います。
また、シメオンが腕に抱いた幼子が神様を讃えさせ、人を祝福させました。幼子を通して神様と人が結ばれたのです。主イエス・キリストは神様と人を結び合わせる絆なのであります。
なお、29節から32節の「シメオンの賛歌」は古来から「ヌンク・ディミティス」とラテン語で言われてきましたが、それはラテン語訳の冒頭部分「今こそ、私を安らかに去らせてくださる」から来ています。「死なせる」ではなく「去らせる」です。私はここに大きな意味があると考えます。聖霊に導かれて救い主に出会った人は、死ぬのではなく、平安のうちにこの世を去り、新たな命に入ることを示唆しているように思うのです。私も70歳を過ぎ、人生の終焉を意識しています。イエス様をしっかり腕に抱き、つまり、救いを信じて受け入れ、安らかにこの世を去りたいと思うものであります。
本日の福音書箇所から思い浮かべたのが、先ほど福音書前に歌った聖歌535番です。この聖歌は、イエス・キリストを信じ救われた喜びにあふれています。
https://www.youtube.com/watch?v=ji6fY-czKU4
<1 あなうれし わが身も 主のものと なりけり
湧き出る 喜び あまつ世の まぼろし
(おりかえし)
歌わでや あるべき 救われし身のさち
たたえでや あるべき み救いの かしこさ
2 み使いの降り来て 愛のうた こだます
喜びの調べは み恵みの おとずれ
(おりかえし)
3 主の愛に満たされ 心 いと安けし
胸のなみ 静まり ただ主のみ 仰ぎ見ん
(おりかえし)>
格調高い文語の歌詞ですが、1節と3節を現代語に訳してみます。
1 なんとうれしいことでしょう、私は主のものとなりました。
天の国の喜びが、今この世にいるうちから始まり湧き出でています。
(おりかえし)
私が救われた幸せに 歌わないではいられません。
救ってくださった賢さに、神を讃えないではいられません。
3主の愛に満たされて 私の心はとても平安です。
胸の動揺は静まって、主なる神だけを仰ぎ見ます。
(おりかえし)
聖歌535番(讃美歌529番)は、19世紀アメリカの盲目の讃美歌詩人、ファニー・クロスビーの作詞です。この聖歌やファニー・クロスビーについては、この本「大塚野百合著 賛美歌・聖歌ものがたり」に載っています。

Frances Jane Crosby(1820-1915)は、生涯に6,000以上の賛美歌を書いたアメリカの盲目の賛美歌詩人です。盲人オルガニストと結婚してVan Alstyneの姓となりましたが、一般にファニー・クロスビーと呼ばれています。日本聖公会の聖歌集ではこの曲の他に、128番「イエスきみ イエスきみ み救いに」や518番「きよき岸べに やがて着きて」が採用されていますが、日本基督教団讃美歌や福音派の聖歌等にも数多く取り上げられており、彼女の歌は日本でも広く普及しています。
ファニー・クロスビーは、生後6週間後の目の治療が失敗し失明する悲運に見まわれましたが、祖母や母親の愛情ある育成により彼女の持って生まれた才能が生かされ、盲学校での勉学・卒業後の教師としての務めの傍ら詩作に励みました。クロスビーは、身長145センチと小柄でしたが、彼女の心にはいつも喜びが湧いていたので、その顔は輝いており、そばに行くと、その喜びが「感染」したと言われました。
聖歌535番は、彼女が53歳の時に日曜礼拝で牧師がヘブライ人への手紙10章22節「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」について行った説教に霊感を受けて書いたそうです。当時の英語の聖書では、「信仰の確信に満たされて(with a true heart in full assurance of faith)」となっており、彼女はこの「確信(assurance)という言葉をテーマに、この歌を書いたとのことです。聖歌535番の楽譜の左下にあるように、歌い出しが「Blessed assurance, Jesus is mine(祝福された確信、イエスは私のもの)」となっています。
このように、この聖歌には、イエス・キリストを信じた救いに関する揺るぎない確信と喜びがあふれています。そしてそれは、本日の福音書におけるシメオンやアンナにおける、主イエス・キリストに出会い救われた確信と喜びに共通するものです。
皆さん、本日は被献日、生後40日目のイエス様が神様に献げられ、諸国民(すべての人)の光として迎えられたことを記念する日です。イエス様に出会い、救いを受け入れた人は平安のうちにこの世を去り、新たな命に入ることができます。このことに感謝し、私たちも主にあってみ前に献げられ、この世において主の栄光を現すことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
顕現後第3主日『貧しい人に福音を告げるイエス様』
本日は顕現後第3主日です。午前は高崎、午後は新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、ネヘミヤ記8:1-3・5-6・8-10、詩編19、コリントの信徒への手紙一12:12-31a、ルカによる福音書4:14-21。説教では、イエス様がこの世界に来られたのは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」ということを知り、自分が貧しい人であることを自覚し、へりくだって恵みの神を信じ、共に歩む人生を送ることができるよう祈り求めました。。
テーマから思い浮かべたソプラノ歌手、小早川由起子さんと讃美歌93番「みかみのめぐみを」について言及しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第3主日です。この主日の福音書は、毎年イエス様の公生涯の第一声、宣教開始の箇所が選ばれています。今年C年は、ナザレの会堂におけるイエス様のイザヤ書朗読とその実現の宣言です。旧約聖書はネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が捕囚先のバビロンから帰還し、再建された神殿で祭司エズラたちの律法朗読を聞いた人々が感動する箇所が選ばれています。
本日の福音書はルカの4章14節からです。イエス様は霊の力に満たされ、ガリラヤに帰りました。当時の会堂(シナゴーグ)は、安息日には礼拝する場所、平日には少年の学校として機能していました。会堂には会堂司がいて、その地を訪れている教師を招いて聖書の朗読と説教を依頼しました。イエス様はユダヤ教の一教師としてとらえられ、諸会堂で教えていました。
そして、イエス様は故郷のナザレに行き、安息日に会堂でイザヤ書61章1-2節と58章6節から朗読しました。それは自分がどういう者であるか、これから何をするかということを人々に語った箇所です。
アメリカでは先日の20日にトランプ大統領の就任演説があり、日本では一昨日(24日)に石破総理の施政方針演説がありましたが、これらと同様に、本日の福音書箇所も、イエス様が自分の公生涯(Public Ministry)を始めるにあたって、どのようにしていきたいのかということを語っています。「メシアとしての就任説教」と言われている箇所です。
イエス様の第一声は何だったでしょうか? それは18節の「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。」ということでした。主が私をメシア(油注がれた者)にされたのは、貧しい人に福音を告げ知らせるためだ、というのです。主の霊(聖霊)の力によって神様がイエス様をこの世界に遣わされた理由は、この一言で要約できます。「貧しい人に福音を告げ知らせるため」ということです。
ここの「貧しい人」は、ギリシャ語では「プトーコイ」で「プトーコス」という言葉の複数形です。「貧しい人(プトーコス)」とは、まず経済的に貧しさを意味しますが、そういう人は社会的にも不当な扱いを受けることから、神様だけを頼りにするようになり、そこから「貧しい人」とは「神様に信頼する謙虚な人」という意味になりました。また、旧約聖書での「貧しい人」はヘブライ語で「アナウィム」と言い、意味は「抑圧された人々」です。ただ単に経済的に貧しいというだけでなく、貧しさゆえに弱い立場に立たされ、抑圧されている状態の人々のことです。
その「貧しい人」に福音(よい知らせ、Good News)を告げ知らせるために、イエス様はこの世界に来られたのです。なお、「貧しい人」は神様の助けを最も必要としている人であり、それはまた私たち一人一人のことであるとも言えるのではないでしょうか?
イエス様は「貧しい人」に福音を告げ知らせました。これを信じるかどうかが問われていると思います。私たちが病気をしたり、様々な苦難に遭遇したりすると、なかなか信じ難い、ということがあると思います。
旧約聖書の発想はこうでした。神様に祝福された人は羊をたくさん持ち家族がたくさんいて、健康で、皆幸せで、そういう人は神様から祝福されていますが、お金がなくて病気で、貧乏で、子供のいない夫婦というのは祝福されていない、神様の恵みをもらっていない。だから、貧しい人というのは基本的に神の恵みがない人で、お金持ちで、健康で、社会的地位も高い人は、神の祝福がたくさんあるというふうに考えられていたのです。しかし、イエス様の場合は反対で、「貧しい人に福音を告げ知らせる」というので、逆転しています。
さらに、イエス様は「主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし主の恵みの年を告げるためである。」と言いました。「主の恵みの年」とは、「ヨベルの年」と言われ、50年に一度、民のすべてが自由になる、解放の宣言がなされる年とされています(レビ記25章)。この年が巡ってくると、売却された土地は返還され、奴隷は元の身分を回復することができました。「ヨベル」というのは雄羊の角の意味で、雄羊の角でつくったラッパを吹き鳴らしてこの年を聖別した(レビ記25:9)のでした。その「ヨベルの年」、つまり「主の恵みの年」を私たちに告げるためにイエス様は遣わされたのです。
ちなみに、ここで「恵みの」と訳されたギリシャ語原語は「デクトス」で、元々は「喜ばしい」という意味です。「主の喜ばしい年」をヘブライ語原文の意味に従って「主の恵みの年」としたと思われます。「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことは、主が喜び、主の恵みを告げることなのです。
「貧しい人に福音を告げ知らせる」とは、詳しく言えば、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由に」する、ということです。それはつまり「口で言うだけではなくて、実際にそうする」ということです。イエス様は言葉と行いが一致しているのですから、貧しい人に福音を告げる、と言ったら、実際、福音がいただける。それが「解放」であり、「視力の回復」であり「自由」である。その恵みを主が私たちにくださる、と約束してくださり、しかも、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とあるように、このイエス様の言葉は「今日、実現した」のです。これこそ「よい知らせ、福音」であります。
私たちがなすべきことは何でしょうか? それは、「自分が貧しい者であることを認めること」、そして、「主が告げ知らせた福音を受け入れること」なのだと思います。そうする時、主は喜び、一人一人に応じた必要な恵みを与えてくださるのです。
そのことで思い浮かぶ一人の方と聖歌(讃美歌)があります。それは小早川由起子さんというソプラノ歌手で、聖歌は讃美歌93番「みかみのめぐみを」です。この曲は私たち日本聖公会の聖歌集には入っていません。この後、小早川さんのこのCD「主の愛に包まれて」から聞いていただきます。

小早川さんについては、「ライフライン」というキリスト教テレビ番組で何度か取り上げられています。「ライフライン」は群馬では毎週日曜の朝7時から群馬テレビで放映されており、見逃しても後からyoutubeで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=Wvs-Irnn9hw
小早川さんは23歳で肝臓の難病を発病し、2度にわたる生体肝移植手術(母及び夫から)により命を救われました。現在は、各地の教会や病院で闘病体験の証と賛美のコンサートを行う他、ホスピスでの独唱ボランティアに従事しています。体調は安定しているようですが、2014年に再々発し、薬を20種類ほど服用しながら大学病院への通院を続けています。長年のステロイド薬の副作用で糖尿病や骨粗鬆症も併発し、突然耳が聞こえなくなってしまうなど体の不調は尽きません。それでも、何度も余命宣告を受けながら生かされている神様への感謝と、闘病を通して神様から小早川さんに与えられた恵みを伝えたいという思いを込め、コンサート活動などに力を注いでいるそうです。小早川さんは死の恐怖を感じた時、「神様、どうか私を憐れんでください」と泣きながら祈ったところ、神様はみ言葉を通して小早川さんに寄り添い、涙を乾かし、力を与えてくださったことを肌で感じました。試練によって自分の弱さ(貧しさ)を知り、それが大きな恵みだったとのことです。そのような神様の恵みを多くの方に知ってほしいという思いを込めて、小早川さんは聖歌(讃美歌)を歌っているそうです。
今日はそのような曲の中から、讃美歌93番「みかみのめぐみ」を聞いていただきたいと思います。受付で取っていただいた楽譜を見ながら、CDでお聞きください。(https://www.youtube.com/watch?v=x8xxnMaFPWQ)

1 御神の恵みを 思いみれば
嬉しさ余りて 歌とぞなる
2 迷える時には 道を示し
おごれる時には 鞭を賜る
3 この身に余れる 御慈しみ
幼き時より いや積もりぬ
4 積もりに積もれる 御恵みをば
この世に彼の世に 歌い続けん
この讃美歌は、信仰者の感恩(恩に感謝する)の思いが簡潔にまとめられ、「貧しい人」である自分に慈しみをくださる神様の恵みを賛美する思いが溢れています。それは、この世だけでなく死後までもほめ讃えたいという強い思いです。
なお、この讃美歌の作詞をしたジョセフ・アディソン(1672-1719)は、英国国教会聖職者の息子で、オックスフォードで学び、政務次官等の官職を歴任した人ですが、文学的にも優れ著名な雑誌に執筆したり多くの讃美歌の作詞もしています。
神様の願いは全ての人を救いたいということです。そこで救い主イエス様をこの世界に派遣しました。イエス様は貧しい人に福音を告げ知らせるためにこの世界に来られたのです。そのイエス様に信頼しましょう。願ったことをその通りに叶えてくださるかどうかは分かりませんが、私たちが自分を貧しい人と認め、へりくだってイエス様を信じるならば、イエス様は一人一人に応じた方法で必要な恵みを与えてくださいます。それは小早川由起子さんに主がなさったようにです。
私たちが「貧しい人」であることを自覚する時、この礼拝で、また、日々の生活において、イエス様がいつも豊かな恵みを与えてくださいます。へりくだって神様を信じて、神様と共に歩む人生を送ることができるよう、祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
『「米国大統領就任後の礼拝」に思う』
1月21日(現地時間)、就任式を終えたトランプ大統領は、メラニア夫人やバンス副大統領夫妻と共に、カーター元大統領の国葬があったワシントン国立大聖堂(米国聖公会ワシントン教区主教座聖堂)で「国民のための祈りの礼拝(A Service of Prayer for The Nation)」に参列しました。

2時間を越える礼拝で、上質なコンサートを鑑賞したような印象もありました。この礼拝は、以下のURLで全部見ることができます。私はこのyoutubeにより式に参列しました。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=PhHE8fvf92M&d=n
この礼拝は、1933年のフランクリン・ルーズベルト大統領の就寝の時以来続いているそうです(ルーズベルト大統領は聖公会信徒です)。式文は以下のURLで入手できますので、それを手にして式に参列してほしいと思います。
https://cathedral.org/wp-content/uploads/2025/01/Service-of-Prayer-for-the-Nation-2025-Online.pdf?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR1Jj5hAlgkXMME55_2UhN22THRCb3rAOQAh4Cw2IO_u-kxhCzD5rJd6AGE_aem_--uWvZ59zIlEyrsGOVIqXg

式の前に伝統的なクワイヤーの聖歌があり、その後、ギターやドラム・ピアノの伴奏により黒人女性がジャズやゴスペルを歌いました。さらに白人男性のテノールが海兵隊のオーケストラをバックに「主の祈り」の聖歌等、3曲を歌いました。トランプ大統領夫妻が聖堂の最前列の所定の場所に着くのは、42分55秒後です。
この礼拝には、プロテスタント、メノナイト、モルモン教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、シーク教、仏教の指導者など、さまざまな宗派の指導者が参加し、聖書や各聖典の朗読や各宗派の方法による「招きの祈り(Call to Prayer)」を行っていました。様々な人種、多くの女性の聖職者がいました。
国歌斉唱では、トランプ大統領だけが敬礼し、他の参列者は胸に手を当てていました。

この礼拝は聖公会の伝統に則りながらも、ジャズやゴスペルの音楽や他宗教の指導者も役割を果たしていました。メソジストやバプテスト等の他教派、黒人女性や白人男性、インド系の人、イスラム教徒やユダヤ教徒、仏教徒といろいろな立場の人が参列していました。
特に、このワシントン教区のマリアン・バッディ主教の説教が心に残りました。この礼拝開始の1時間33分後くらいから主教様の説教が始まります。そこでは、すべてのアメリカ人に、誠実さ、謙虚さ、人間の尊厳の尊重に基づく新たな団結を目指すよう呼びかけ、最前列に座っていたドナルド・トランプ大統領に最後の言葉を向けました。

マリアン・バッディ主教の説教は、はっきりした温かい声で、心がこもっていました。説教をぜひご覧ください。約15分です。説教の抜粋の翻訳を下に示します。
「私たちは今朝、国民として、そして国家としての団結を祈るために集まりました。政治的な合意のためでもなく、多様性と分裂を越えてコミュニティを育むような団結、共通の利益に奉仕する団結のために祈りました。…適合ではありません。それは勝利ではありません。それは、疲れから生まれた礼儀正しい疲労や消極性ではありません。団結は党派的ではありません。
むしろ、団結とは、私たちの違いを包含し、尊重する方法であり、複数の視点と人生経験を有効で尊敬に値するものとして保持することを教え、私たちのコミュニティや権力の殿堂で、意見が合わない場合でも、純粋にお互いを気遣うことを可能にする方法です。
私たちの神の名において、今、怯えている私たちの国の人々に慈悲を持ってください。
ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーのアメリカ人の中には、自分たちの命を恐れている人もおり、全米のコミュニティで勤勉な移民の家族にも同様の恐怖が迫っています。彼らは市民ではないか、適切な書類を持っていないかもしれませんが、移民の大多数は犯罪者ではありません。彼らは税金を払い、良き隣人です。彼らは私たちの教会やモスク、シナゴーグ、グルドワーラ、寺院の忠実なメンバーです。
大統領閣下、親が連れ去られるのではないかと恐れる子供たちを持つ私たちのコミュニティの人々に対して、憐れみを持ってください。また、自国での紛争地帯や迫害から逃れてきた人々が、ここで思いやりと歓迎を見出すのを助けてくださるようお願いします。私たちの神は、私たちが見知らぬ人に慈悲深くあるべきだと教えています、なぜなら私たちは皆、かつてこの地で異邦人だったからです。」
マリアン・バッディ主教の説教は、米国の良心を反映した説教だったと思います。トランプ大統領がこの説教を心に留め、多様性を尊重し、調和・人権・尊厳・謙遜等に配慮して政権を運営することを願います。
米国大統領就任後の礼拝は、全体としては聖公会の伝統的な式の流れに沿っていましたが、ジャスやゴスペルのテイストがあり、他教派・他宗派の聖職の方々と役割を分かちあって共に進めていました。それは英国のチャールズ国王の戴冠式でも感じたことです。日本聖公会もオルガンやクワイヤーだけでなく、もっと現代的な様式を取り入れ、他教派・他宗派とも連携していく必要があるのではないでしょうか?
米国は信仰の自由を謳っていながらも、国葬や大統領就任後の礼拝等、国の儀式としては聖公会の様式で行われています。厳粛な面と今日的な面を融合させていました。私たちは違いを認め合い、お互いを尊重し、共に生きる社会を創り上げていきたい、と思いました。
大統領就任後の礼拝から、このようなことを思い巡らしました。
顕現後第2主日『マリアの信頼や召し使いの態度に倣う』
本日は顕現後第2主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、イザヤ書62:1-5、詩編36:5-10、コリントの信徒への手紙一12:1-11及びヨハネによる福音書2:1-11。説教では、カナの婚礼の奇跡から、主がくださる恵みが私たちの心を満たすことを知り、マリアの信頼、召し使いの従っていく態度に倣って、状況をイエス様に伝え、イエス様の命じたことを行うよう祈り求めました。
「絵で見るロザリオの祈り」の本日の福音書の箇所のページを紹介し、活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、私の岩、私の贖い主、私の言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
本日は顕現後第2主日です。
福音書は「カナの婚礼」の箇所です。旧約聖書はイザヤ書62:1-5で、神様とその民との関係で結婚関係が表現されており、「光」「現れ」「燃える」「栄光」などの用語が使われ、顕現(イエス様がこの世に現れたこと)がうかがわれます。
本日の福音書箇所を振り返ってみましょう。ヨハネの2章1-11節、イエス様の公生涯(Public Minstry)の始まりで、このような話でした。
『イエス様が、家族とともに過ごされたガリラヤのナザレから、8キロほど北に行ったところのカナという村での出来事です。
フィリポとナタナエルがイエス様の弟子になった三日後に、その村で結婚式があり、イエス様は弟子たち(この時点では5人)と共に結婚のお祝いの席(婚礼)に招待され、出席していました。イエス様の母マリアも、そこに招かれていました。親戚の結婚式だったのかもしれません。マリアはこの花婿の母の姉妹だったという伝承があります。であれば、イエス様はいとこの婚礼に出ていたことになります。ちなみに、ヨセフは出てきませんので、既に亡くなっていたと考えられます。弟子たちは、ナタナエルがカナの出身(ヨハネ21:2)だった関係で出席したのかもしれません。
当時のユダヤ人の結婚式は、花婿の家で盛大に行われ、大勢の人が集まり、宴会は、一週間も続いたと言われます。
ところが、そのおめでたい宴会の最中に、ぶどう酒がなくなるという事件が起こりました。お祝いの席で、お客さんに出すぶどう酒が途中でなくなるということは、その家にとって恥ずかしいことですし、その座が白けてしまいます。このことを知ったマリアは、イエス様のところに来て言いました。「ぶどう酒がありません。」。
それを聞いて、イエス様は、言われました。
「女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」。
自分の母親に対して、非常に冷たいものの言い方のように感じますが、「女よ」と訳された原文の「グナイ」には尊敬のニュアンスがあり、「私とどんな関わりがあるのです」の意味するところは「それは私たちの仕事ではない、すべて神にかかっている」ということです。そして、イエス様の「時」とはイエス様が栄光を受ける時、つまり十字架の死と復活の時です。
マリアは、近くにいた召し使いに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言いました。
ちょうど、そこには、ユダヤ人が宗教的な清めに使う水を入れる石の水がめが6つ置いてありました。「いずれも2ないし3メトレテス入りのものである」と記されています。1メトレテスは、39リットルですから、78リットルから117リットルも入る水がめです。それが6つです。
しばらくして、イエス様は、召し使いに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。召し使いたちは、言われたようにかめの縁まで水を満たしました。すると、イエス様は、「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。
召し使いたちはこれを運んで行きました。
宴会の世話役は、水から変えられたぶどう酒の味見をしました。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていましたが、世話役は知りません。水はぶどう酒に変わっていたのです。
世話役は、花婿を呼んで言いました。
「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」
それほど、美味しいぶどう酒に変わっていたのです。
イエス様は、この最初のしるしをガリラヤのカナで行いました、そして、弟子たちは、この神の栄光を現す光景を見て驚き、イエス様を「信じた」のです。』
このようなお話でした。
本日の箇所は、イエス様の最初のしるし、水をぶどう酒に変えるという、イエス様がなさった最初の奇跡です。なお、福音記者ヨハネはイエス様の奇跡を「しるし」と呼んでいますが、それは、奇跡はただの不思議な出来事なのではなく、神様がどのようなお方なのかを証しする出来事だからです。不思議な出来事の奥に神様のメッセージが込められています。今日の箇所で言えば、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」は旧い契約のシンボルです。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表していると考えられます。また、「水がめいっぱいのぶどう酒」とは、主が、あふれんばかりの恵みで、私たちの心を満たしてくださることを表しているとも考えられます。
そして、イエス様は水をぶどう酒に変えるという奇跡を弟子たちに見せることで、イエス様が神であることを証し、弟子たちの信じる心を開かれたのです。
神様がこの箇所を通して私たちに伝えようとしているのはどんなことでしょうか? 今回このようにとらえました。
水がぶどう酒に変わるという奇跡はどのように起きたでしょうか? まず、花婿の親戚でこの婚礼の主催者側と考えられるイエス様の母、マリアがぶどう酒がなくなった時に、「ぶどう酒がありません。」とイエス様に告げます。これはマリアのイエス様への信頼が導いた言葉です。このことを聞かされたイエス様は、召し使いたちにそこにあった水がめに「水をいっぱい入れるように」命じます。彼らは言われたとおりにします。「宴会の世話役に持って行くように」言われればそのようにして、運んでいきました。その時点では、召し使いたちは何が起きるかは分かっていません。しかし、イエス様がおっしゃったとおりに行動しました。世話役が味見をすると、極上のぶどう酒に変わっていました。奇跡は召し使いたちが水を運んでいるときに起きたのです。
マリアがイエス様に状況を伝え、そして、召し使いがイエス様の命じられたことをその通りにすることで奇跡が起きたのです。そのことは私たちが何をなすべきかを教えているのではないでしょうか? 私たちがなすべきことは、マリアのようにイエス様に今の状況を話し、この召し使いのようにイエス様の命じたとおりに行動することではないでしょうか?
ところで、先ほど読んでいただいた本日の使徒書(コリントの信徒への手紙一12:1-11)の4・5節にこうあります。
『恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、仕えるのは同じ主です。』
こうパウロは言っています。
「賜物や務め、そして働きにはいろいろある」のです。この箇所の英語の聖書では「賜物」はgifts、「務め」はservicesでした。私たちは、自分に与えられたもの(賜物)、自分に命じられたこと(務め)に気づくことが大切と考えます。イエス様は「私に何を期待しているか、私に何を行えと言っているのか」ということです。
ちなみに、この福音書で「召し使い」と訳されているギリシャ語は「ディアコノス」で「仕える者、奉仕者」とも訳される言葉です。英語の聖書ではservant(僕)とありました。私たちは「仕える者、僕」として自分の役割を自覚してイエス様の求めるとおりに行動するとき、「しるし」が示され「奇跡」が起きるのです。
何か問題が起きたら、まずイエス様に状況を伝え、それから、イエス様が命じることを、何が起きるか分かっていなくても、ともかく、命じられた通りに行うことが重要なのだと思います。それがイエス様を信じること、イエス様への信仰だと言えます。
私が「朝の祈り」の後、行っている「ロザリオの祈り」の中の、「光の神秘」の「第二の黙想」に、この「カナの婚礼」が取り上げられています。「絵で見るロザリオの祈り」のこの部分を拡大コピーしました。

上に「イエス、カナの婚礼で最初のしるしを行う」とあります。中央から右側の若い二人が花婿と花嫁だと思います。イエス様の後ろにはマリアがいます。イエス様と花嫁の間にいる人が世話役でしょうか? その後ろにいるのがイエス様の弟子たち、その左右にいるのが召し使いと考えられます。
下の文はこうです。「イエスは、母マリアのとりなしに応え、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えて、弟子の信じる心をひらいてくださいました。この一連をささげて、イエスへの信仰を深めることができるよう聖母の取り次ぎによって願いましょう。」
マリアが召し使いたちに言った「この方が言いつけるとおりにしてください」という言葉は、私たちに向かっても言っているのだと思います。この言葉は私たちをキリストへ導き入れてくれるものでもあります。
今日はこの説教の後、「教会委員のための祈り」をお捧げしますが、教会委員になられた方々には、それぞれに与えられた「賜物(gift)」に応じて「仕える者(servant)」としてご奉仕していただけることに感謝いたします。
皆さん、私たちが困難な状況の時、それをイエス様に伝え、イエス様が命じたことを忠実に果たすなら、神様は私たちに最上級のぶどう酒を、分かち合ってくださいます。これこそが私たちキリスト者への恵みであります。
そのような恵みを主が用意してくださっています。その恵みを味わえるように、私たちは、マリアがしたように、まず状況を包み隠さずイエス様に正直に伝え、この召し使いたちが行ったように、その時は意味は分からなくてもイエス様の命じたことに従って誠実に奉仕して参りたいと願います。結果として、主はあふれんばかりの恵みで、私たちの心を満たしてくださるのです。私たち一人一人が、そのことを心に留め、日々過ごすことができるよう祈り求めたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン
顕現後第1主日・主イエス洗礼の日『無心の祈りと信仰により神とつながる』
本日は顕現後第1主日・主イエス洗礼の日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
聖書箇所は、イザヤ書43:1-7、詩編29、使徒言行録8:14-17及びルカによる福音書3:15-17・21-22。説教では、洗礼の意味をつかみ、無心の祈りと信仰により神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいくことができるよう祈り求めました。
本日のテーマと関係するハレスビーの「祈りの世界」の文章を紹介し、活用しました。
本日の説教原稿を下に示します。
<説教>
主よ、わたしの岩、わたしの贖い主、わたしの言葉と思いがみ心にかないますように。父と子と聖霊の御名によって。アーメン
2025年になり、初めての聖餐式です。
皆さん、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
私は一昨日の1月10日で70歳になりました。3月末日で牧師や管理牧師の職務は退職となります。しかし、司祭としての職位はずっと続き、名前の通り聖餐式等の祭りは司っていきます。
さて、本日は教会の暦では、顕現後第1主日・主イエス洗礼の日です。
顕現日(カトリックや日本キリスト教団では公現日)は1月6日で、英語やフランス語ではEpiphanyといい、もとのギリシア語「エピファネイア」は「出現」を意味する語です。英語のappearなどの語源です。顕現日は、異邦人であった博士がイエス様と出会ったことから、救い主がユダヤ人だけでなく、異邦人にも現れて下さったことを記念する日です。ユダヤ教では救いの対象はユダヤ人だけであると信じられていました。しかし救い主であり、神の独り子であるイエス・キリストは、公に異邦人にも現れて下さったのです。このことを感謝し、記念するのが顕現日・公現日です。
実は、もともとは、イエス様の洗礼を祝うことが、この祝日の意図だったようです。 本日の福音書の箇所で、イエス様は、ヨルダン川で洗礼を受けられたときに、「あなたは私の愛する子」と神様によって宣言されたことにより、神の子とされて世界に現れたのだと言って、この日を顕現日としました。イエス様の洗礼を祝うことと、顕現を祝うことは同じことであったのです。
顕現日(1月6日)が主日になるとは限らないので、その後の主日にイエス様の洗礼を祝う日を一緒にしたようです。
今年は聖書日課のC年で、主にルカの福音書が読まれ、先ほどは3:15-17、21 -22が朗読されました。今日の箇所は2つの部分から成り立っています。人々が洗礼者ヨハネをメシアと考えた15-17節とイエス様がヨハネから洗礼を受けた21 -22節です。
今日の箇所はそれほど長くないので、それぞれ読みながら考えてみましょう。 まず15節です。
『民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。』
「メシア」(ヘブライ語)は「キリスト」(ギリシア語)と同じく「油注がれた者」の意味で、神様が遣わす救い主を意味します。「ヨハネ」はもちろん洗礼者ヨハネのことです。ヨハネの説教があまりにも力強かったので、人々はこの方がキリストではないかとさえ、思ったのでした。なお、「民衆」と訳されたギリシャ語は「ラオス」で「救いを受け入れる準備のできた民」を指し、雑多な「群衆」とは区別されています。
続いて16・17節です。
『ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。その手には箕がある。そして、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる。」』
この洗礼は私たちが受けたような滴礼でなく、浸礼です。現在、バプテスト教会がするような水に浸かるやり方です。履物のひもを解くことは、しもべが主人にすることですが、ヨハネはそれさえもできないほどキリストが尊い方であると話しています。
ヨハネは「水」で洗礼を授けましたが、それは「悔い改めの洗礼」(ルカ3:3)であり、「主の道を整える」(ルカ3:4)ための準備にすぎません。「聖なる霊と火」における洗礼は、個々人を対象とする洗礼ではなく、すべての者を含み込む「聖霊降臨」という出来事を指すと思われます。
洗礼者ヨハネは、民衆に、自分の後に来られる方こそ、聖なる霊と火において洗礼を授ける偉大な方なのだと示したのです。そこには私たちを包み込むイメージがあります。そして、その方は裁きを行いますが、麦は倉に納めます。つまり、良い実は救われるのであります。
最後に21 -22節です。
『さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』
聖霊と火で洗礼を授ける方が、なんと民衆と一緒に洗礼を受けに来られていたのです。だれも、この方がキリストであると気づかなかったでしょう。イエス様は、他の人と特に変わるところはなく、人々の中に交じっていたのです。
天から聞こえた「あなたは私の愛する子、私の心に適う者(直訳「私はあなたを喜ぶ」)」という言葉は、私たちすべてに向けて語られている言葉だと言えます。私たち自身の洗礼はこのことを意味しています。天の父なる神様が私を愛する子と言ってくださり、喜んでおられるのです。
洗礼とは、神様とつながり、それを受ける者が、神様の愛される子、神様のみ心に適う者であることが、はっきりと示されることです。
また、洗礼は主イエス様を信じ聖霊を受けることとも言えると思います。
今回、この箇所を読んで注目した言葉があります。
それは21節の「イエスも洗礼を受けて祈っておられると」というところの「祈っておられると」という言葉です。ここは原文のギリシャ語では「プロセウコマイ」の現在分詞形で動作の継続を表し、直訳すると「祈りつつ」となります。 「プロセウコマイ」は、「プロス(前に)+エウコマイ(置く)」ですが、では「何の前に何を置くか」と言えば、「神様の前に自分自身を」ということではないかと思います。つまり、「祈る」とは「神様の前に自分を置く」ことなのであります。「祈り」とは神様との関わりを求めることであり、この箇所では、イエス様はいわば民衆を代表して神様との交わりを求めていると言えます。
イエス様は、大切な時にはいつも「神様の前に自分を置く」いう祈りをしています。本日の洗礼を受ける時の他、12使徒を選ぶ時にも(ルカ6:12)、変容の時にも(ルカ9:29)、主の祈りを教える時にも(ルカ11:1)、、受難を前にオリーブ山(ゲッセマネ)に行った時にも(ルカ22:39)、イエス様は祈っています。
本日の箇所では、この祈りに応えて、天が開かれます。それはイエス様の祈りに対する神の応答であり、その内容が22節で視覚と聴覚で明らかにされました。視覚は「聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来た」ことであり、聴覚は「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という天からの声です。
この天からの声を受けて、受肉され神の具体的な姿であるイエス様は重い務めを果たしていきます。先ほど福音書朗読の前に歌った聖歌112の2節はこのことを歌っています。こうあります。
『ヨルダン川に 立たれしときに 愛のみ声を 天より受けて
重きつとめを 担いたまいぬ 世にあらわれし 神をたたえよ』
この洗礼後、イエス様は公生涯を始め、聖務(Ministry)を果たしていくことになります。
イエス様は生涯で大切な時にいつも祈っていましたが、私たちも人生の大切な時には祈ってきたと思います。「祈り」とはどのようなことなのでしょうか?
そのことでは、この本、ハレスビーの「祈りの世界」が参考になります。

この本は以前は「祈り」という題で聖文舎から出ていましたが、この会社が解散したため長らく絶版となっていました。

以前の本は英訳本からの翻訳でしたが、新しい版は原文のノルウェー語からの直訳でかなり著者の意向を正確に反映したものになっていると思われます。
著者のオーレ・ハレスビー(1879年-1961年)はノルウェーのルーテル教会の著名な神学者です。この本「祈りの世界」(見せる)の中にこうあります。
「祈りとは心を開いてイエスをお迎えすることです。イエスが私たちを動かして祈らせてくださるのです。昔から祈りは霊的な呼吸と言われてきました。(P.9-10) 祈りは、私たちの心の中の一つの姿勢です。それは心の姿勢です。神が聞かれる心の姿勢とはどのようなものでしょうか。これについては二つのことを挙げることができます。一つは無力さということ、もう一つは信仰です。祈りは、本質的には無力な人のためにのみ備えられたものだと思います。祈りが最期の逃れ場なのです。無力な人だけが本当に祈ることができるのです。(P.14-15) 私たちの祈りが聞かれるためには、信仰を持って祈らなければなりません。信仰のしるし、それはその人がキリストに来ることです。悩みの時に、イエスの所に行き、まごころから信頼を持ってイエスに告げる時、無力さは瞬間的に祈りに変わります。(P.27-30)」
これらの言葉から、私は特に次のことを思います。私たちは、祈りに対しても信仰に対しても無力で弱いものだと悟った時、そしてそれらをすべて主にゆだねた時、その無力さこそが祈りの力になるのだ、無心で信仰を持って行う祈りこそが真実の祈りなのだと。
皆さん、教会の暦は顕現節に入りました。イエス様が、この世に姿を現され、様々な業(わざ)をなさったことを記念する期節です。その顕現節の第一主日であり、また主イエス洗礼の日である本日、「イエス様の洗礼」という神様の働きが具体的で見て分かる形で行われたという、その神秘を皆さんと共に分かち合い、神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいきたいと思います。
神様とつながるためには何をすればいいでしょうか?
それは、祈ることだと言えます。そして、それを無心で信仰を持って行うことが大切なのだと思います。
皆さんも日々、無心で信仰を持って祈り続けることをお勧めします。
このように礼拝のため教会に来ることも「祈り」であり、神様の前に自分を置き、神様とつながることになるのだと思います。
顕現後第一主日、そして主イエス洗礼の日である本日、私たちが無心で信仰を持って祈ることで神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。
最後にお祈りいたします。
全能の父なる神様、今年最初の新町での聖餐式に私たちをお招きくださり、ありがとうございます。顕現節の第一主日であり、また主イエス洗礼の日である本日、「洗礼とは、神様とつながり、それを受ける者が、神様の愛される子、神様のみ心に適う者である」という神様の働きが見て分かる神秘をお示しくださったことを感謝します。私たちはその神秘を共に分かち合い、神様とつながり、イエス様の弟子として歩んでいきたいと願います。そのためには無心で信仰を持って祈ることが大切だと分かりました。
主よ、私たちが日々の生活の中で、無心で信仰を持って祈り続けることができるよう、お導きください。
2025年、世界では戦争や内戦で、日本では自然災害や貧困等で苦しんでいる方々がたくさんいます。あなたの御翼でお守りください。そして、私たちのできることを示し、それを行うことができるようにしてください。
この感謝と祈りを、私たちの主イエス・キリストによってみ前にお捧げいたします。アーメン
『「カーター元アメリカ大統領国葬」に思う』
昨年12月29日に100歳で逝去したジミー・カーター元米大統領の国葬が1月9日、首都ワシントンのワシントン大聖堂(米国聖公会ワシントン教区主教座聖堂)で執り行われました。司式はショーン・ロウ米国聖公会総裁主教でした。
「イエス・キリストへの信仰をもって、私たちは兄弟のジェームズの遺体を埋葬のために受け取ります」と、ロウ総裁主教はプロセッション前に言いました。そして、このように祈りました「命を与える神に、聖徒たちと共に彼を完全に育ててくださるように、自信を持って祈りましょう。」

私はCNNのライブ映像で夜中の2時過ぎまで見入ってしまいました。この様子は以下のURLで見ることができます。クワイヤーや聖書朗読や祈祷等、聖公会の厳粛な礼拝そのものです。
https://www.youtube.com/watch?v=izOKazf4XkU
カーター元大統領の国葬は聖公会の葬送式の式次第で進行しました。この式文は以下のURLで取得できます。この式文を手元に置いて国葬をご覧になることをお勧めします。クワイヤーや聖書朗読や祈祷等、聖公会の厳粛な礼拝でありました。
https://cathedral.org/wp-content/uploads/2025/01/39-ONLINE-FINAL-010825.pdf

カーターの孫のうち3人が礼拝で話をしました。ジョシュア・カーターは、ローマの信徒への手紙8章から朗読し、それを「私の祖父の信仰の基盤」と表現しました。

それはこの式の第1日課で、ローマの信徒への手紙8章1-18節及び38-39節です。
『1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 3肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 4それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。 5肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 6肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 7なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
18現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
38わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 39高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。』
ジョシュア・カーターは、この聖書を朗読した後、バプテスト派の祖父が成人してからのほぼ全期間を教えてきたジョージア州プレインズの日曜学校のクラスに、祖母のロザリン・カーターと一緒に参加した時の喜びを語りました。
「教会は、さまざまな背景や信念を持つ全国の人々でいっぱいでした」とジョシュア・カーターは言いました。「そして、私の祖父は、これまでに集まった中で最も多様な日曜学校のクラスで話しました。」それらのクラスに出席した人々のほとんどは訪問者であり、会衆のメンバーではありませんでした。
別の孫のジェームズ・カーターは、福音書の一節、マタイによる福音書5章1-16節を読みましたが、そこには山上の垂訓(至福の教え)と、イエス様が信者たちに命じた「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。彼らがあなたの善行を見て、天におられるあなたの父を賛美することができるようにしなさい」が含まれています。

マタイによる福音書5章1-16節はこうです。
『1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
9平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」』
さらに、もう一人の孫のジェイソン・カーターが別の賛辞を捧げました。この中で「祖父が目を覚ました瞬間から横たえるまで、彼の人生は神の善良さの証でした」とジェイソン・カーターは言いました。カーター元大統領は信仰深く、その信仰の証としての人権活動等があったことを思います。
福音書朗読の前にはバイデン大統領の弔辞がありました。

バイデン大統領は、デラウェア州選出の上院議員で、カーター氏の大統領候補を支持した最初の民主党員の1人だった1974年にさかのぼる友情を思い出していました。
「ジミー・カーターの友情は私に教えてくれました...人格の強さは、肩書きや私たちが持っている力以上のものです」とバイデン大統領は続けました。さらにバイデン大統領は、カーター元大統領の最大の特徴は「人格」であったと強調し、「ジミー・カーターは正しく物事を行い、慈悲を愛し、謙虚に歩んだ」などと讃えました。
説教(Homily)は、キング牧師と共に公民権運動を指導した著名なアンドリュー・ヤング牧師でした。彼はカーター政権下の黒人初の元国連大使で、下院議員やアトランタ市長を歴任しました。
以下のURLで彼の説教を聞く(見る)ことができます。英文ですが字幕スーパーも付いてそれほど長くない(8分程度)ので、ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=IlFZpJF8iYM

ヤング牧師は説教の冒頭でエフェソの信徒への手紙4章32節を読みました。
『互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』
ヤング牧師は、「ジミー・カーターは、私にとって、奇跡のようなものだった」と語り始めました。説教の中でキング牧師の言葉を引用しました。
「キング牧師はよく、偉大さは『強くマークされたアンチテーゼ』によって特徴付けられると言っていました。タフな心と優しい心を持たなければなりません。そして、それがジミー・カーターだった」とヤング牧師は話しました。
特に彼はは、カーターが白人が約4分の1しかいない郡で人種的マイノリティとして育ったことが、あらゆる背景の人々を受け入れることができたと述べました。
「マイノリティとして育った彼は、マジョリティの友人になった」とヤング牧師は言います。
カーターと人生の半分以上を過ごしたヤング牧師は「彼が人生の毎日、私たちと分かち合った愛と慈悲のささやかな行為に、触発され続けました」と語りました。
「私にとってアメリカ合衆国の偉大さを象徴していたのはジェームズ・アール・カーター大統領であり、彼には本当に感謝しています」とヤング牧師は述べました。「なぜなら、大恐慌の厳しさとインフレの爆発にもかかわらず、彼は全能の神への献身とすべての神の子供たちへの愛から決して揺らぐことはなかったからです。」
カーターの行動の許にあるのは信仰で、信仰の表現として人権活動・平和活動などの奉仕が存在したことを思います。
説教後は、カントリーミュージックのスター、ガース・ブルックスとトリシャ・イヤーウッドがジョン・レノンの「イマジン」を演奏しました。

ジョン・レノンの「イマジン」は、多くの人種や宗教等に敬意を表していたカーター元大統領にふさわしい選曲だったと思います。バイデン大統領の弔辞の前にフィリス・アダムズにより歌われた「アメイジング・グレイス」も同様です。
式の最後にはショーン・ロウ米国聖公会総裁主教はじめ聖職者たちが集まって祈りを捧げました。

カーター元アメリカ大統領は大統領の退任後に、自己の信仰の証として人権活動や平和活動に尽力しました。
私は1月10日が70歳の誕生日で、3月末で退職します。退職後も自己の信仰の証として、自分ならではの活動をしていきたいと思います。