マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

聖霊降臨後第12主日 聖餐式 『私たちに報いをくださる神』

 本日は聖霊降臨後第12主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、シラ書 10 :12-18とルカによる福音書14 :1、7-14。神は高慢な者を低くし謙遜な者を高くすることを知り、お返しできない人を招いたとき神が私たちに報いをくださること、私たちも「お返しができない者」として招かれていることをおぼえ、日々の生活を送ることができるよう祈り求めました。究極の「へりくだり(謙遜)」の実現として、聖マルコ教会の祭壇の十字架像も示しました。

   私たちに報いをくださる神

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
 
 本日は聖霊降臨後第12主日、聖書日課は特定17です。福音書ルカによる福音書の14章1節及び7節から14節までで、9章から始まったエルサレムへの旅の途上における、ある安息日の一場面です。通常、安息日には正午頃に会堂で礼拝があり、聖書が読まれ、説教や祈りがなされました。その後、有力なユダヤ人の家で、盛大な昼食会が催され、いろいろな人が招待されました。今回はあるファリサイ派の議員の家の食事の席でのことです。14章7節以下の聖書協会共同訳聖書の小見出しは「客と招待する者への教訓」で、11節までの前半は宴席に招かれた客への勧め、12節から14節の後半は招待する者への勧めの二部構成となっています。イエス様はまず、その食事に招かれた人たちに向かって話し、後半は招いた人に向かって話しておられます。

 本日の聖書の箇所を通して、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 7節以下を少し詳しく、見て参ります。
 まず前半の箇所です。イエス様は招待された客が上席を選んでいる様子に気づいて、彼らにたとえを話されました。8節から10節にこうあります。
 「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも名誉ある人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目(めんぼく)を施すことになる。」
 イエス様はそう話されました。イエス様がそのように話された意図は何でしょうか?  処世術を教えておられるのでしょうか?
 そうではなさそうです。イエス様はあらかじめ上席に指定されている人がそこに行くのを批判しているのではなく、上席を選びたがる精神を批判しておられます。この精神は裏を返せば人を見下げる精神と考えられます。
 そして前半の最後11節でこう言われます。「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と。これは直訳すれば「すべて自分を高くする者は低くされるだろう、そして、自分を低くする者は高くされるだろう」となります。ここでの受動形は、神様が行為の主体であることを婉(えん)曲的に表現する神的受動形と見ることができます。
「自分を高くする者は神が低くするだろう、そして、自分を低くする者は神が高くするだろう」という意味になります。主語は「神」であり、人ではありません。「神は自分を高くする者、高慢な者を低くし、自分を低くする者、謙遜な者を高くする」というのです。これが人間に対する神様の態度です。

 今日の日課で読まれた「旧約聖書続編」シラ書(集会の書)の冒頭にも、このように述べられています。10 章12 節から14節です。
 「人間の思い上がりの初めは、主から離れること 自分を造ってくださった方から 心が離れることである。思い上がりの初めは罪であり かたくなに罪を犯し続ける者は 忌まわしい悪事を雨のように降らせる。 それゆえ、主は前代未聞の災難を下し 彼らを滅ぼし尽くされたのである。主は、支配者たちの玉座を打ち壊し 代わりに、謙遜な人をその座に着けられた。」
 神様は思い上がる者を低くし、謙遜な者を高くされるのであります。

 福音書に戻ります。イエス様は続いて、招いた人にもこう言われました。12 節から14節です。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」
 そのように言われました。イエス様は何をお話ししようとされているのでしょうか?
 イエス様は、貧しい人や障害のある人を食事に招きなさい、と言われます。障害者に対する古代イスラエルの見方は非常に差別的なものでした。旧約聖書の中でも、「体に欠陥のある者は神の食べ物を献げるために近づいてはならない。」(レビ記21:17)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下5:8)というような箇所があります。イエス様はそのように差別され、排除された人々こそ食事に招きなさい、と言われます。そしてそれは「その人たちがお返しをできないからだ」と言われるのです。
 イエス様は最後に、「正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう」と言われます。この「報われるだろう」も神的受動形で、時制は未来です。お返しできない人を招いたとき、私たちに報いを与えてくださるのは神様です。宴会に招いた人から返礼を受けなくても幸いなのは、将来、神様が返礼される、神様が私たちに報われるからであります。
  さらに言えば、私たちは「貧しい人や障害のある人」ではないか、という思いがあります。完全な人はいません。「すべての人は何らかの障害を負っている」とも言えます。そう考えれば、神の国の宴会に私たちは招かれているのだと思います。私たちは「お返しができない者」として招かれています。神様はそのような力のない私たちと共にあり、私たちが神の国の食卓にあずかることを喜ぶお方なのです。
 
 今日の聖書を通して、神に従う生き方として求められているのは「へりくだり(謙遜)」という姿勢です。この「へりくだり」は、イエス様が教訓として人々に語っているだけではありません。自らが徹底した「へりくだり」を行い、示されたことによって、この教えを永遠のものとしています。それが受難と十字架上での死にほかなりません。今、皆さんの前にあります祭壇の十字架像をご覧ください。

 イエス様は十字架上で静かに頭(こうべ)を垂れ、目を閉じ、自らの死を神の御心として受け入れています。ここに「へりくだり」についての究極の教えがあります。イエス様自身の口から語られている、本日の聖書の中心聖句「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」は、このイエス様の受難と十字架の死を経て、復活、昇天し、今や全能の父の右に座しておられることのうちに、究極の「へりくだり(謙遜)」の実現があるのです。 
 私たちがなすべきことは、この主イエス・キリストを見つめ、神様に信頼し、神様からの祝福を待ち望むことではないでしょうか?

 皆さん、「神は自分を高くする者、高慢な者を低くし、自分を低くする者、謙遜な者を高く」されます。そして、「お返しのできない人」を招くとき、神様が私たちに報いをくださるのです。また、私たちも「お返しができない者」として招かれています。そのことをおぼえて、日々の生活を送ることができるよう祈り求めたいと思います。

『「マーガレット幼稚園誕生会」に思う』

 私は2019年4月から玉村町のマーガレット幼稚園のチャプレンをしています。群馬県においては、高崎も新町も榛名も幼稚園を止めてしまいましたので、聖公会の幼稚園は玉村が唯一となっております。
 月一度、誕生会で礼拝及びお話をしています。理事会に出て意見を言ったり入園式・卒園式・運動会・クリスマス礼拝等の行事でお祈り等をしています。先生方に特別支援教育やミュージック・ケアなどの研修を行ったりもしています。
 今回は、マーガレット幼稚園の誕生会について記したいと思います。
 マーガレット幼稚園は私のチャプレン就任と同時にこども園となり、0歳児から受け入れており、誕生会も聖書朗読とその解説及び祈りという従来のパターンでは対応できないと考え、手遊び歌や絵本を使い、子どもたちの様子を見ながら進めています。
 8月の誕生会は23日に行われました。私はいつも指導案のようなプランを作って臨んでいます。今回はこのようなものでした。

『2022年8月23日 マーガレット幼稚園誕生会「くまちゃんといっしょ も        うだいじょうぶ(詩編23から)」

○  ねらい
 「くまちゃんといっしょ もうだいじょうぶ」のお話から、神様が私たちといつも一緒にいて見守り世話をしておられることを知り、羊飼いのくまちゃんと一緒に祈ろうとする。
○ 聖句
 『主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。あなたがわたしと共にいてくださる。』(詩編23編1・4節から)

1 導入
○ 誕生者祝福
<一人一人の誕生者の頭の上に(距離をおく)手を置いて、名前を呼び祝福する> 
○ 不思議なカバン 
 これは何でしょうか? 不思議なカバンです。このカバンの中にはある動物が入っています。不思議なカバンには歌があります。この歌を歌って、みんなが「出ておいで」と言うとこのカバンから出てきてくれます。こんな歌です。
「不思議なカバン バンバン 不思議なカバン バンバン     
 バン バラバン バン バラバン さあ、出ておいで」
「せえの!」(みんな)「出ておいで!」
(ぬいぐるみの羊を見せながら)「この動物は何ですか?」
 羊さんですね。

○手遊び歌「もこもこひつじさん」
 3年前にした羊さんの手遊び歌を覚えていますか?
 やってみましょう。
 1 もこもこもこもこひつじさん もこもこもこもこひつじさん
   うでももこもこ うでももこもこ
   おなかももこもこ おなかももこもこ
   あったかいね あったかいね
  2 もこもこもこもこひつじさん もこもこもこもこひつじさん
   あたまももこもこ あたまももこもこ
   ほっぺももこもこ ほっぺももこもこ
   あったかいね あったかいね
  (園児たちを認め)「みんなうまいね。」

2 絵本「くまちゃんといっしょ もうだいじょうぶ」 (リンダ・パリー 著 /アラン・パリー 絵 /脇田晶子 日本文) を読む。    
    今日は羊の出てくるこの絵本を読みます。
<園児の様子を見ながら、ゆっくり丁寧に心を込めて読む>

(内容(詩編23から))
神様は羊飼いのよう。わたしは神様の小さな羊
羊飼いは羊を緑の野原に連れていき、きれいな泉で水を飲ませる 
神様は毎日新しい力をくださる
神様は神様だから わたしを正しい道を教えてくださる
暗いところを歩いても わたしはこわくありません。神様、あなたがいっしょだから
羊には緑の草を わたしにはおいしい食事を 神様はいつも準備してくださる
神様、あなたがくださるお恵みはわたしの両手にあふれます
神様の恵みとやさしさにつつまれて わたしはいつまでも神様の家でおそばにいたい

3 振り返り
○ このお話が「いいな」と思った人(挙手を募る)?
○ どこが良かったですか?・・・(自由に発言させ、それぞれ認める) e.g.神さまの夢が分かるところ・・・「神様は羊飼いのよう。わたしは神様の小さな羊」・「暗いところを歩いても わたしはこわくありません。神様、あなたがいっしょだから」・「神様の恵みとやさしさにつつまれて わたしはいつまでも神様の家でおそばにいたい」etc. 
○ このお話で神様がみんなに教えていることはどんなことでしょうか?・・・神様が羊飼い、私たちは羊で、神様は私たちを大事にしてくださる。神様はいつも私たちのそばにいて守ってくださる。etc.
*私たちは羊、神様は羊飼いで、いつも私たちと一緒にいて私たちを見守り世話をしてくださっています。うれしいですね。羊飼いのくまちゃんといっしょにお祈りしましょう。

4 祈り
 父なる神様、私たちを8月の誕生会に集めてくださりありがとうございます。お誕生日を迎えたお友達をお祝いしてください。
 私たちは羊、神様は羊飼いで、いつも私たちと一緒にいて、私たちを見守り世話をしてくださっています。私たちが羊飼いのくまちゃんと一緒にお祈りできるようお導きください。
 これらのことを、主イエス様によってお願いいたします。アーメン 』

 「不思議なカバン」(この子たちに初めてしました)と手遊び歌「もこもこひつじさん」を子どもたちはとても喜んで、私と一緒に動作を交えて歌っていました。絵本「くまちゃんといっしょ もうだいじょうぶ」も集中して見て聞いていました。
 「このお話がいいなと思った人?」と聞くと年少以上のほとんどの子が手を挙げていました。「どこが良かったですか?」と聞くと「最初」「最後」とか絵本をめくりながら「5ページ目」などという子もいました。「全部」と言う子もいました。「このお話で神様はみんなにどんなことを教えているでしょうか?」の発問は難しかったようで答えがなかったので「神様はどのような方でしょうか?」と発問を変えました。すると「守ってくれる」という答えがありました。
 最後のお祈りに集中していない子もいたので、「イエス様(磔刑図がホールの奥にあります)を見ましょう。みんなが見るとイエス様もみんなを見てくれるよ。それはみんなを見守っていることです」と話しました。すると跪きながらイエスを見つめる子が増えました。

 私は38年間、公立学校の教員として勤め、特に後半の28年間は特別支援教育に携わりました(「不思議なカバン」はその時の持ち芸です)が、0歳児から6歳児までの認定こども園の誕生会で、その経験が役に立っていると感じ、感謝しています。これからも「手遊び歌」や絵本等、子どもたちの実態応じた配慮をすると共に、神様の御心を伝える「誕生会」でありたいと願っています。

聖霊降臨後第11主日 聖餐式 『神の国の狭い戸口から入る』

 本日は聖霊降臨後第11主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヘブライ人への手紙 12:18-19、22-29とルカによる福音書13 :22-30。神の国の狭い戸口から入るために、自分を見つめ直し鍛錬し、信仰によって神様の御心に従って今を全力で生きるよう祈り求めました。「狭い戸口」について記された稲川圭三神父の「神さまのみこころ-イエスさまのたとえを聞く-」も文も引用しました。

   神の国の狭い戸口から入る

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第11主日、聖書日課は特定16です。福音書ルカによる福音書13 :22-30です。この箇所では、神の国に入るのは、共に食事をし、教えを受けたと主張するユダヤ人ではなく異邦人へと移行していることが語られます。本日の使徒書はヘブライ人への手紙12:18以下で、パウロが弟子としての在り方、特に、神様に仕えることなどについて語っています。
 今日の福音書箇所について学びたいと思います。
 今日の福音書箇所、ルカの福音書13:22-30節は3つの段落から構成されています。第1段落は22節から24節、第2段落は25節から27節、そして第3段落は28節から30節です。
 
 まず第1段落(22節~24節)です。
 どのような状況の箇所かは、最初の22節に記されています。
「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへと旅を続けられた。」
 イエス様の宣教の生涯は、旅の日々でした。目的地はエルサレムエルサレムはイエス様が十字架に架けられた場所です。イエス様の旅は、十字架への旅だったと言えます。
 続く23~24節はこうです。
「すると、『主よ、救われる人は少ないのでしょうか』と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問には、どんな人が救われるのでしょうか、救われるための条件とは何ですか、という意味が含まれています。
 これに対して、イエス様は、その問いには直接答えられないで、そこにいた群衆に向かって、言われました。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。
 マタイによる福音書では、7章13節に「狭い門から入りなさい。」と記されています。意味は同様です。
 イエス様は、狭い門、狭い戸口から入るように努めなさいと教えておられます。
 イエス様が言われる「門」とか「戸口」から入るとは、どこへ入るのでしょうか? その戸口を入った向こうには、何があるのでしょうか?  
 イエス様に質問している「救われる者は少ないのでしょうか」の「救われる」という言葉は初代教会が好んで用いる熟語で、神の国に入ることや永遠の命を得ることを表しています。ですから、その戸口の向こうにあるのは、「神の国」であると考えられます。神様が統治している「神の王国」です。神様の力が、神様の御心が、すみずみまで行き渡っている状態、そのような世界です。
 「狭い戸口から入るように努めなさい。」は直訳では、「狭い戸口を通って入るために戦いなさい」です。「戦う」と訳した動詞は、スポーツ競技者が勝利を目指して体を鍛え努力することを表す競技用語です。従って、人を押しのけて戦うというよりは、自分を鍛錬する努力を指すと言えます。しかも「戦いなさい」は現在形ですから、今、必要とされる鍛錬が教えられています。
 「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」は直訳では、「というのは、多くの人が入ることを努めるだろう。そして彼らは力がないだろう」
です。ここでは狭くなる理由が表されていると取ることもできます。戸口が閉じられる直前になって大勢の人が殺到します。いちどきに大勢の人が押し寄せるから、戸口が狭くなるのであって、今はまだ広いのかもしれません。今が大切な時だと知り、目覚めて全力を注ぐ者にとって、戸口は決して狭くはない、と考えられます。
 第1段落では、ユダヤ人たちが興味を持っていた問題、つまり「誰が救われ、その数はどのくらいであるか」という問題がイエス様に投げかけられます。イエス様の答えは、直訳では「狭い戸口を通って入るために戦いなさい」と現在形の命令形で語られ、その後に「多くの人が入ることを努めるだろう。そして彼らは力がないだろう」と未来形が続いていました。未来になると、入ろうと努めても、力がなく、失敗してしまうから、今、獲得しようとすることが大事だ、と述べているのだと思われます。

 続いて第2段落(25節~27節)です。
 「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸を叩き、『ご主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。その時、あなたがたは、『ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、私たちの大通りで教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不正を働く者ども、皆私から立ち去れ』と言うだろう。」
 イエス様はこのような神の国の例え話を群衆にされました。
 この時、イエス様を囲んで話を聴いている群衆はどのような人たちだったでしょうか? それは、ユダヤ人たちです。当時のユダヤ人は、自分たちこそアブラハムの子孫であり、神様によって選ばれた民族である、神様から救われることは保証されていると思っていました。律法、掟さえ守っていれば正しい、信仰深いのだと思っていたのでした。
 この例え話では、彼らが「一緒に食べたり飲んだり」したこと、また「私たちの大通りで」教えを受けたことを申し立てて、主人と関わったことのある人物であると主張しますが、主人は「どこの者か知らない。」とそれを否定し、さらに「不正を働く者ども」であると断定し「立ち去」るようにと命じています。イエス様は、「一緒に食べたり飲んだり」したと訴え、「私たちの大通りで」教えを受けたと言っても、誠実な関わりを欠いているなら、場所を共有しただけのことにすぎない。このような人たちに「神の国に入るのは難しい」と語っておられるのです。

 最後の第3段落(28節~30節)では、「神の国」で「宴会の席に着く」者たちが描かれています。ここでは、神様である家の主人は、「あなたがたは神の国から外に投げ出され、泣きわめいて歯ぎしりする。そして、人々は、東から西から、また北から南から来て神の国で宴会の席に着く。そこでは後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」と、言われたのです。
 この「先の人」はユダヤ人を指し、「後の人」は異邦人を指します。ユダヤ人は自分たちこそ救いに近いと慢心し、「今」をおろそかにし、救いから遠ざけられました。むしろ救いから遠いと考えられていた異邦人の中に救いにあずかる者が現れる。しかし、異邦人だからということだけで救いにあずかれるのではなく、また、ユダヤ人だという理由だけで遠ざけられるのでもありません。大切なことは、「今」がどのような時かをわきまえ、それにふさわしく応答することであると言うのです。
 
 今日の福音書箇所から示された神様の御心とはどんなことでしょうか?
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言って、誰が、どんな人が、どれぐらいの人が救われるのかと尋ねた問いに対して、イエス様は「それよりも大事なことがある。あなたがたは、今、神の国の入口から入るために、狭い戸口でも入ろうと努めているのか、真剣に入ろうとしているのか」、と迫っておられます。
 では、「狭い戸口」とは何でしょうか?
 カトリック麻布教会の稲川圭三神父のこの本「神さまのみこころ-イエスさまのたとえを聞く-」の中にこうあります。

『イエス様がそこから(神の国に)入るように努めなさいと教えておられる「狭い戸口」とは「信仰」のことだと思います。信仰によって、今日、神の国に入るのです。』(P.123)
 神様の統治の下で、信仰によって神様の御心に従って生きるか、そうではなく自分の思いのままに生きるのか、イエス様は「今、自分を見つめ直し、自分を鍛錬するのでなければ、神の国に入ることはできないのだ」と迫っておられるのであります。
 戸口がいつ閉じられるかは誰にも分かりません。しかし、イエス様が語りかける「今」は、開かれています。この今を活用して終末の宴に連なるためには、神様に心を開き、イエス様との交わりに入れるようにと、自分自身と「戦う」必要があります。長く信仰生活を送っていると、教会に通っているだけで自分は救いにあずかれるという慢心があるかもしれません。神様は誰にも戸を開いています。それを生かすかどうかは、その人自身の信仰にかかっているのです。

 皆さん、私たちは神の国の宴会に招かれています。「今」がどのような時かをわきまえ、それにふさわしく応答することが求められています。神の国の狭い戸口から入るために、自分を見つめ直し鍛錬し、神様の御心に従って信仰によって今を生きることができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 

『「2022年群馬県カトリック平和旬間行事」に思う』

    先日、13日(土)に「2022年群馬県カトリック平和旬間行事」にシンポジストとして参加しました。今回はこの行事から思うことを記します。

 基調講演の松浦悟郎司教様のお話から多くの示唆を得ましたが、特に最後にお話しになった「9条を変え、軍隊を持った場合」と「9条を今より徹底する場合」の比較が印象的でした。前者は「侵攻された場合、軍事で撃退できる。その場合の死者は、多大。破壊度はすさまじい」で、後者は「侵略を許す。死者は少ない。破壊度は少ない」。そして結論として「ただし、侵略される可能性は、9 条を活かして友を作った方がはるかに少ない」と話されました。
 近隣諸国が軍備増強してきて、「我が国はそのままでいいのか」という議論がありますが、相手が10増強したら、こちらは11にして、そうすると相手が12にして、今度はこちらが13にするということで、きりがありません。それをやめれば、確かに侵略されるかもしれませんが、軍備を多く持っている場合より死者は少なく破壊度も少ない、。という論理に共感しました。歴史を見ても第二次大戦で早く降伏したイタリアは、ドイツや日本より空襲も死者も極端に少なかったことを思い出しました。
 続くシンポジウムでは、4人のシンポジストがまず10分ずつ話しました。トップバッターは私でしたが、平和のためにはたらくことがイエス様の御心にかなうこと等について話しましたが、詳しい内容は最後に記します。
 2番手は日本ハリスト正教会前橋教会の桑原建夫司祭で、ロシアの中にも多くの戦争に反対する良心が存在すること、関係者でなければわからないお話を伺え、貴重でした。3番手はカトリック渋川教会のオリビエ・シェガレ司祭で、平和について御自身の出身国であるフランスとの比較をされ、ディベートの重要性を話されました。4番手は前述したカトリック名古屋教区の松浦悟郎司教で、戦争や平和という話では敬遠する人もいるが、痛みの連帯・苦しみの連帯ならすべての人が持っているものなのでつながりやすいのではないか、信頼の核を作ることが大事と話されました。
 この後に、私のシンポジストとしての話を記します。

群馬県カトリック平和旬間シンポジウム教話>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私は聖公会前橋聖マッテア教会の牧師で、司祭の福田弘二と申します。
 私はもともと養護学校の教員で、退職してから神学校に行き2019年に司祭に叙階された者ですが、今回、35年以上の付き合いがある岩﨑清隆さんからお話があり、この平和旬間に参加させていただくことになりました。
 さいたま教区2022年平和旬間行事のテーマは「キリスト者にとっての平和の志向」で、先程、松浦司教様から基調講演があり、キリスト者にとっての平和を直視する意味、また、直視すべきこと等についてお話がありました。
 そして、シンポジストの最初として、キリスト者として平和をどうとらえ、どう取り組んでいくことが主の御心かということについてお話しできればと思います。
 
 最初に、事前にお送りしました「ウクライナのための祈り」を、皆様一緒に唱えていただきたいと思います。資料をご覧ください。この祈りはカンタベリー大主教とヨーク大主教が連名で作成したものです。私が「ウクライナのための祈り」、と言いましたら一緒に「正義と平和の神よ」と続けてお祈りください。

ウクライナのための祈り
正義と平和の神よ、 
わたしたちは今日、ウクライナの人々のために祈ります。 
またわたしたちは平和のために、そして武器が置かれますよう祈ります。 
明日を恐れるすべての人々に、
あなたの慰めの霊が寄り添ってくださいますように。 
平和や戦争を支配する力を持つ人々が、知恵と見識と思いやりによって、
み旨に適う決断へと導かれますように。
そして何よりも、危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子ども
たちを、あなたが抱き守ってくださいますように。 
平和の君、主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン。

 今年の2月24日にウクライナで戦闘が始まり、3月2日の「灰の水曜日」の礼拝からマッテア教会では毎主日及び祝日の礼拝で、この「ウクライナのための祈り」を捧げています。
 また、聖餐式では、毎主日、奉献唱に続いて、塩田泉神父様がお作りになった「キリストの平和」の聖歌を歌っています。
「♪~キリストの平和~が、わたしたちのこころの、すみずみにまで~、ゆきわたりますように~♪」(歌う) 
 この「すみずみまでゆきわたるキリストの平和」とは何でしょうか?

 そのことに関係して私が思い浮かべるのは詩篇第23編です。今日はこの絵本(「かみさまはひつじかい しへん23(ターシャ・テューダ・え)」をお読みします。この絵本はむかしNHKで放映していた「大草原の小さな家」のローラのような少女が登場します。

詩編23編
1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 
2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 
3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 
4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 
5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 
6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

  この詩は「主は羊飼い」の言葉で始まります。これは神様が羊飼いで、私たちは羊だということです。この詩では、羊飼いである神様に導かれていく歩みを「わたしには何も欠けることがない。」と歌い、その豊かさを具体的に述べています。羊飼いが、緑の牧場に羊を導き、牧草を食べさせ、また、水場に伴われ、水を飲ませるように、神様は、厳しい日々の私たちの歩みを支え導き、必要を備えて下さると歌っております。
 そして、この状態こそが「平和」で、ヘブライ語で「シャローム」と言われる状態と考えられます。「シャローム」という言葉は「何も欠けていない状態、そこなわれていない十分に満ち足りている状態」を指しています。単に、「戦争でない」とか「穏やかに」というだけではない、「真に望ましい、救いに満ちた状態」を表す言葉です。この平和は、神様が共にいてくださることにより与えられるものです。これこそ「キリストの平和」であると考えます。
 
 ルカ福音書10章では、イエス様は弟子たちを派遣するに当たって「まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」とおっしゃっています。これは祈りであり、「神様からの救いが満ちるように、恵みと祝福がありますように」との祈りです。
 イエス様は弟子たちに、そして私たちに、そのように祈る「平和の使徒(平和の使い)」になることを求めておられると思います。
 「平和の使い」と言えば、群馬県で育った人なら誰でも知っている上毛かるたの読み札「平和の使い、新島襄」を思い浮かべます。

    ここでの「平和」も単に戦争状態でないということではなく、「イエス様によってもたらされる恵みと祝福」のことだと言えます。それを宣べ伝えるのが「平和の使い」であり「平和の使徒」であると思います。仏教の力の強い京都に同志社というミッションスクールを創立するなど、主にある平和を宣べ伝えた新島襄には多くのあつれきや葛藤がありました。彼は、そのあつれきや葛藤の向こうに主の平和を見ていた「平和の使い」でありました。私たちもそのような「平和の使徒(平和の使い)」になるよう求められていると考えます。
 しかし、それは自分の力でなれるものではありません。私たちが「平和の使徒(平和の使い)」にしていただけるよう、そして私たちが主にある平和、イエス様によってもたらされる恵みと祝福を宣べ伝えることができるよう祈り求めたいと思います。
  そして、それこそが私の思う「キリスト者にとっての平和の志向」であります。栄光は父と子と聖霊に、初めのように、今も、いつも世々に。アーメン

 

 

聖霊降臨後第10主日 聖餐式 『イエス様が投じる信仰の火』

 本日は聖霊降臨後第10主日です。新町の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヘブライ人への手紙 12:1-7、11-14とルカによる福音書12:49-56。イエス様に目を向け、イエス様の十字架を理解し、イエス様が投げられた「信仰の火」が教会に、また私たち一人一人に燃え上がるよう祈り求めました。冒頭、新町や前橋の教会を紹介しているコミュニオン(東京教区時報)第61号も活用しました。

   イエス様が投じる信仰の火

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 先日7月24日に発行された東京教区時報のコミュニオン第61号に当教会や
前橋聖マッテア教会の紹介記事が掲載されています。その抜粋のコピーを受付に置きました。御覧いただけたでしょうか?

 さて、本日は聖霊降臨後第10主日、聖書日課は特定15です。福音書ルカによる福音書 12:49-56です。この箇所では、イエス様が地上に来たのは火を投じるためであることが語られています。そのため分裂が引き起こされ、それは家族にまで及び、「今の時を見分けること」が重要であると述べられています。また、使徒書はヘブライ人への手紙12:1以下で、パウロが弟子としての在り方、特に、イエス様を見つめることやすべての人と共に平和を追い求めることなどが求められていることを語っています。

 福音書を中心に考えます。今日の箇所(ルカ 12:49-56)は大きく2つの部分からなっています。前半部分は49-53節、後半部分は54-56節です。

 まず前半を見ていきましょう。49-53節、聖書協会共同訳聖書の小見出しは「平和でなく分裂を」とありました。
 冒頭の49節はこうです。「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
 これはイエス様が弟子たちに語っている言葉です。イエス様が地上に来た目的、それは火を投じるためだというのです。この火は「信仰の火」であると考えられます。旧約聖書は「火」の役割を「清める力」、「識別する力」、「裁きの力」として示しています。ここでの意味はいずれも可能であり、「敵対や分裂を生じさせる燃えるような熱意」の意味とも考えられます。後半の文章、「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」は、イエス様がその「信仰の火」を、「清め、識別し、裁く火」が燃えることを望んでいることを示しています。
  続く50節にこうあります。「しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。」
 ここの「洗礼」は、イエス様は洗礼をすでに洗礼者ヨハネから受けていますので、その意味ではありません。ここでの「洗礼」は「十字架に至る苦難、十字架上の死」を指しており、しかもこの苦難は、人々の罪を贖うための苦しみであります。
 さらに「洗礼がある」「それが終わる」と訳されている言葉は、原文を直訳すると「洗礼される」「完成される」であり、それは、どちらも受動形で、神が動作の主体であることを婉曲的に示す受動形(神的受動形)と考えられます。そうであれば、イエス様の十字架を完成させるのは神様であり、そこには神様の意思が働いている、と言えます。
 51節です。「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
 イエス様が地上に来たのは、「平和」ではなく、「分裂」を与えるためだと述べています。これまでのイエス様の行ってきたこと、例えばイエス様の足を涙でぬぐった「罪深い女」に、「あなたの信仰があなたを救った。平和において(安心して)行きなさい」と言って彼女を励まし(ルカ7:50)たり、72人の弟子を派遣するときには、家に入れば真っ先に「この家に平和があるように」と告げなさいと指示している(10:5)ことから考えれば、イエス様が来たのは「平和」をもたらすためであるはずです。しかし51節では、「地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。・・・分裂だ。」と述べており、イエス様の普段の発言とは矛盾しているとも思えます。
 ここで「分裂」と訳した語は原文のギリシャ語では「裂け目・不一致」を意味し、「人間が神様から離れ人間同士の関係が分裂している状態」です。それは言い換えれば「イエス様の意図に反して起こっている人々の状態」です。イエス様が来たから分裂や裂け目が生じたのではありません。人々が気づかなかっただけで、分裂は初めから、神様と人の間に、そして人と人の間にあったのです。イエス様の到来は神様から離れた人間の姿を明らかにし、各自が自己を中心にして生きていることを暴露するのです。それをイエス様は旧約聖書ミカ書7章6節からの引用によって示しています。それが次の52-53節です。
 「今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと 対立して分かれる。」
 53節の「母」と「しゅうとめ」が同一人物なら、登場するのは「五人」となります。この家族間の対立は、真の光であるイエス様によって照らし出された分裂や裂け目であります。

 ここまでが前半、後半部分は54-56節です。この小見出しは「時を見分ける」とありました。ここは簡単に触れます。
 この箇所はイエス様が群衆に語った言葉です。雲が出るのを見るとき、南風が吹いているのを見るとき、「にわか雨になる」「暑くなる」とそれが示していることをあなたがたは読み取ることができる。そのことをあなたがたは知っているのに「どうして今の時を見定めることができないのか。」と、「時」を見ようとしない者たちの偽善性が指摘されています。この場合の「時」は原文では「カイロス」で、イエス様の宣教活動における「決定的な神の時」であり、イエス様到来のこの時を「救いの時」と認めない者は裁かれる、との警告と考えられます。

 今日の箇所を通して、神様が私たちに伝えようとしていることは何でしょうか? キーワードは「火」「平和」「分裂」であると思います。イエス様はこの地上に「信仰の火」を投じるためにやってきました。神様が統治する神の国、すべてが平安である真の「平和」をもたらすためにイエス様はこの世界にやってきました。それが「分裂」をもたらしました。しかし、イエス様の到来によって分裂が生じたのではありません。それはもともと神様と人、人と人との間にあったのですが、イエス様によって明らかになったのです。隠されていた家族間の分裂も明らかになります。それは神様から離れて自己中心に生きようとする人間の現実です。イエス様は分裂を明らかにします。この「分裂」を乗り越えさせるのはイエス様その人です。イエス様は、十字架という「洗礼」によって、この分裂を身に背負い、神様と人の間に平和をもたらしました。イエス様の十字架は神様と人との分裂(裂け目)を解消する架け橋です。イエス様が分裂を明らかにするのは、架け橋がどこにあるかを示すためであり、真の「平和」の源泉(みなもと)を明らかにするためなのです。

 私たちがなすべきことは何でしょうか? それは、本日の使徒ヘブライ人への手紙 12:2に「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめ」とあるように、イエス様を見つめることではないでしょうか? さらに2節の後半から3節にこうあります。「この方は、ご自身の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい。」
 このことが私たちに求められていると思います。イエス様に目を向けイエス様のことをよく考えるなら、「神の国が近づいた」という決定的な「時」が来ていることに気づきます。イエス様は多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、死者を蘇らせて、神様の力が人々の間に働いていることを示しました。イエス様が起こす数々の奇跡は「しるし」であり、目に見えない神の力を見させるものです。しかし、ある人々はイエス様の奇跡を見ても、その「しるし」が指し示す意味を読み取ることができません。それはなぜでしょうか? それは、「信仰の火」が燃えていないからではないかと考えます。イエス様に目を向け、イエス様の十字架の意味することを理解し、イエス様が投げられた「信仰の火」を燃え上がらせることが求められているのです。。
 
 私たちはイエス様をしっかり見つめ、神様の「愛の火」「信仰の火」が教会に、また私たち一人一人に燃え上がりますよう、主の導きを祈り求めたいと思います。

 

『ザ・ローリング・ストーンズの「Salt Of The Earth(地の塩)」に思う』

 先主日の説教で、主に従う小さな群れに神は神の国をお与えになることを述べました。
 この世で小さくされた人々が祝福されるということで思い浮かぶ曲としては、前々回のブログで紹介したザ・ローリング・ストーンズのLP『ベガーズ・バンケット(乞食の宴会)』というB面最後に収録されている「Salt Of The Earth(地の塩)」があります。
  私は今回、久しぶりにこのDVDでこの曲を聴き(見)ました。

 この「ロックン・ロール・サーカス」は1968年12月に収録され、英国では翌年1月1日に放映され、しばらく封印され2004年にDVDが出て、私はその折りに購入しました。今年ちょうどストーンズ結成60周年等を記念して、8月5日から渋谷Bunkamura等でロードショーが始まっています。
 「Salt Of The Earth(地の塩)」は以下のアドレスでこの映像を見る(聞く)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=n06f6et66NQ

 この曲もミック・ジャガーキース・リチャーズとの共作ですが、最初のリード・ボーカルをキース・リチャーズが珍しく取っていますので、彼の作品であると考えられます。
 この曲の歌詞と訳を示します。

Let's drink to the hard working people
Let's drink to the lowly of birth
Raise your glass to the good and the evil
Let's drink to the salt of the earth
肉体労働者たちに乾杯
下層の生まれに乾杯
善悪違わず杯を上げよう
地の塩に乾杯しよう

Say a prayer for the common foot soldier
Spare a thought for his back breaking work
Say a prayer for his wife and his children
Who burn the fires and who still till the earth
歩兵部隊に祈りをささげよう
骨を折るほど過酷な仕事に
妻と子供に祈りをささげよう
火を絶やさずに耕す人に

And when I search a faceless crowd
A swirling mass of gray and black and white
They don't look real to me
In fact they look so strange
顔なき人の群れに入れば
渦巻く黒と灰と白
現実を映すというより
奇妙なものに見えてくる

Raise your glass to the hard working people
Let's drink to the uncounted heads
Let's think of the wavering millions
Who need leaders but get gamblers instead
肉体労働者たちに杯を上げよう
数えられない人に乾杯
どっちつかずの多数に思いを
リーダー不要のギャンブラーに

Spare a thought for the stay-at-home voter
His empty eyes gaze at strange beauty shows
And a parade of the gray suited grafters
A choice of cancer or polio
在宅投票者のことも忘れないでくれ
うつろな目で美人コンテストや
グレースーツの労働者を見ている人に
癌をとるのか痴呆をとるか

And when I look in the faceless crowd
A swirling mass of grays and black and white
They don't look real to me
Or don't they look so strange
顔なき人の群れをのぞけば
渦巻く灰と黒と白
現実に映るのではなく
奇妙なものに見えてこないか

Let's drink to the hard working people
Let's think of the lowly of birth
Spare a thought for the rag taggy people
Let's drink to the salt of the earth
肉体労働者たちに乾杯
下層の生まれに乾杯
こもかぶりのことも忘れないでくれ
地の塩に乾杯しよう

Let's drink to the hard working people
Let's drink to the salt of the earth
Let's drink to the two thousand million
Let's think of the humble of birth
肉体労働者たちに乾杯
地の塩に乾杯しよう
二十億人に乾杯しよう
卑しき生まれの人に思いを

 キース・リチャーズはじめローリング・ストーンズのメンバーは、自分たちが労働者階級の出身であるという意識があったと考えられます。労働者階級の多くは肉体労働者であり、その人たちが「地の塩」であるというのです。
「地の塩」はマタイによる福音書 5章13節のみ言葉にあります。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
“You are the salt of the earth. But if the salt loses its saltiness, how can it be made salty again? Itis no longer good for anything, except to be thrown out and trampled underfoot.” (NIV)
 「地の塩」である主に従う小さくされた人々こそが、かけがえない存在であることを示しています。労働して汗をかく肉体労働者こそが、世の中の腐敗を防ぐ塩のような存在であると、この曲で言っているように思います。

 主に従う小さくされた人々が祝福されます。私たちも日本にあって本当に小さな群れですが、「地の塩」として世の中の腐敗を防ぐ塩のような存在であるとイエス様はおっしゃっているのだと思います。そのことをおぼえ、「地の塩」として人生を歩んでいきたいと思います。

 

聖霊降臨後第9主日 聖餐式 『神の国で給仕される主イエス様』

 本日は聖霊降臨後第9主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 聖書箇所は、ヘブライ人への手紙 11:1-3、8-16とルカによる福音書12:32-40。主に従う小さな群れに神は神の国をお与えになり、主イエス様が私たちに給仕してくださることを知り、天に宝を積む生活をし、すべての希望を神に置く信仰を自分の死や主の来臨まで持ち続けるよう祈り求めました。また、英語の聖書(NIV)の文も活用しました。

   神の国で給仕される主イエス

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は聖霊降臨後第9主日、聖書日課は特定14です。福音書ルカによる福音書 12:32-40で、この箇所でイエス様は、主に従う小さな群れに神様は神の国を与えるゆえ、宝を天に積む生活をし、すべての希望を神様に置く信仰を求めています。その信仰はキリストが再び来臨する時まで保たれるべきものです。また、使徒書はヘブライ人への手紙の11章で、「信仰とはどのようなものか」をパウロが語っています。

 福音書を中心に考えます。今日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちに語っていて、先週の「愚かな金持ち」の話の後、「思い煩うな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られたものです。今日の箇所は大きく2つの部分からなっています。前半部分は32-34節、後半部分は35-40節です。

 前半は、「宝を天に積みなさい」ということが記されています。
 32節で 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」 とイエス様はおっしゃいました。この当時、弟子たちはユダヤの社会の中で小さな群れでした。その弟子たちに、「恐れるな」とイエス様はおっしゃいます。私たちキリスト者も、今の日本の社会では本当に小さな群れです。その私たちにもイエス様は「恐れるな」とおっしゃっています。また、この社会には小さくされた人々が多くいます。その人達にも「恐れるな」とイエス様はおっしゃっております。そしてそのような小さな群れに、父なる神様は喜んで神の国、神が統治される世界を与えられるとイエス様はおっしゃっておられるのです。これは福音(良い知らせ)であり、大きな喜びです。この喜びにふさわしい行動が33・34節に示されています。こうあります。
「自分の財産を売って施しなさい。古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
 この世の財産を売って自分から放し、他者へと施す。ここから尽きることのない天の宝との関係が始まります。「あなたがたの宝」は「天の中に」あります。天は「盗人も近寄らず」「虫も食い荒らさない」ところですから、宝は盗み取られることはなく、財布もぼろぼろになることはないのです。
 天における報いは、地上のものと異なり、朽ちず、損なわれず、いつまでも保ちます。だから、地上のことよりも、天のことや神様のことを考えていなさい、「宝を天に積みなさい」とイエス様はおっしゃっています。

 後半は、主人がいつ帰ってきてもいいように「目を覚ましていなさい」というたとえ話が述べられています。主人とは神様のことと考えられますから、神様がいつ来られてもいいように備えなさいということを意味しています。神様が来られるというのは、一つには、私たちが死を迎える時とも考えられます。日本語でも「お迎えが来る」という言い方をしますが、まさに死の時に神様がお迎えに来るというのです。また、もう一つは、キリストが再臨され、この世が裁かれ、神の国が完成する時です。このどちらも私たちには、いつ来るのか、分かりません。このいつ来られるのか分からない神様が、そしてキリストが、いつ来られても良いように準備することが求められています。                         
 少し詳しく見ていきましょう。
 35節「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。」
 腰に帯を締めるとは、仕事をしやすいように、衣の裾を上げることです。今日、私が着ている祭服のアルブでも腰に帯を締めています。これによって仕事がしやすくなっています。また、ここは、英語の聖書(NIV)では「Be dressed ready for service and keep your lamps burning, 」とありました。

 つまり、サービスのため身支度を調えなさい、そして、あかりをともし続けなさい、と命じられているのです。あかりとは何のことでしょうか? これは「信仰のあかり」と考えられます。
 では信仰とは何でしょうか? 今日の使徒書、ヘブライ人への手紙11:1-3にこうあります。
「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。昔の人たちは、信仰のゆえに称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって造られ、従って、見えるものは目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」
 信仰とは希望を信じ、この世界を神様が創造したことを認めること。何かが成ってからとか、何かを理解してから、ではなく、はじめに信じる。そうすることによって、新しい現実・理解が生まれてくる。そうパウロは語っているように思います。
 私たちは、サービスのため身支度を調え、信仰のあかり・灯をともし続けるよう命じられていますが、福音書の36節でその具体策が示されます。それは「主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」ということです。
 さらに、37節後半にはこうあります。
「よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。」
 ここでは常識では考えられないことが語られています。主人が僕の給仕をするるというのです。主人であるイエス様自身が腰に帯を締めて、私たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくださるのです。これはイエス様が再び来られる時の神の国の食卓を表しているとされています。さらに言えば、この食卓は、神の国の先取りである聖餐式を表しているとも考えられます。私たちが毎主日行っている聖餐式は、実はイエス様ご自身が給仕してくださる神の国の食卓であると言えます。なんともありがたい食卓に私たちは毎主日預かっているのです。
 38節です。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」
 これは、イエス様が今日、戻ってこられるかもしれない。今、この時間に戻ってくるかもしれない、と考えることです。
 当時のユダヤの婚礼は宴を含めいつ終わるか分からないほど長いもので、通常1週間、時には2週間続くようなこともあったそうですが、その終わりが真夜中や夜明けだとしても、主人が家に帰ってくるのは確実です。主人が家に帰ってきた時に「目を覚ましている」僕たちは大きな喜びに出会うことになります。
 39―40節はこうです。
「このことをわきまえていなさい。家の主人は、盗人がいつやって来るかを知っていたら、みすみす自分の家に忍び込ませたりはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 39節のたとえで、家の主人の不意をつく盗人の襲来を述べることによって、キリストの再臨の突然性を強調しています。家の主人は盗人が襲来する時刻を知らないから、泥棒に入られてしまう。それほどに、盗人は不意をついて侵入するのです。それと同じように「人の子、イエス様」も不意をついて到来します。しかし常に目を覚まして「用意して」いれば、不意をつかれることはありません。主人が帰るという希望に励まされ、目を覚まして信仰にしっかりと立ち、主の到来を待つことが勧められています。

 キリストを信じる者の特徴は「目覚めて待つ」ことにあります。目覚めて待つためには、神の思いに添って、天に宝を積み、心を天に向ける必要があります。神の国が必ず与えられることを信じて待つのです。主キリストが準備し、給仕する食事があると知っている者は、信仰に立って、希望という「灯」を掲げているのです。

 主に従う小さな群れに神様は神の国をお与えになります。そして、宝を天に積み、神様がいつ来られてもいいように目を覚まして信仰にしっかりと立つことが勧められています。それができるのはイエス様自身が腰に帯を締めて、そばに来て給仕してくださるからです。
 
 皆さん、神様は主に従う小さな群れに神の国をお与えになります。そして、目を覚まして主イエス様を待っていれば、イエス様ご自身が私たちに霊の糧を給仕してくださるのです。ですから、私たちは天に宝を積む生活をし、すべての希望を神様に置く信仰を、自分の死や主の来臨まで持ち続けたいのであります。そうできるよう日々祈り求めて参りたいと思います。