マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

復活節第3主日 聖餐式 『イエス様とペトロの言動に倣う』

 本日は復活節第3主日です。前橋の教会で聖餐式を捧げました。
 本日の聖書箇所は、エレミヤ書32:36-41とヨハネによる福音書20:19-31。復活したイエス様がティベリアス湖で弟子たちに現れ行った言動に目を留め、イエス様は私たちの日常にもおられることを知り、日々の生活の中でイエス様の御言葉に聴き従い、神の道を歩んでいくよう祈り求めました。「舟の右側」という、主に教役者を対象としたキリスト教総合誌にも言及しました。

   イエス様とペトロの言動に倣う

<説教>
父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 本日は復活節第3主日です。福音書箇所はヨハネによる福音書21:1-14です。ヨハネ福音書は本来20章で終わっていたと考えられますので、21章は後に付け加えられた部分ということになります。本日の箇所は、遠い昔の出来事ではなく、今も私たちの中で繰り返される出来事として読むことができます。

 本日の箇所の前後も含めた概略はこのようです。
『復活したイエス様はエルサレムで弟子たちに会われた後、ガリラヤに行くように命じられました。弟子たちはガリラヤでイエス様を待ちました。しかし、イエス様は現れず、弟子たちは不安に駆られて、元の職業である漁師の生活に戻りました。彼らはティベリアス湖で夜通し漁をしましたが、何も捕れませんでした。ティベリアス湖はガリラヤ湖の別名で、この地の王が当時のローマ皇帝ティベリアスへの忠誠を示す意味で湖畔の街をティベリアスと名付けたことにちなみます。夜が明ける頃、イエス様がその湖の岸に現れましたが、誰もそれがイエス様だとは気づきませんでした。イエス様は「舟の右側に網を打ちなさい。」と言われ、それに従ったところ、153匹もの多くの魚が捕れました。弟子たちはそれがイエス様だと分かり、ペトロは上着をまとって湖に飛び込み、イエス様の方へ向かいました。他の弟子たちは舟で岸に戻ってきました。イエス様はすでに炭火をおこし、食事の準備をしており、パンと魚を弟子たちに与えられました。』
 このような話でした。
 
 本日は、復活後、弟子たちに現れたイエス様の言動と、弟子たちのリーダーであるペトロの言動にスポットを当てて見ていきたいと思います。
 ペトロは再び、主に従う前の生活に戻ろうとしています。一度は舟も網を捨てて主に従う者となったはずなのに、舟と網を手にし漁を行いました。彼は復活の主にお会いするという素晴らしい体験をした後、日常の生活に戻っていたのです。
 
 今回、まず注目したいのは5・6節です。こうあります。『イエスが、「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」と言われると、彼らは、「捕れません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。』
 漁師としてのプロであるペトロたちですが、イエス様の言葉と命令に従った時に驚異的な奇跡、大きな恵みが与えられました。これらのことに気づく信仰の目が必要であり、大切なのだと思います。
 なぜ右側なのでしょうか? 実は聖書では、「右側は神の道であり、左側は人間の道」という象徴として用いられています。一つの例では、最後の審判で神様は人を右側と左側に分け、右側の人を「天の御国」に入れ、左側の人を「永遠の火」に落とします。右側の人は神様の御心を行った人で小さな者のために尽くした人、左側の人は人間の欲望に生き自分のことしか考えない人です。
 左側にいて、人の思いのままに行動するとき、そこには滅亡があります。右側に身を置き、神様の思いに従って生きるとき、そこに祝福があるのです。

 続く7節はこうです。『イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。』
 イエスの愛しておられたあの弟子とは、愛弟子であるヨハネのことと考えられます。ヨハネは、イエス様から愛され受け入れられているという信頼を持っていました。そのヨハネが大漁という出来事に込められた「しるし」を見抜き、この方の正体に気づいたのです。
 そして、ペトロはイエス様が岸にいると分かったとき、上着をまとってすぐに湖に飛び込み、イエス様の方に向かいました。ここに私は、私たちの信仰者としての姿があるように思います。日常の中で、普段の仕事や生活をしているときに、主の臨在、神様が、イエス様がここにいてくださるということに気づかされるときがあります。そのとき、上着を着るように身を正してイエス様の方に向かうということ。ペトロは弟子たちのリーダーでしたが、弟子たちに言葉で指示するのでなく身をもって行動で示したのでした。

 9節はこうです。『陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚が載せてあり、パンもあった。』
 イエス様は、お腹をすかし疲れた弟子たちのために、すでに食事の準備をしてくださっていたのです。イエス様は私たちの給仕をしてくださる方であり、もてなし(サービス)をしてくださるお方なのであります。

 そして、11節にこうあります。『そこでシモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。』
 当時知られていた魚の種類が全部で百五十三種類だったそうです。それは世界に存在する様々な人種や民族の象徴です。つまり「世界中のあらゆる人種、民族の人々が、イエス様の救いの網の中に入れられる。」ということだと考えます。

 さらに、12・13節の中にこうあります。『イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。・・・イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。』
 この朝の食事は、聖餐式を想起させます。イエス様は優しくそれをするよう弟子たちに声をかけておられます。イエス様は私たちをも食卓に招き、日々の糧であるパンや魚をふるまってくださるお方です。

 皆さん、復活されたイエス様は私たちの日常生活の中にもおられ、適切な助言を与え日々の糧を与えてくださっています。イエス様が弟子たちに言われた「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」との御言葉は、私たち一人一人にも呼びかけられています。「舟の右側」というキリスト教総合誌がありますが、イエス様が命じられた「舟の右側に網を打ちなさい。」という御言葉に聞き従っていきたいと思います。

 さらに、イエス様は主日聖餐式等を通して、御自身の御体と御血をお与えになっていることもおぼえたいと思います。

 今日の福音書を通して、神様は、私たちが日々の生活の中でイエス様の御言葉に聴き従い、神の道を歩むことの重要性を教えています。私たちも、ペトロのように主が共にいてくださることに気づいたときは、身を正してすぐにイエス様の方に向かいたいと願います。
 イエス様は御言葉と聖餐によって御自身を現し、私たちの給仕をしてくださっています。その恵みをおぼえ聖餐に預かり、日々の生活の中で御言葉に聞き従き、小さな者に仕え神の道を歩むことができるよう、そして、私たちの信仰の目を主が開いてくださるよう、祈り求めて参りたいと思います。

 

映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」に思う

 前回のブログの説教原稿で、復活したイエス様が弟子たちに新たな使命を与え『「使命」という字は「命を使う」と書きます。』と記しました。この言葉は、2週間ほど前に前橋シネマハウスで見た映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」の中で、主人公の矢島楫子が晩年の講演会で発言したものです。楫子はこう言っていました。
「運命とは、命を運にあずけることです。大切な命を運に任すのではなく、これからの女性は、使命を持って生きてください。使命とは、命を使うことです。自分の命は、自分で使うのです。」

 映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」は三浦綾子の原作により、女性の地位向上に尽くした矢嶋楫子の生涯を映画化したものです。メガホンをとったのは90歳の女性映画監督である山田火砂子で、主役の常盤貴子とは15年前の「筆子その愛」でもタッグを組んでいました。私は「筆子その愛-天使のピアノ」以来、山田火砂子監督の作品を「大地の詩-留岡幸助物語」、「母 小林多喜二の母物語」、「一粒の麦 荻野吟子の生涯」と観てきましたが、今回の作品も期待にたがわない見応えのある作品に仕上がっていました。
 映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」のダイジェスト版は次のアドレスで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=5_Bw81OHk-Q


 矢島楫子は女子学院やキリスト教矯風会を作り、一夫一婦制、婦人参政権、禁酒、廃娼運動、アメリカでの軍縮会議に参加など数多くの功績を残しました。
 以下、映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」の公式ホームページにある年表を示します。
1833(天保4)年
肥後(現:熊本県)の益城町一帯を治める惣庄屋の矢嶋家の六女として生まれる。
1858(安政5)年・25歳
兄・直方の勧めにより、横井小楠門弟の林七郎と結婚、三児をもうける。
1868(明治元)年・35歳
夫の暴力や酒乱により離婚。矢嶋家に復籍する。
1872(明治5)年・40歳
兄の看病のため上京。その途上、かつ子から「楫子(かじこ)」と改名する。
兄のもとに住み小学校教員伝習所に学ぶ。
1873(明治6)年・41歳
小学校教員伝習所を卒業し、小学校の教員となる。
1875(明治8)年・43歳
書生である鈴木要介との間に娘・妙子を出産。農家に預ける。
1879(明治12)年・47歳
宣教師であり教育者のツルー夫人の影響によりキリスト教に入信し受洗。
1886(明治19)年・54歳
日本キリスト教婦人矯風会」を設立し、初代会頭に就任。
元老院への「一夫一婦制」の建白書提出をはじめとし、婦人参政権、廃娼・禁酒運動、男女同権等に尽力する。
1890(明治23)年・58歳
キリスト教系女学院二校を合併(現女子学院)を創立。初代校長となる。
1922(大正11)年・89歳
ワシントン平和会議に出席(三度目の渡米)し、その功績を讃えられハーディング米大統領より記念の花器を贈られる。
1925(大正14)年・93歳
死去。従五位勲五等に叙される。

 私がこの年表で注目するのは、41歳の時に小学校教員伝習所を卒業し小学校の教員となったこと、47歳で受洗したこと、54歳の時に「日本キリスト教婦人矯風会」を設立し初代会頭に就任したこと、58歳で女子学院を創立し初代校長となったこと、89歳で渡米しワシントン平和会議に出席したことです。必ずしも若くありません。というか、人生に定年はなく「ある程度の年になったら引退し悠々自適に過ごす」という生き方へ警鐘を鳴らしていると考えます。人生に「遅すぎる」ということはないのだと思います。そして、それは御年90歳の山田火砂子監督の生き方にも重なります。監督は、あるキリスト教番組の中で「農家の人が畑で土を耕しながら突然倒れて召されるように、生涯現役で映画を作りながら死んでいけたら本望です」というような発言をしていました。
 矢島楫子や山田火砂子監督のように、生涯現役で、神様から託された使命を忠実に果たして召されたいと切に願います。
  映画「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」のことを何名かの方に話しましたら、「私も見たかった」という声が複数ありました。この映画をもっと多くの人に観ていただきたいと思いますので、近いうちに以前「筆子その愛」を上映してくれた高崎のミニシアターに行って、この「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」の上映をお願いしようと思います。上映が決まりましたらお知らせしますので、皆さんぜひご覧ください。

復活節第2主日 主教巡回・堅信式 『日々、聖霊を受け生きる』

 本日は復活節第2主日です。新町聖マルコ教会では、主教巡回及び堅信式がありました。新町の教会としては約10年ぶりに行われた堅信式でした。式開始の5分前の鐘が鳴ると同時に聖堂は静まり、髙橋主教様の司式・説教、福田司祭の補式により、厳粛な雰囲気で聖餐式が捧げられました。

 堅信を受領されたのはソフィア藤原京子姉です。礼拝後の主教様の挨拶の中で、主教様は姉の洗礼名ソフィアに触れ「本当の知恵(ソフィア)とは神様とつながること」と話され堅信の意味について知ることができました。

 

 本日の聖書箇所は、 ヨブ記42:1-6 とヨハネによる福音書20:19-31。私が前橋の教会の礼拝があればしたであろう説教原稿を以下に記します。復活された主が共にいてくださり、聖霊を送ってくださることを知り、日々、その聖霊を受け、復活のキリストの証人としての使命を果たせるよう祈り求めたいと思います。

   日々、聖霊を受け生きる

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 先主日は復活日(イースター)で、前橋の教会では、礼拝後に、新築なった
会館で一人ずつ近況を報告し合い、久しぶりの信徒同士の交わりの時を分かち
合うことができ、感謝な時でありました。
 そして、本日は復活節第2主日です。復活節の福音書ヨハネ福音書が継続
して朗読されます。第2主日は、A年・B年・C年とも共通で同じ箇所がとられています。ヨハネによる福音書20章19節から31節で、内容は大きく3つに分かれています。①家に閉じこもる弟子たちへのイエス様の顕現(現れること)、②トマスの疑い、③ヨハネ福音書の執筆目的です。

 今日の福音書の箇所を、まず振り返ってみましょう。
『その日、週の初め日、つまり墓が空であることが発見された日の夕方、弟子たちのいる家の2階の部屋(アパ・ルーム)に、復活したイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言って挨拶されました。この部屋は主イエス様と弟子たちが最後の晩餐をされた部屋です。イエス様は手とわき腹を見せ、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言いました。さらに、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と言いました。
 この出来事があった時には、12人の弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。帰ってきて、仲間の弟子たちからイエス様が現れたという話を聞いて、言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」と。
 そして、その日から8日が経った時、すなわち1週間後に、復活したイエス様が再び現れ、今度はトマスの前に立たれました。
 「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。
 トマスは思わず、「私の主よ、私の神よ」と言いました。
 この書物が書かれたのは、イエス様が神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエス様の名により命を受けるためです。』

 今日の福音書箇所で、イエス様が言った言葉3つと、トマスが言った言葉1つにスポットを当ててみたいと思います。
 そのイエス様の言葉は、「あなたがたに平和があるように」「聖霊を受けなさい」「信じる者になりなさい」の3つ。トマスの言葉は「私の主、私の神よ」です。

 1つずつ考えます。まず、イエス様が言った「あなたがたに平和があるように」という言葉ですが、ヘブライ語では「シャローム」と言います。ユダヤ人の日常的な挨拶「やあ、今日は」といったような意味合いをもつ言葉です。この言葉は「主の平和」と言って、聖餐式の中で私達は平和の挨拶として行っています。「シャローム」とは、戦争や争いのない状態というよりは「神が共におられる」ときの状態を意味します。
 弟子たちは主イエス様が捕らえられるとちりぢりに逃げてしまいました。先生であるイエス様が捕らえられ、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町には主イエス様の残党を探して捕らえようとしている人々がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、戸に鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。そこへ主イエス様が何のとがめる言葉も言わずに「あなたがたに平和があるように」「やあ、今日は」と挨拶してくださったのです。どんなにか嬉しくホッとしたことでしょうか。弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は戸に鍵をかけて閉じこもるところにはありません。ここの「戸」は原文のギリシャ語では複数になっていました。英語ではdoorsとなっていました。この「戸」は家の戸であるとともに弟子たちの心の「戸」でもあるのだと思います。弟子たちは、いくら鍵をかけていても心の戸は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和は主イエス様が共にいてくださるところから来ます。イエス様が共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これが「キリストの平和」です。この平和に満たされたとき、戸を内側から開いて出て行くことができるだと思います。

 続いては、主イエスの言葉「聖霊を受けなさい」です。イエス様はこの言葉の前には、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言っています。「派遣・ミッション」ということです。これまで父である神様に派遣された者としてイエス様が地上で行ってきたことを、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、使命を果たすことができるように「聖霊」という神様からの力が与えられるのです。
 復活したイエス様は弟子たちに言います。22節・23節です。『彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」』
 この「息」と訳されている聖書の言葉はギリシャ語では「プネウマ」と言いますが、息とか風といった意味とともに「霊」という意味を持つ言葉です。ですから、復活したイエス様が弟子たちに「プネウマ 息」を吹き込まれたというのは、復活のイエス様御自身の「プネウマ 霊」を注ぎ込まれたと読むことができます。私たちは人の罪を赦すことはなかなかできません。それができるとすれば復活のイエス様の「プネウマ 息・聖霊」を受けることによってなのだと思います。
         
 次に注目したい主イエス様の言葉は「信じる者になりなさい」です。その言葉はトマスに向かって言われました。24節には 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」とあります。トマスの名はディディモ(訳せば「双生児」)です。トマスは「双子」だったようです。あるいは、トマスがイエス様とよく似ていたので「双子」と呼ばれていたのかもしれないと、私は想像します。ちなみに、英語でdoubting Thomasという表現があります。(証拠なしでは信じない)疑い深い人のことをこう表現します。疑い深いところがあり仲間の復活の証言を最初信じられなかったトマスでしたが、ひとたび復活したキリストに直接出会うと、今度は反対に地の果てまでキリスト教をもたらす者となったのです。伝承では、あの時代、種々の悪条件に遭いながら、インドまで宣教に行ったそうです。そうできたのはトマスが主イエス様のこの言葉「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」に聴き従ったからだと思います。これこそ、まことの信仰であります。

 最後にトマスの言葉「私の主、私の神よ」です。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言っていましたが、主イエス様が現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい」と言って、トマスは、自分の罪が主イエス様を釘付けにし槍傷をつけたことを示され、更に主の十字架は自分の罪の赦しであることを示され、感極まり、「私の主、私の神よ」と信仰の告白をしたと私は考えます。イエス様の御体に触れることなしにです。ここでは、イエス様を「私の主」だけでなく「私の神」と呼んでいます。これはヨハネ福音書の究極的な「神」キリスト論であり、信仰告白と言われます。
  
  私たちは誰も神様、イエス様を見たことはありません。でも復活したイエス様はいつも私たちと共にいてくださいます。そして「見ないのに信じる人は幸いである」とイエス様は言っておられます。見ることなく信じることが大切なのであります。さらに言えば、見ることよりも聞くことが大切なのかな、とも思います。何を聞くかといえば神様の声、そしてイエス様の言葉を聞くことが大切なのだと思います。
 皆さん、イエス様はいつも私たちに「あなた方に平和があるように」と語りかけ、新しい使命を授け、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけておられます。そして、その使命は「ミッション、宣教」ということでもあると思います。「使命」という字は「命を使う」と書きます。私たちは、神様の宣教のため自分の命を使いたいと願います。
 前橋の教会の新築なった会館を、神様の宣教のツール(道具)として使うことができるよう願います。地域に開かれた教会、地域に奉仕する教会を目指したいと思います。
 復活された主が共にいてくださり、聖霊を送ってくださることを知り、日々、その聖霊を受け、復活のキリストの証人としての使命を果たすことができるよう祈り求めて参りたいと思います。

 

映画「バラバ」に思う

 復活前主日や受苦日の礼拝の福音書で、総督ピラトが「イエスとバラバのどちらを釈放するか」と尋ねたとき、群衆は「バラバ」を選んだことが記されていました。先週の「聖書に聴く会」でもバラバのことが少し話題になりました。そこでは「バラバは身体的には自由にされたが、精神的には救われない」というような意見があったように思います。暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバは自分の意志とは関係なく、イエス様と天秤にかけられ釈放されました。その後のバラバはどう生きたのでしょうか? 
 聖書にはそのことについては記されていません。多くの人がバラバのその後の生き方には関心があったと思われますが、その後の彼を描いた作品としてはスウェーデン人のペール・ラーゲルクヴィストが1950年に発表した小説「バラバ」が有名です。彼はこの小説によって1951年にノーベル文学賞を受賞します。この度、この作品を映画化したイタリア・アメリカの合作映画「バラバ」(1961年制作)をDVDで観ました。

 この映画の主演(バラバ)はフェリーニの「道」の演技で著名なアンソニー・クインです。豪壮の様子を示しながらもナイーブな感情を持つこの作品のバラバにぴったりの役どころと思いました。
 ネタバレになってしまうと思いますが、こ映画のあらすじは以下のようです。
『2000年前のエルサレム。盗賊の親玉バラバは獄中の身にあったが、罪人を1人裁く代わりに別の1人の罪人を釈放するという、年に一度のユダヤ民衆の慣習によって、イエス様と引き換えに釈放されることになった。
 自由になったバラバはかつての愛人レイチェルと再会するが、彼女は既にキリスト教の信仰に目覚めており、バラバにも改心(回心)するよう諭すが、彼はそれを拒否し、イエス様を口汚く罵る。
 ゴルゴダの丘で磔になるイエス様の頭上で、太陽が黒い影に覆われ、イエス様は息を引き取られる。レイチェルはバラバにイエス様は三日後に復活すると告げ、気になったバラバが墓に向かうとイエス様の遺骸は消え失せ、墓は空だった。

 バラバは誰かが持ち去ったのだと言って、復活を信じようとしない。
 やがてレイチェルが他のキリスト教徒たちと共に捕えられて処刑されると、バラバは荒れて再び捕えられ、シチリアの硫黄鉱で強制労働に従事させられる。有毒ガスの渦巻く地獄のような労役を生き抜いたバラバとキリスト教徒のサハクは州総督のはからいによって、剣闘士養成所へ入れられる。
 しかし、サハクは闘技場で相手を殺すことを拒んだため、反逆罪に問われ、隊長のトルヴァドに処刑された。怒ったバラバはトルヴァドと対決、彼を倒した。
 皇帝の命によって自由人になったバラバがサハクを葬った直後、ローマで大きな火災が起きた。バラバはこのとき「今こそ古きものを焼き払うのだ」という神の声を聞いたように思い、狂ったように火をつけて回り、捕えられた。多くのキリスト教徒と共に十字架にかけられたバラバは、最後は静かに「すべてを委ねます」と安らぎに満ちて息を引き取るのだった・・・』

 バラバは、イエス様が身代わりになって、死刑を免れ、解放されました。その後の彼を待っていたのは、様々な苦難でしたが命を長らえました。それをサハクは「生き延びたのは神意」と言っていました。サハクからイエス様のことを教えられても、バラバはこれを否定し、反抗し、悶々として過ごしました。
 しかし、バラバは、最後には、すべてを十字架の上のイエス様に委ねたのでした。本当の救いとは何か、この作品は多くのことを考えさせます。
 バラバはイエス様によって身体的に自由を得ました。それは彼が何かを為したからではありません。「Bar abba [s]」という名前は「父の息子」を意味しますが、バラバも父なる神様の息子であるゆえと言えます。しかし、その自由はつかの間で、その後は苦難があり逡巡する日々を過ごします。そして、すべてを主に委ねたとき平安を得たのでした。
 このことは私たちにも言えることではないでしょうか? 
 私たちは人生のあるときにイエス様に出会い、自分自身の生き方が変わり(回心)、自由を得ました。それは、私たちが何か立派な行いをしたからでなく、父なる神様の子どもであるゆえと言えます。しかし、それですべてが解決した訳でなく、その後の人生では苦難があり逡巡の日々を経験しています。それが今も現在進行形であるように思います。すべてを主に委ねるとき平安を得ることができるのは真実です。復活したイエス様は今も生きて私たちを見守り、共にいて下さいます。そのことを忘れず、イエス様を信頼して日々を過ごして参りたいと思います。

復活日聖餐式 「空の墓」と復活されたイエス様

 本日はイースター(復活日)です。前橋の教会で主の復活を記念する聖餐式を捧げました。
 聖書箇所はコロサイの信徒への手紙3:1-4とルカによる福音書24:1-10。説教では、「空の墓」と復活されたイエス様について知り、イエス様は私たちの「空っぽ」の心を満たし、いつも共にいてくださることを心に留め、神様から離れている状態からイエス様とつながって生きることができるよう祈り求めました。「愛する子供たちへ マザー・テレサの遺言」の中にある「空っぽ」の文章も活用しました。

         「空の墓」と復活されたイエス

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 イースター、おめでとうございます。主イエス様のご復活を、皆様と祝い、礼拝後には、新築の会館で交わりの時を持つことのできる恵みに感謝します。
 イースター(復活日)はクリスマスと並ぶキリスト教の2大祝日です。イエス様の復活こそがキリスト教の始まりの出来事であります。また、イースターは主イエスをキリストと信じる信仰の命、新しい霊の命を神様から与えられたことに感謝し、その喜びを分かち合う日でもあります。
 ちなみに英語の「Easter」(イースター)は、ゲルマンの神話に出てくる春の女神「Eostre」(エオストレ)に由来すると言われています。イエス様の復活と、春をお祝いするお祭りを象徴する女神のイメージが結びつき、「Easter」(イースター)と呼ばれるようになったと考えられています。さらに言えば、春の女神は太陽と共にやってくるため、太陽が昇る東を「East」(イースト)と呼ぶようになったそうです。

 さて、本日の聖書についてです。聖書日課C年の復活日の福音書は、ルカのいわゆる「空の墓」の箇所が取り上げられています。また、使徒書はコロサイの信徒への手紙3章で冒頭から「あなたがたはキリストと共に復活させられた」(一節)という表現が見られ、キリストにある全く新しい生き方について述べています。 
 本日の聖書を通して神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか?
 福音書を中心に考えます。本日の福音書箇所はルカによる福音書24:1-10で、
エス様が復活された日の出来事が述べられています。この箇所を振り返ってみます。
『イエス様が十字架で亡くなった3日後の日曜日、週の初めの日の明け方早く、女性たちは、準備しておいた香料を持ってイエス様の墓に向かいました。墓に行ってみると、墓の入口をふさいでいた大きな石が横穴の入口のわきに転がしてありました。中に入って、イエス様の遺体を安置した所へ近づいたのですが、そこにあったはずのイエス様の遺体が見つかりません。墓は「空っぽ」だったのです。女性たちは驚くと共に、どうしていいのか途方に暮れました。すると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れ、女性たちは、恐くなって、地に顔を伏せると、その二人は言いました。5節の途中からです。
 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」
 そう言われて、弟子たちが聞き、また女性たちも聞いていた、かつてイエス様が語られた言葉を思い出しました。
 そこで、女性たちは、墓から急いで帰り、11人の弟子たちやほかの人たちがいる所に行って、墓の様子についてみんなに一部始終を知らせました。
 この女性たちとは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の女性たちでした。女性たちはこれらのことを弟子たちに話しました。』

 ここまでが本日の箇所ですが、この後についても少し言及した方が理解が深まると思いますので、お話しします。
『女性たちからこの話を聞いても、弟子たちは、馬鹿げたことと思って、すぐには信用しませんでした。しかし、ペトロは、立ち上がって墓へ走り、墓のある洞窟を身をかがめて中をのぞくと、イエス様を葬った場所には、イエス様を包んだ亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰りました。』

 これが、日曜日の朝に起こった出来事です。ルカが伝えるイエス様の復活の出来事です。日曜日の朝のこの状況では、確かに葬ったはずの墓が「空っぽ」になっていたこと、女性たちや弟子たちもこの事実をはっきり見たのですが、その直後には、イエス様の復活を信じることができなかったのです。
 ところが、その後、復活したイエス様が、たびたび弟子たちに現れたことから、イエス様のご復活が信じられるようになっていきました。これが「主イエス復活の出来事」であり、イエス様が死んでよみがえられたという、奇跡の中の奇跡として伝えられてきたものです。

 このことから、神様は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? 
 主イエス・キリストの復活。これは教会が誕生することとなった出来事です。これがなければ、キリスト教は生まれなかったと言われます。主イエス様が十字架におかかりになった時、イエス様を捨てて逃げてしまった弟子たちには、主イエス様を救い主・メシアとして宣べ伝えていく力も勇気も根拠もありませんでした。弟子の一人一人は、イエス様というお方と出会い、共に旅をして過ごした日々を懐かしく思い出すことはあったとしても、それは弟子たちの思い出の一つに過ぎなかったことでしょう。しかし、主イエス様は復活されたことにより、思い出の中の人ではなくなったのです。復活されたイエス様は、弟子たちの思い出の中に生きる方ではなく、どんな時にも共におられ、生きて働く神の御子であることを弟子たちに示されたのです。
 そしてそれは、イエス様の弟子として歩む私たちにも、イエス様がいつも共にいてくださるということです。復活されたイエス様は、私たちの心の中に、私たちの生活の中に、共にいてくださるのです。 

 ところで、イエス様の復活は、今、朗読しましたように、墓が「空っぽ」だったというところから始まりました。この意味することは何でしょうか?
 「空っぽ」という言葉から思い浮かべる文章があります。それはこの本「愛する子供たちへ マザー・テレサの遺言」の中にある「空っぽ」という文章(P.48)です。

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こうあります。
『神は、いっぱいのものを満たすことができません。
 神は、空っぽのものだけを満たすことができるのです。
 本当の貧しさを、神は満たすことができるのです。
 イエスの呼びかけに「はい」と答えることは空っぽであること、あるいは空っ ぽになることの始まりです。
 与えるためにどれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが問題なので す。
 ・・・(中略)・・・
 自我から目を離し、あなたが何も持っていないことを喜びなさい。
 あなたが何者でもないことを そして何もできないことを喜びなさい。』

 心が「空っぽ」であることにより、そこを神様が満たしてくださり、イエス様の恵みが豊かに満ち溢れるのです。私たちにとっては「空の墓」も恵みなのではないでしょうか? 心が「空っぽ」であるなら、そこにイエス様が復活してくださるでしょう。苦しかったり悲しかったり、つらくてどうしようもないこともあるでしょうが、信仰を持って心を「空っぽ」にした時に、イエス様はそこに恵みをもって復活してくださるのです。
 本日のイエス様の復活の箇所から神様が私たちに伝えておられるのは、このことではないでしょうか?

 この世界の秘密、人生の秘密の扉が最初に開いた所、それがこの「空の墓」です。イエス様が墓の中に既にいないということ、それはイエス様が死の中にはもういないということです。そのことは、イエス様は生きているということを示しています。イエス様はいつも私たちと共にいて、「空っぽ」の心を満たしてくださるのです。苦しみや悲しみを経験する時に、「神様が共にいてくださる、主イエス様が共にいてくださる」と信じることのできる信仰は、私たちにいつも生きる力を与えてくれる、神様からの恵みに満ちた賜物であります。

 皆さん、私たちは毎週、日曜日、主日に礼拝をささげています。それはイエス様が復活された日を記念しているのです。主イエス・キリストが復活された日、これを主日と言います。この日に私たちは共に集い、聖書を読み御言葉に思いを巡らし、ご聖体をいただき、感謝と賛美を捧げています。私たちはこの礼拝の中でイエス様にお会いし、「私はいつもあなたと共にいる」という宣言を聞いています。私たちはそのことをいつも心に留め、神様がイエス様を死から復活させられたように、私たちも神様から離れている罪の死の状態からイエス様とつながって生きるという永遠の命によみがえらせてくださいますよう、祈り求めて参りたいと思います。

 

聖金曜日(受苦日)礼拝 『エッケ・ホモ(この人を見よ)』

 本日は聖金曜日(受苦日)です。午後2時から前橋の教会で主の十字架を記念する礼拝を捧げました。
 聖書箇所はヘブライ人への手紙10:1-25と7ヨハネによる福音書18:1-19:37。説教では、イエス様を見つめ、自分にとって何が真実か、イエス様の示す真理は何なのか思い巡らす中で「神は愛である」ことを実感できるよう神様の導きを祈り求めました。ボスの絵画「エッケ・ホモ」や聖歌357番「この人を見よ」も活用しました。

         『エッケ・ホモ(この人を見よ)』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 私たちは今、聖金曜日の、イエス様の受難の礼拝を行っています。本日の福音書箇所はヨハネ福音書のイエス様の十字架の箇所で、かなり長い朗読がありました。

 ここでは、イエス様は総督官邸に連れて行かれ、ピラトとイエス様が、長々と対話しています。今回私がこの箇所でまず注目したのは、ピラトの次の言葉です。18章38節です。『ピラトは言った。「真理とは何か」。』
 ピラトはイエス様にこう尋ねました。ローマ帝国ユダヤの総督である権力者、ピラトも真理を探し求める人であったのです。この「真理」は原語のギリシャ語では「アレセイア」と言い、英語の聖書ではtruthとありました。真実とも訳せます。ギリシャ語の辞書には両方ありました。言い換えれば、本当のもの、あるいは最も大切なもの、ということだと思います。「真理、あるいは真実とは何か」とピラトが尋ねて、この対話が打ち切られます。結局、ピラトにとって、本当に大切なものは何なのか、分からないままでした。それは私たちも思い巡らすべきテーマだと思います。自分にとって真実とは一体何なのか、別の言葉で言えば、自分にとって大切なものは一体何なのか、ということでもあります。
 ピラトにとって、それは権力でした。ですから、イエス様に向かって「王なのか?」と聞いています。「お前はユダヤ人の王なのか」と。18章33節です。ピラトは非常に残忍な人で、結局は失脚しますが、あまりに残酷で、次々と人を殺しても平気だったと言われます。しかし、ここに出て来るのは弱気なピラト、ここでのピラトはイエス様の味方で、「イエス様を救いたい」と願っているようにさえ感じます。ピラトはイエス様を釈放したいと思ったようです。それで、紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせて、この姿を皆の前に見せたら、もう、皆許してくれるだろうと考えたのかもしれません。19章5節にこうあります。
『イエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て、出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。』

 ピラトはイエス様を人々の前に連れていって、「見よ、この男だ」と言いました。
 ラテン語では「エッケ・ホモ」と言います。「見よ、これが人間だ」「この人を見よ」とも訳せます。次に注目したい言葉がこれです。
  「エッケ・ホモ」という言葉で思い浮かぶ絵画があります。それがこのヒエロニムス・ボスの「エッケ・ホモ(この人を見よ)」です。

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 この絵では画面を左右に大きく分け、左上に群衆の前に引き出されたイエス様、右下に死刑を求める群衆を描いています。イエス様はむち打たれ、全身に傷を負って血を流し、腰をかがめ立っているのもやっとの様子です。壇上のピラトは「エッケ・ホモ(この人を見よ)」と述べ、それに応える群衆は憎しみに満ちた眼差しでイエス様を見上げ「十字架につけろ」と叫んでいます。ピラトと群衆の言葉がそれぞれ金の文字で記されています。祭司長たちにそそのかされ死罪を要求する群衆。五日前には、イエス様のエルサレム入城を枝を敷いて歓迎したのに、こうも簡単に変わってしまう群集心理の恐ろしさを感じます。

 「この人を見よ」は聖歌にもありますね。それが先ほど歌った聖歌357番です。聖歌集をお開きください。
 1節の歌詞はこうです。
「1 まぶねの中に産声あげ たくみの家に人となりて 
   貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」 
 2節・3節も見て参りましょう。
「2 食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね 
   友なきものの 友となりて 心砕きし この人を見よ 
 3 すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも 報いられで 
   十字架の上に あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」
 この聖歌はイエス様の生涯が歌われ、4節までありますが、各節の最後がどれも「この人を見よ」となっています。特に3節が今日の箇所を表しています。 
 ピラトは「この人を見よ」「見よ、この男だ」と言いますが、人々の「十字架につけろ」という声に圧倒され、結局、イエス様を釈放できませんでした。ここではピラトは証人のようです、「見よ、この人を」と。途中から証人のようになってきて「見よ、あなたがたの王だ」と、逆にこの人が王だと言っています。19章14節です。ピラトがそう告白しても、「十字架につけろ」という声に、ピラトは恐れおののいてしまいます。

 「見よ、この人を」(エッケ・ホモ)ということを、私たちも日々の生活や祈りの中で行うことが求められていると思います。十字架につけられたイエス様を見つめて、そこに何を見い出すかということです。皆さんは十字架のイエス様の姿に、どのような真実、真理を見い出されますか? 

 イエス様は言います。18章37節の後半です。「私は、真理について証しするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」と。声だけではなくてイエス様の姿を見る、ということも含めているのでしょうが、何が自分にとって真実であるか、イエス様は何の真理を証ししたのか、それを知るためにはイエス様の声を聞き、姿を見ることが肝要であるということだと思います。つまり、イエス様の姿にどういう真実を見い出すのか、イエス様の十字架、復活、あるいはその言葉や行動に、どういう真理を見い出していくのかということです。
 最終的にイエス様が証しした真理は、ヨハネによる福音書の始めから最後まで、そして旧新約聖書の始めから最後までに記されているように「神は愛である」ということだと思います。私たちは「神は愛である」ことをご自身の生き方で示したイエス様をよくよく見つめることが求められていると考えます。

 結局、ピラトはイエス様を十字架につけます。罪状書きには、「ナザレのイエスユダヤ人の王」とありました。イエス様は王として、ナザレの人ですが王として宣言されて十字架上で亡くなります。しかも、ヘブライ語ラテン語ギリシア語で、その時の世界の共通語全部で書いてあったのです。つまり、全人類に向かってそれが宣言され、イエス様が全人類の救い主であることを指し示していると考えられます。
 イエス様を、十字架上のイエス様を私たちを王として、私たちのメシア、救い主として、この世を治めている者としてイエス様を見つめていくことができるかどうか。そこに、私たちの生きていく真実を見い出していけるかどうか。それを日々の生活や祈りの中で振り返りたいと思います。自分の真実は何なのか、そして、イエス様の示す真理は何なのかを、祈りの中で十字架上のイエス様をよく見つめながら、そのようなことを今日の聖金曜日(受苦日)に思い巡らし、深めたいと思います。

 ちなみにギリシャ語で「テオリア」という言葉があり、それは「祈り」の体験の深みを表現した言葉で、日本語ではこれを「見神、神を見る」と訳しています。しかし、「テオリア」は直訳すれば「神の眼差し」であり、それは「神の眼差しの中に私たちが見出されること」です。言い換えれば「神様に見つめていただくこと」と言えます。私たちが聖堂内で祈るとき十字架のイエス様を見つめますが、実は「イエス様に見つめられている」のだとも言えます。そして、それは「神様に見守られている」ということであります。

 皆さん、イエス様は私たちを救うために十字架上で死を遂げられました。そのイエス様を見つめ、自分にとって何が真実で何を大切にしているか、イエス様の示す真理は何なのか思い巡らし、その中で「神は愛である」ことを私たちが実感できるよう神様の導きを祈りたいと思います。

 最後に、先ほど触れた聖歌357番「この人を見よ」の4節をお読みします。
 4 この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
   この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ
 私たちは、このように真理を証しするイエス様をよくよく見つめ、「神は愛である」ことを実感し、人となった生ける神であるイエス様を心から賛美する者でありますよう祈り求めたいと思います。
 しばらく黙想いたしましょう。

復活前主日聖餐式 『御手に委ねる信仰』


 本日は復活前主日(しゅろの主日)です。新町の教会で聖餐式を捧げました。

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 聖書日課はフィリピの信徒への手紙2:5-11 とルカによる福音書23:1-49。説教では、「御手に委ねる信仰」こそ私たちがキリスト・イエスに向かう姿勢であることを学び、そのことをもって、次主日の復活日を迎えることができるよう祈りました。
 この箇所で思い浮かべるマンテーニャの絵画《キリストの磔刑》も活用しました。

    『御手に委ねる信仰』

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン
  
 本日は、復活前主日です。復活日(イースター)の一週間前の日曜です。今日から一週間が聖週Holy weekです。先ほど礼拝の冒頭に、聖堂内の聖画により「十字架の道行きの祈り」を捧げることができ、感謝いたします。
 復活前主日はしゅろの主日Palm Sunday)とも言われます。今日の祭壇にもしゅろが飾られていますね。イエス様がエルサレム入城の時に、群衆がしゅろを持ち、その枝を道に敷いて歓迎した日を記念しています。カトリック教会では「枝の主日」とか「受難の主日」と言われています。

 本日の福音書箇所はルカによる福音書23章1節-49節です。聖金曜日(受苦日)の早朝から午後3時頃までのことであり、ピラトやヘロデから尋問を受け、死刑の判決を下され、十字架上で息を引き取るイエス様の姿を記しています。先ほどの「十字架の道行き」の第1留から第12留までの箇所に当たります。本日は、特にイエス様が犯罪人の一人に語った「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)の御言葉を中心に学びたいと思います。

 イエス様の十字架が2人の犯罪人の間に立てられたことをマタイも、マルコも伝えています。しかし十字架の上での3人の会話を伝えているのはルカだけです。ここの聖書の言葉をもう一度お読みします。39節から43節です。
 <はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。>

 私がこの箇所で思い浮かべるのはこの絵、ルーブル美術館にあるマンテーニャの《キリストの磔刑》です。

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  この絵では「ゴルゴタされこうべ)の丘」ではりつけにされたイエス様が描かれています。皆さんから見てイエス様の十字架の右側には、「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」と罵った犯罪人、左側には、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言った犯罪人が描かれています。右側の犯罪人は暗く、左側の犯罪人は明るい色をしています。
 ここで「犯罪人」と言われている二人について、マルコとマタイは「二人の強盗」(マルコ15:27、マタイ27:38)と記しています。彼らも十字架の周りでイエス様を罵っている人々や議員や兵士たちと同じ立場に立っていました。イエス様は彼らすべての人たちのために父なる神に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(34節)と祈りました。その中でイエス様の左側の犯罪人だけが「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言いました。イエス様の祈りの言葉に反応したのは彼だけでした。彼だけが十字架刑を当然のこととして受け止め、悔い改め、イエス様の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という祈りに「アーメン」と答え、彼だけが「思い出してください」と祈ったのです。
 人生の最後における彼の祈りはただ「御国においでになるときには、私を思い出してください」ということでした。御国とは、英語ではYour kingdom、「あなたの王国」であり、この「国」はギリシャ語で「バシレイア」、神様の統治を意味します。ですから、御国とは神様が統治する場所です。神様の統治する御国に行ったら「私を思い出してください」と言うのです。この一人の犯罪人にとって、自分の人生を振り返るとき、この人と共に死ねるということこそ最大の幸運でした。その最期の瞬間に「私を思い出しほしい」というのが彼のささやかな願いであったのです。
 その祈りに対してイエス様は「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われたのです。イエス様はここで「楽園」という言葉を使っています。「楽園」とはギリシャ語では「パラデイソス」、英語で「パラダイス」と言う言葉です。この言葉はもともと「囲いのある庭」を意味する言葉で「神の庭」を意味するそうです。口語訳聖書ではそのまま「パラダイス」と訳されていました。「楽園」となったのは、創世記のアダムとエバエデンの園を70人訳聖書(ギリシャ語訳)でこれを表すのに「パラデイソス」の言葉を使ったからのようです。
  ここでのイエス様の言葉では「パラダイス」という言葉と共に「一緒に」という言葉も重要であると考えます。「私と一緒に」つまり、「イエス様とともに」とは、イエス様の「弟子、同労者、仲間」であることを意味します。
 イエス様はこの一人の犯罪人に言います。「あなたは今、私と一緒に十字架の上にいる」。そして「今、まさに一緒に」死のうとしている。これから後も、私たちはずっと「一緒にいる」。それが「パラダイス」という言葉の意味です。「イエス様と一緒にいる」ということがパラダイスであるのです。
  そして、旧約聖書の時から、楽園、パラダイスとは「神の祝福と喜びにあずかる場所」です。このイエス様の「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」という御言葉は、「あなたは今日、神の祝福、救いにあずかる」ということだと言えます。

 私たちはイエス様の十字架の両脇の二人の犯罪人のどちらにもなれます。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」とイエス様を罵る人になるか、あるいは「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と謙遜に言う人になるか、です。   
 私たちの基本姿勢はどうあったらいいのでしょうか? 
 イエス様の十字架上での最後の言葉がそれを示しているように思います。46節です。
『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、私の霊を御手に委ねます。」こう言って息を引き取られた。』
 「父よ、私の霊を御手に委ねます。」という言葉の背景には詩編31編6節があり、午後3時はユダヤ人の夕方の祈りの時間であり、引用されているこの詩編は、その祈りの言葉であると言われます。「霊」と訳されたギリシャ語は「プネウマ」で、この言葉は「風」とか「息」とも訳される言葉です。神が人の鼻に命の息を吹き入れたとき人は生きる者となったように、「プネウマ」は人間の生きる力の源泉でり「全存在」とも言える言葉です。自分の「全存在」である霊を父なる神に委ねるイエス様の従順な信仰こそ、私たちが持つべき基本姿勢ではないでしょうか?
 
 皆さん、十字架上のイエス様の隣りにいて「御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言ったこの一人の犯罪人の姿に、私たちはキリスト・イエスに向かう謙遜の姿勢を学びたいと思います。
 復活前主日である本日、私たちは心から悔い改めて、イエス様に寄り頼み、「父よ、私の霊を御手に委ねます。」という自分の全存在を神様の御手に委ねる信仰をもって、復活日(イースター)への心構えを整えたいと願います。そして、そうできるよう、この礼拝の中で祈って参りたいと思います。