マッテアとマルコの家

勤務している前橋聖マッテア教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記します。

『国分友里恵「この人を見よ-現代賛美歌続編-」に思う』

 今年の聖金曜日(受苦日)の礼拝における説教において聖歌357番「この人を見よ」を取り上げました。ローマ総督ポンテア・ピラトがユダヤ人たちに言った言葉「この人を見よ」(エッケ、ホモ)について思い巡らし、その事の関連で言及した聖歌でした。
 その歌詞は、以下の通りです(作詞は由木康牧師)。
「1 まぶねの中に産声あげ たくみの家に人となりて 
   貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ 
 2 食する暇も うち忘れて 虐げられし 人を訪ね 
   友なきものの 友となりて 心砕きし この人を見よ 
 3 すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも 報いられで 
   十字架の上に あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ
 4 この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
   この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神なれ」
 この聖歌はイエス様の生涯が歌われ、各節の最後がどれも「この人を見よ」となっています。
 由木牧師によれば、この創作賛美歌の原形ができたのは1923年のこととのことです。選りすぐれた素晴らしい歌詞ですが、約100年前の作品です。
 今回、この賛美歌の新たな歌詞と歌唱に出会いました。それが『国分友里恵「この人を見よ-現代賛美歌続編-」』のCDの最初の曲です。

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 国分友里恵は1983年に林哲司プロデュースによるアルバム「レリーフ」にてデビューした女性シンガーです。1996年以降は、クリスチャンとしての活動を始め、「ふたりだけの言葉」、「きみもそこにいたのか」等、5枚のアルバムをリリースしたそうです。CD「きみもそこにいたのか」にはNHK連続テレビ小説「エール」で取り上げられ、私も以前ブログで紹介した「うるわしの白百合」が収録されていました。そして、2009年、旧来の賛美歌の歌詞をわかりやすく書き直した「現代賛美歌」(CDと歌集67曲)を発表しました。「この人を見よ-現代賛美歌続編-」は10年ぶりの賛美歌集とのことです。CDの解説には「わかりやすい歌詞、馴染み深いメロディ、今までにない新しい形でお送りする現代賛美歌続編」とありました。
 このアルバムを紹介する映像と音楽がYoutubeにアップされていました。以下のアドレスで見る(聞く)ことができます。
https://www.youtube.com/watch?v=3RceEw0zU14

   国分友里恵の「この人を見よ」の歌詞は以下の通りです。
「1 家畜の小屋で産声上げ 匠の家に人となりて 
   貧しき憂い 悩み苦しみ すべてを生きた この人を見よ 
 2 食べる暇さえ 惜しみ忘れ 虐げられた 人を訪ね 
   名も無き者に 寄り添い歩き 心砕いた この人を見よ 
 3 与えに与え 与え尽くして 死のほかなにも 報いられす 
   十字架の上に 上げられながら 赦し愛した この人を見よ
 4 この人を見よ この人にぞ こよなき愛は 現れたる
   この人を見よ この人こそ 人となりたる 生ける神です」
 原文の良さを残しつつ、私たちが普段使う現代語により意味が分かりやすくなっています。

 私はこのCDを今週の月曜(12日)、前橋にあるキリスト教書店「ハレルヤブックセンター」で見つけて購入しました。

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 私はこの書店の支援委員のメンバーで、前橋聖マッテア教会に異動になった挨拶で訪れたのでした。 「ハレルヤブックセンター」は群馬では数少ないキリスト教書店で、前橋の老舗である「福島ミシン店」が店舗の半分を書店にして2019年にオープンしました。私としては、単なる書店でなく、人々の交わりや宣教の拠点としての役割を期待し応援しています。よろしければ以下のホームページをご覧ください。http://maebashi-hallelujah.net/

 『国分友里恵「この人を見よ-現代賛美歌続編-」』のCDには14曲が収められています。

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    このアルバム中には、私の愛唱歌である聖歌520番「いつくしみ深い主の手にひかれて」も「主の手に引かれて」と題されてありました。この聖歌は石井筆子や新島八重の愛唱歌でもあります。
 私が親しんでいたのは以下の歌詞です。

「1 いつくしみ深き 主の手にひかれて この世の旅路を 歩むぞうれしき
 (おりかえし)
 いつくしみ深きふかき 主の友となりて み手に導かれ よろこびて歩まん
 2 深き闇路にも 荒き海路にも 主は共にまして 心は安けし
  (おりかえし)
 3 世の旅終わりて 死の波せまるも 恐れなく進まん み恵みによりて
  (おりかえし) 」

 今回の国分友里恵のアルバムではこうでした。
「1 主の手に引かれて 生きる人生よ 天の祝福と 慰めの中に
  (rep.)
   どこにいようとも 何をしていても 導く主の手に すがるほかない
 2 主よ 私の神 あなたの囁く 声を聞き分ける チカラをください    (rep.)
 3 この世の命の 尽きるその日には 新しい名前で 呼ばれる望みよ
  (rep.) 」

 この曲に関しては、私にとっては以前の歌詞の方が心惹かれます。「いつくしみ深き 主の手にひかれて」という冒頭の歌詞が、イエス様の限りない愛とそれに従う私の信仰を表現しているように思うからです。
 国分友里恵の聖歌・賛美歌を分かりやすく現代的に表現する試みは、信徒一人一人が自分の聖歌・賛美歌として解釈することを促しているように思います。それは自分の信仰生活を見つめることに他ならないと考えます。今後も、祈りの歌であり信仰告白でもある聖歌・賛美歌に寄り添ってもらい、歌いつつ信仰生活を歩んで参りたいと思います。

 

 

復活節第2主日聖餐式  「傷ついた復活の主を信じる」

 私はこの度の辞令により、高崎聖オーガスチン教会副牧師から前橋聖マッテア教会牧師となりました。新町聖マルコ教会については継続勤務し、協働司祭から管理牧師となりました。4月5日(月)から前橋聖マッテア教会での勤務が始まりました。
 これまで「オーガスチンとマルコの家」のブログで、高崎聖オーガスチン教会や新町聖マルコ教会の情報及び主日の説教原稿並びにキリスト教信仰や文化等について記してきました。この度の福田司祭の前橋聖マッテア教会への異動に伴い、今日から新たに「マッテアとマルコの家」というブログを開設します。
 次からが本日のブログの記事です。

 本日は復活節第2主日。新町の教会で聖餐式を献げました。先主日、新町は礼拝がなかったので、イースターを祝う礼拝として実施しました。聖書箇所はヨハネの手紙一5:1-6 とヨハネによる福音書20:19-31。説教では、「不信のトマス」の福音書箇所から、復活した主イエス様にあった傷跡にスポットを当てて、目には見えない「傷ついた癒し人」である復活の主がずっと私たちと共にいてくださることを信じ、日々主と共に歩んでいくよう勧めました。この箇所から思い浮かべるマッテア教会のステンドグラスについても言及しました。

   「傷ついた復活の主を信じる」

<説教>
 父と子と聖霊の御名によって。アーメン

 皆さん、主のご復活おめでとうございます。今日は復活節第2主日で、先主日が復活日(イースター)でしたが新町では礼拝がありませんでしたので、本日をイースターのお祝いの礼拝としています。受付に置きましたイースターのお祝いの「み言葉せんべい」をお帰りにお持ち帰りください。
 
  今日の福音書の箇所を簡単に振り返ってみましょう。
『その日、週の初め日、つまり墓が空であることが発見された日の夕方、弟子たちのいる家に、復活したイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と言って挨拶されました。イエス様は手とわき腹を見せ、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言いました。さらに、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。あなたがたが赦せば罪は赦される」と言いました。
 この出来事があった時には、12人の弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。帰ってきて、仲間の弟子たちからイエス様が現れたという話を聞いても信じられず、こう言いました。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」 と。
 そして、その日から、8日が経った時、すなわち1週間後に、復活したイエス様が再び現れ、今度はトマスの前に立たれ、こう言いました。
「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 と。
 トマスは思わず、「私の主よ、私の神よ」と言いました。イエス様は「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と言いました。
 この書物が書かれたのは、イエス様が神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエス様の名により命を得るためです。』

 このような箇所ですが、今日は復活した主イエス様にあった傷跡にスポットを当てて考えたいと思います。
 25節で、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」と、頑なに言いました。そして、一週間後、イエス様はもう一度、弟子たちの前で復活されました。復活された主の体には、十字架に釘付けられた傷跡が残っていました。復活したイエス様に傷跡が残っていたのです。
 復活したイエス様の体の中で、どこが一番輝いていたのか、と考えると、十字架の傷跡、そこが一番輝いていたのではないでしょうか?
 傷こそが輝く。傷跡というか、傷そのものが一番輝いていた、というのが、私たちに対する復活の大きな恵みではないかと思います。
 このことで、私はあるステンドグラスを思い浮かべます。それは私が先週の月曜、4月5日から勤務している前橋聖マッテア教会の祭壇の上にあるステンドグラスです。

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 これは復活の主イエス様を描いていますが、右の手のひらにはっきりと釘の傷跡が記されています。そしてそこが輝いているように私には見えるのです。

 聖書に戻りますと、トマスはその傷の輝きを見て、イエス様の復活のすごさを、悟ったのではないでしょうか? 傷の輝きを見て、罪の赦しの恵みを感じた。あるいは自分の疑いが吹き飛ぶような信仰の恵みをいただいた。言い換えれば、悲しい心が喜びに変えられる。そのような体験をトマスはその時にしたのだと思います。
 イエス様のことを「傷ついた癒し人」と言う表現があります。ヘンリー・ナウエンに同名の表題の本があります。

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 英語では「The Wounded Healer」と言います。この本は「牧師のための手引書」ですが、牧会者のお手本はイエス様であり、それはイエス様自身が傷を負ったからこそ傷を負った人の思いを受け止め癒やすことができる、牧師もそのようであることが記されています。それは大きな恵みであります。
 そしてその恵みは、ここにおられる皆さん一人一人にも与えられていると言えます。キリスト者であるということは、この復活の恵みに与ることができる、その恵みをいただいているということであり、「傷が輝く」ということと言えるかもしれません。過去の体験や、今体験されているかもしれない、傷や、苦しみや、辛さや悩み。傷は傷のまま、治っていないかもしれない、今も傷を負っている方もおられるかもしれませんが、私たちがイエス様の復活に与るならば、傷は輝き癒やされ、恵みに変わるということです。これこそ神様の慈しみの大きな神秘であります。その恵みを私たちは、今日かみしめたいと思います。
 
 では、傷が輝くために、私たちに必要なことは何でしょうか? それはイエス様がおっしゃっています。29節です。「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と。
 見えないことを信じられるかどうか。見えている傷や苦しみは、「傷ついた癒し人」であるイエス様によってその傷は癒され、恵みがあふれてくるのです。その見えない恵みを信じられるかどうか、ということです。
 傷には癒しが与えられる。罪には赦しが与えられる。私たちの悲しみは喜びに変えられる。その癒し、赦し、喜びを、まだ見てなくても信じて歩むことができるかどうかです。復活した主イエス様による見えない恵みを信じていく中で、その傷は恵みと変えられていくのであります。

 皆さん、私たちは恵みの世界に生きているのです。恵みの世界を信じて私たちが歩むときに、神様の慈しみは私たちの心の中に、生活の中にあふれてきます。私たちは一人一人の生活の中に働いている、神様の恵みの力を見出し信じていきたいと思います。
 私たちは誰一人、イエス様を見たことはありません。でも復活したイエス様はいつも私たちと共にいてくださいます。そしてイエス様は「見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃっておられます。目には見えないけれど「傷ついた癒し人」である復活の主がずっと私たちと共にいてくださることを信じ、復活節に入った私たちが日々主と共に歩んでいくことができるよう、祈り求めて参りたいと思います。